服を返しに行っただけのはずが【2】
「で、本当に来ちゃうわけですね、アーサー様……」
「マズかった?」
「マズいというか、とても場に不釣り合いな感じはありますね」
ジャケットを返却した日から数日後。
この日の午後なら時間取れるから食べに行っても良いだろうか、とちゃっかり予告までされた結果、地域密着型の庶民的なパン屋の店内に目の醒めるような美貌の青年は一人でふらりと現れた。
別に華美な服装でもないのに目立ちすぎる容姿で明らかに浮いている。その証拠に他の客は皆一様にアーサーへと好奇の視線を向けていた。
「あの……それじゃあ奥にどうぞ。用意しますので」
事前に予告してくれていたおかげもあって、親にも既に説明済み。
もちろん時間も合わせてバッチリ準備もしていたミリーは、母に接客を任せて店内の二階にある自宅の方へとアーサーを招いた。パン屋の中にはイートインスペースはないので、焼きたてを食べて貰うなら必然的にこういう流れになる。
彼はウキウキとした様子で「お邪魔します」と遠慮なくミリーの後へ続いた。騒めく店内の雰囲気から明日以降、質問責めに遭う未来が容易に想像出来て気が重い。
(でも、せっかく来てくれたんだし! ちゃんとお礼も兼ねてもてなさないとっ!)
生来の真面目さから妙な使命感すら芽生えさせたミリーはアーサーをリビングへ通した後、手早く用意に取り掛かる。幸いなことにいい林檎が手に入ったので、自分が失敗さえしなければ美味しいアップルパイになることだろう。窯にアップルパイを入れて火の具合を確かめる。この感じなら十五分くらいで焼きあがる筈。ミリーはよしと頷くと、ティーセットを載せたトレーを持ってリビングへと戻る。
「すみません、二十分ぐらい待って貰っていいですか? 今焼いてるので」
「勿論。焼きたてを食べに来たわけだから、むしろ待ち時間も楽しみのひとつだよ」
「本当に甘いものがお好きなんですねぇ」
「ん? まぁ確かに好きではあるんだけど……」
そこで何故かアーサーの言葉が詰まる。
お茶の用意をしていたミリーが不思議に思って顔を上げると、
「君が作るものだからかな。こんなにも胸が躍るのは」
などと言って穏やかに微笑んだ。それを間近で浴びたミリーは瞬間的に顔を赤くする。美形の微笑みの破壊力たるや、下町の小娘には過ぎたるものだ。
「……アーサー様、あまりそういうことを軽々しく仰らない方が」
「何故?」
「貴方のような人から特別に褒められたり優しくされたりしたら、大抵の女性はコロッといっちゃうと思うので」
「――それは君も?」
「私? 私は別に……」
褒められるのは嬉しいし、優しくされたら人としての好意も持つ。けれどそれだけだ。目の前の男性は住む世界が違い過ぎるし、そもそもミリーには想い人がいる。恋愛感情に発展するようなことはない。
「なら良いじゃないか。俺だって誰彼構わずこういうことを言ったりはしないしね」
「でも恋人さんとかが嫌がりませんか? 私だったら普通に嫌ですけど」
「今は特定の恋人もいないし。結婚も当分は先だろうから問題ないよ」
どうやら態度を改める気はさらさらないようだ。ミリーは今一つ掴みどころのないこの美青年の説得は諦め、アップルパイの焼き具合を確かめるために窯の方へと戻った。それから何度か位置を変えて焼き色が均一になるように調整しつつ、焼き上がりを待つ。
ミリーの作るアップルパイは円型ではなく、最初から一人前のサイズになっている四角型だ。
六個ほど焼いたうちの一つを味見して問題がないことを確認してから、ミリーはアーサー用に二つ、自分用に一つ皿に盛りつけて、再びリビングへと足を向ける。
「お待たせしました。お口に合えばいいんですけど」
「そこは疑ってないよ。というか、匂いだけで既に美味しそうだ……っ!」
「あ、熱いので火傷に気を付けて食べてくださいね」
皿を置きながら忠告すれば、アーサーはキョトンとした顔をする。何かおかしなことでも言ったかと不安になったところで、彼は子供のようなあどけない表情で笑った。
「こういうの……凄くいいなぁ。女の子から『気を付けて食べて』なんて心配されるのは新鮮だ」
「だってアーサー様、お菓子を前にすると途端に子供っぽくなりますし」
「そりゃあ美味しいものを目の前にしたら自然とテンションは上がるものだろ?」
アーサーはフランクな言葉とは裏腹に優雅な動作でナイフとフォークを使いながら、アップルパイを口へと運んだ。ミリーも向かい側に座って自分の分を食べ始める。
バターが香るサクサク食感のパイ生地。ゴロっとした林檎のコンポートにはシナモンを少し強めに効かせてある。炊いたカスタードを挟むレシピも好きだが、今回は林檎が良かったので敢えてコンポートだけのシンプルなものにした。自画自賛にはなるが、美味しく出来ていると思う。
チラリと目線を向ければ、アーサーは無言でカトラリーを動かし続けていた。というか、もう既に一個目を食べ終えているどころか二個目も残り少ない。
徐々にペースが落ちてきたのは、お腹がいっぱいになったというよりは食べてしまうと無くなってしまうことを惜しんでのもののように思えた。そういうところも子供っぽい。
「……あの、おかわりありますけど」
「!? ぜひ頼むよ!」
食いつきが半端ない。ミリーはお土産用と家族用に取っておこうと思っていた分まで残るかどうか少々不安に思いながらも、どこか誇らしい気分にならざるを得なかった。
結局ぺろりと三個食べたアーサーは大変満足気な表情で紅茶を飲みながら、
「今日は本当に来て良かった……凄く美味しかったよ」
改めてミリーの目をしっかりと見ながら「ありがとう」とお礼を口にした。
「こちらこそ喜んで貰えて嬉しいです。アーサー様には大きな借りがありましたので」
「借り、か……ところであの日の涙はちゃんと止まった?」
その何気ない問いに、ミリーは複雑な心境のまま、ぎこちない笑みを作った。
未だに思い出すだけで胸が痛いほど締め付けられる。だけど両親には心配を掛けられないし、仕事もあるのでメソメソしているわけにはいかない。
あの日、ルイは確かにミリーの存在を迷惑だと言った。もう騎士団へは来るなとも。
だからそれは守らなければならない。
でも、そうなると寮暮らしのルイと会う方法がミリーには完全になくなる。
手紙を出そうにも何を書いたら良いか分からないので、少なくともルイの方から歩み寄ってくれない限り、もはやミリーに打てる手はないのだ。
「今は、時間が解決してくれるといいな、と思っています」
嫌われているかもしれないという恐怖と、たまたま機嫌が悪かっただけかもしれないという希望の狭間で揺れながら。
ミリーが静かにそう口にすると、アーサーは「そうか」とだけ呟いた。
「……ところで、話は変わるけど」
「? なんでしょう?」
気遣って別の話題を振ってくれるのかな、とミリーが気持ちを切り替えて応じれば。
「次は四日後の午後に来ていいかな?」
「……は? え、それってもしかして」
「うん。俺、もう君のお菓子の大ファンになったから。定期的に寄らせて貰おうかと思って」
あ、もちろん今日を含めて代金は言い値で払うよ? と明後日なことを輝かんばかりの笑顔で宣うアーサーを前に、ミリーはしばしの間フリーズする。
だが、段々と可笑しさが込み上げてきて――最終的には破顔一笑した。
「……いいですよ! 今ならリクエストも受け付けちゃいます!」
この奇妙な関係を拒絶することなく、ミリーは受け入れる道を選んだ。
だって、アーサーとの時間は確かにミリーにとっても心躍る楽しいものだったから。
かくして、美貌の青年は週に二、三度のペースで下町のパン屋に通う立派な常連となったのである。