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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編ホラー

お月さま

作者: 壱原 一

夜半ふと目が覚めた。隣で妻が上体を起している。どうしたのか窺うと、暗い寝室の隅をじっと見詰めている。


訝しんで夜目を凝らすものの、先に目ぼしい物は無い。妻にも特別の感慨は見て取れず、道を歩くような平時の顔でゆったり瞬き呼吸している。


寝惚けているかと推量しつつ声を掛ける。妻は隅を見詰めたまま、安らかに緩んだ声で、お月さまを見ていると言う。


「あんな所にお月さまある。不思議。見える?」


元より感性が豊かで、私などからすると、しばしば夢見がちと思われるほど自由な想像力を持つ妻である。


そこが魅力でもあるのだが、この時の口振りは明らかに異様で、朝に改めて問うてみたところ当惑して口ごもってしまう。


懸念して病院へ連れて行った結果、脳に腫瘍が見付かった。


膨れた組織に圧迫されて、睡眠や視覚の辺りに差し障りが出ていたのかも知れない。


折しも昨今の不況のため、住み慣れた家から倹しい古家へ転居せざるを得なくなり、関連の気忙しい物事が概ね片付いた時機だった。


快活でからりとしており、けれど夢見がちな繊細と脆弱を根深く兼ね備えている妻にとっては、こうした一連の動揺も、鈍い私には計り知れぬほど負担だったに違いない。


病床で心細げに空元気を吹かす妻を労わり、慣れない冗談でおどけて笑顔を誘う。


治療を終え、順調に退院し、夜間の奇行も二度となく、平穏を取り戻した数年後、あさ起きた私の隣で妻はひっそり頓死していた。


降って湧いた虚脱を受け止める間もなく、汲々と葬式を済ませて、弔問の人波も凪ぐ。漸く落ち着いた安堵の感を、分かち合いたい妻は居ない。


静まり返る家の中で、妻の気配の断絶と、随所に漂う名残に浸る。


すると、当初は不本意に過ごしていた陰気で狭苦しいこの古家が、妻と重ねた日々によって、掛け替えのない思い出に満ちた愛すべき我が家へ昇華していたと気付く。


あてどない感傷を抱え、しんみり床へ就いた深夜、やおら目が覚めて起き上がり、呼ばれるような心持ちで暗い寝室の隅を見る。


そこに真ん丸と膨らんで、青白く褪めた色をした、まるでお月さまのような人の相貌が浮かんでいた。


濃い眉をむっすり顰め、厚く腫れた唇を引き結び、肥大して垂れた瞼を黙然と閉じている。


ぷくりとせめぎ合う頬肉の奥で、噛み締められた顎が強張り、青黒く澱んだ血管がこめかみで筋を立てている。


ありあり無念を刻み込み、一切敬意を払われず、惨たらしく傷み果てた険悪な形相だった。


私は妻が腫瘍によって、お月さまを見たことに感謝した。


ついで、あるいはもしかすると、妻は自身を守るために想像力を行使して、不意に直面した怖いものを月に変えたかと考えた。


最近みょうな頭痛がして、病院で受診した結果、脳に腫瘍ができていた。


入院を控えた今夜、寝室でふと目が覚めて、起き上がり、隅にお月さまを見る。


同じように治った数年後、ひっそり頓死する予感がある。


妻の笑顔を思い出す。


それで構わないと思っている。



終.

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