自覚と無自覚と【アーサー視点】
「――では、品質管理については今後この体制を維持する形で。仕入れの方も問題ない?」
自席で資料の紙束をペラペラと捲りながら、アーサーは傍に控える男性秘書へ問う。
「はい、年間契約しておりますので」
「了解。次の予定はエーメリー伯爵夫人のところか……先月出した薔薇香水、在庫あるかな?」
「お得意様用のものがいくつか残っております」
「うん、じゃあそれと新作の爪紅も持っていこうか。あの夫人なら上手く宣伝してくれるだろう。……ああ、ご令嬢の分も忘れずに」
承知いたしました、と秘書が一礼するのに、アーサーは資料を置くと深く息を吐いた。
春は社交シーズン。つまり商会としては貴族相手の商売が捗る書き入れ時でもある。
必然的にオルブライト商会の重要な看板を背負う美貌の青年アーサーも多忙を極めていた。
毎年のこととはいえ目まぐるしい移動と商談。おまけに今年は商会長の指示で生産ラインの一部管理も任されている。必要なこととはいえ、まとまった休みが欲しくなるのが本音だ。
「……お疲れですね、アーサー様。コーヒーのお代わりをお持ちしましょうか?」
「ありがとう。どうせならミルクティーにしてくれるかな? うんと甘めで」
苦笑しながら請け負った秘書が部屋を出ていくのを見送り、すぐに視線を机の上へと戻す。次の予定までの間に書類の確認を済ませてしまわないと明日の予定にも影響が出る。移動時間も考えれば猶予は一時間もない。急がなければ。
(……あー、小腹が空いたな。ミリーのお菓子が食べたい)
最近、何かにつけて疲れを自覚するのと同時に芽生える欲求。ふんわりと甘い香りの少女の笑顔と彼女が作る美味しい焼き菓子を思い出し、アーサーは無意識のうちに溜息を吐いた。
彼女――ミリー・ベイカーと出会って既に一か月半以上が経過していた。
あまり物事に執着しない自分としてはかなりの頻度で彼女の店に通っているが、飽きる気配は今のところない。それどころか、まるで禁断症状のように定期的に足を運びたい欲求に駆られてしまう。そう、今この時のように。
(今週はまだ一度しか行けてないんだよなぁ……あー、また焼きたてのアップルパイが食べたい)
傍から見れば無心で書類を片付けているように見えるが、実際の思考の半分は別のところにある。元来器用な性質であるアーサーだが、これほど仕事に集中出来ないのは珍しい。
頭が疲れているのだろう。やはり糖分が必要だ。
そう思いながらも次々と決裁書類にサインを入れていると、ノック音と共に秘書が戻ってきた。
「――どうぞ」
顔も見ず「ありがとう」と口にしながら、早速ティーカップに手を伸ばす。が、そのすぐ隣に用意されたあるものを目にした途端、アーサーの動きは止まった。
するとその反応を期待していたのだろう秘書が思わずクスリと笑みの声を漏らす。
「実は昨日、商会の職員にとミリー・ベイカー様よりクッキーの詰め合わせをいただきまして」
「……ちょっと待って聞いてないんだけどそれ」
「ええ。ですから今、報告させていただいている次第です」
したり顔の秘書を睨みながら、アーサーは小皿に置かれた数枚のクッキー、その中の一枚を手に取った。相変わらず飾り気があまりないシンプルなそれは、だけど優しくて甘い香りを纏っている。
少し厚めにもかかわらず、歯ざわり自体はかなり軽い。噛むとホロホロと口の中でとけていく。
じっくり味わいながら嚥下し、持っていかれた口内の水分をミルクティーで潤す。そして気づく。甘めと注文したのに砂糖が入っていない。しかし、不満を言う気分は完全にそがれていた。
「お気に召しましたか?」
「――ああ、申し分ないよ」
この秘書との付き合いはそこそこ長い。仕事は早くて丁寧で気配りも出来るので重宝しており、アーサーのスケジュール管理も彼に一任している。つまり秘書は知っているのだ。アーサーがかなり苦労して時間を捻出し、あのパン屋に足繁く通っていることを。
「……もしよろしければ、今後はこちらで定期的に焼き菓子を購入して参りましょうか?」
「いや、その必要はない」
アーサーは即答しながら、もう一つ、クッキーを口へ放り込む。
「私自身が行かなければ意味がないんだ」
焼き菓子は目的の一つに過ぎない。
アーサーの主たる目的は、彼女に会うこと。それに尽きる。
(あの子といると、癒されるんだよなぁ)
ただ単に菓子が気に入っただけなら、それこそ秘書に頼めばいい。そうしない理由をアーサー自身、きちんと自覚している。
「アーサー様は、もしかしなくても彼女のことを……?」
「…………さて、ね。もしそうだとしても、彼女には既に想い人がいるから」
その言葉に秘書はそこそこ驚いたようで珍しく目を丸くしていた。
その態度に少しだけ溜飲を下げてから、アーサーはほんの少し思索に耽る。
(そう、彼女は俺のことが好きではない。そのことが、俺にはむしろありがたいのかもしれない)
この顔に生まれついた時から、女性からの熱視線を浴びることは避けがたい事象だった。仕事柄、むしろ役には立っているし不満はない。だけど、逆に自分を恋愛対象に置かない女の子という存在は稀で。
互いに安心して友好を深められることは、ちょっとした奇跡のようにも思えるのだ。
他の子とは違う扱いをしているのは十分に承知している。けれどこれを愛だの恋だのと簡単にラベリングする気はアーサーにはさらさらなかった。……少なくとも、今のところは。
「……で、明日の夜は流石に時間取れるんだよね?」
最後のクッキーを惜しみつつ食べ終えたアーサーが上目遣いに尋ねれば、秘書はしっかり頷いた。
「当日の御者にもあらかじめ予定を伝えておきます」
「助かるよ」
返答に満足し、アーサーは今度こそ集中して書類と向き合った。
一方、上司の邪魔にならないよう、秘書の男性は静かに退室する。
彼は下げた茶器と空になった皿へ目を落としながら、誰に言うでもなく心の中で呟いた。
(あんな幸せそうな顔してクッキー食べてる時点で、もう手遅れだと思うんですよねぇ……)
しかしそれを直接上司に言うのは野暮というものだろう。
出来る秘書はきちんと弁えつつ、そして上司の明日の夜の憩いを守るべく。
次の商談に向けての準備を粛々と始めるのだった。