自暴自棄の帰り道【3】
「くれぐれも……くれっぐれも! 彼女のこと、よろしく頼みますよ!!」
オルブライト商会の馬車の前で特大級の念押しをしてきたコナーに見送られながら、ミリーはアーサーと共に帰路へ就くこととなった。
すっかり夜の帳は下りきっており、窓から風景を楽しめるような状態ではない。それでも乗合の馬車とは違うふわふわとした立派な座面と馬車自体の揺れの少なさが、どこか非日常感を演出している。
断続的に聞こえる轍の音以外、車中はとても静かだった。
なんとなくアーサーが話しかけてくるものと思っていたが、彼はミリーの向かい側に座ったまま、手にした書類を優雅に捲っている。
その行動自体が余計な詮索はしないという彼の気遣いだと、ミリーはとっくに気づいていた。
(……本当に優しい人だなぁ)
俯いて腫れぼったい目をぐにぐにと揉みながらミリーは安堵から僅かに息を吐く。
しかしその瞬間、
――ぐ~~~きゅるるるる
なんとも間抜けな音が車内に響いた。それが自分の腹の虫の音だということを誰よりも理解しているミリーは羞恥で顔を真っ赤にする。グズグズ泣き腫らしてみっともないところを散々見せた挙句に、今度は空腹を訴え出すとは、我がことながらあまりにも居たたまれない。
どう反応されるか戦々恐々とする中、しかし美しい青年は何処までも紳士的だった。
「……そう言えば、すっかり夕飯時を逃してしまっていたな。気づかなくてすまない」
「い、いえ、そんなっ……! あの……本当にすみません……」
「謝る必要なんてないよ。本当はディナーに誘いたいところだけど、これ以上帰りが遅くなるのは良くないだろうし……ああ、話をしていたら俺もお腹が空いてきたな……」
思案顔を浮かべるアーサーの優しさが逆に辛い。と、そこでミリーは自分の荷物に目を落とした。
パン籠の中の紙袋。渡せなかったその中身を思い、胸が詰まる。
(でも、このまま持ち帰ったところで処分に困るくらいなら……)
ミリーは丁寧な手つきで紙袋を取り出すと、呼吸を調えてからアーサーに話しかけた。
「あの……もしよかったら、これ。一緒に食べませんか……?」
「――え? ああ、なんだかいい匂いがすると思ったら中身は食べ物だったのか。パンとお菓子……かな?」
「はい。うちのお店で作ってるパンと、私が作ったお菓子なんですけど……」
ミリーはアーサーが見やすいように紙袋を大きく広げる。
ルイ個人への差し入れのため量自体はさほどでもない。パンが数個とパウンドケーキが数切れ。そしてクッキーの小袋が二つ入っている。
「……あっ! よく知らない人間の食べ物とか、嫌だったら無理しないでください……! 一応、パンの方は売り物なので問題ないとは思うんですが……」
提案してから不躾だったと気づき、ミリーは慌てて補足する。
だが、アーサーは柔和な笑みを崩すことなく、
「ありがとう。遠慮なくいただくよ」
言って、紙袋の中からパウンドケーキをひと切れ、取り出した。
そして迷うことなく口へと運ぶ。
「……っ! これは――」
「お口に合いませんでしたか……?」
僅かに目を見張ったアーサーの様子に不安を覚える。
だが、返ってきたのは想像とは違う反応だった。
「いや……驚いた! 凄く美味しいよ、これ。本当に君が作ったの!?」
いささか興奮気味のアーサーに驚きつつもコクリと頷けば、彼は感心したように手元のパウンドケーキをしげしげと眺める。
「見た目は素朴だけど、甘さもくどくなくてレーズンと胡桃のバランスがいい。ラム酒は少し強いから子供には厳しいかもしれないな……だが、逆に普段あまり甘味を口にしない層には良さそうだ……」
何やら分析まで始めてしまったアーサーの様子に困惑するミリーだったが、その瞳がキラキラと子供のように輝いているのに気づき、思わずクスリと笑みが漏れる。
思えば、自分がお菓子作りを好きになったきっかけは、不愛想な彼が甘いものを食べる時にはいつも表情を緩めるからだった。
喜びを隠しきれないその顔が見たくて、頑張って続けてきたのだ。
胸の痛みは全然消えていない。
けれど、ほんの少しだけ。アーサーの喜ぶ様子に勝手に救われたような気持ちになる。
ミリーは自分もパウンドケーキを取り出して、ひと口食べた。ふんわりしっとりした生地の中にアクセントのように入る胡桃とレーズン。ラム酒の甘い香りが傷ついた心を僅かに和らげてくれる。
そんな風に自分が作ったものを味わう余裕が生まれてきたところで、目の前のアーサーがどこかソワソワとしながら視線を紙袋へ向けているのに気づいた。いつの間にか手にしていたパウンドケーキは完食したらしい。
「……あの、良ければ他のものも食べさせて貰えないだろうか?」
「あ、はい。こんなもので良ければ好きなだけどうぞ?」
まさかこれほど食いつきがいいとは思わなかった。ミリーは紙袋ごとアーサーに渡そうと動く。
と、その時、ミリーの肘がパン籠に当たってしまい、その拍子に小さな瓶が板張りの床に転がってしまった。慌てて拾おうとする前に、アーサーの方が小瓶を拾い上げる。
「おっと、これは……」
「すみません。それは貰い物のキャンディーなんです。とても可愛くて美味しいんですよ」
「……うん、知ってる。なんせうちで扱ってる商品だからね」
「え、そうだったんですか!?」
「オルブライト商会は結構手広く商品を扱ってるから。貴族向けから庶民向けまで」
はい、と飴玉の小瓶を差し出すアーサー。だが彼の関心はすっかり紙袋の方に奪われているらしく、チラチラとそちらばかりを見ている。意外と子供っぽいところもあるんだなと、ミリーは小瓶を受け取りながら笑った。
それから二人は紙袋のパンを順調に消化していき。
すっかりお腹も満たされた頃にはミリーの家のすぐ傍まで馬車は到着していた。
アーサーのエスコートで馬車を降りたミリーは、改めて深々とお辞儀をしながらお礼を口にする。
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。可愛いお嬢さんと知り合えて、美味しいものもご馳走して貰えたからね。とても素敵な時間だったよ」
どこまでも気障な台詞が妙に様になる。美形は凄いなぁと変に感心していたその時。
ミリーの家の玄関口が俄かに騒がしくなったと思えば、間を置かずミリーの両親が外へと出てきた。
「ミリー! お前こんな時間まで何してたんだい!」
「お、お母さん……っ」
「ああ、心配していたんだよミリー。無事で良かった……っ」
「お父さんも……ごめんなさい。遅くなって」
普段ならとっくに帰宅している時間を過ぎていたことで相当心配を掛けてしまったらしい。
しょんぼりと肩を落とすミリーに駆け寄った両親は、やがて見慣れぬ美丈夫の存在に気づいた。
「あの、失礼ですが貴方は……?」
その問いにアーサーは軽く経緯を説明し、ミリーがそれに同調する。あらかた話を聞いた両親は娘が迷惑を掛けたとしきりに頭を下げた。それを笑って受け流したアーサーは用は済んだとばかりに颯爽と馬車へ乗り込む。
「では俺はこれで。……もし次に会う時が来たら、今度は笑顔の君で居てくれると嬉しいな」
最後にふわりと微笑み掛けてきたのを合図に、馬車は滑らかに動き出した。あっという間に遠ざかっていく。どこまでも行動がスマートだった。
自分とは明らかに住む世界が違う人。
最後に彼は再会を望むようなことを言っていたけれど、所詮はリップサービス。もう会うことはないだろう。
なんとなく名残惜しくて、しばらく馬車を見つめていたミリーだったが……不意に目線を下へと向けた瞬間、重大なミスに気づいたのだった。
「……あ! ジャケット!!」
◆◇◆◇◆◇◆◇
一方その頃、馬車の中で。
ミリーお手製クッキーの入った小袋を摘まみ上げながら、アーサーは口もとを緩ませた。
「さて、あの子は返しに来てくれるだろうか?」
来なければ来ないでも構わない。
彼女とはそれだけの縁だったというだけだ。
けれど、不思議と確信がある。
あの純朴そうな少女はきっと、数日中に自分のもとを訪ねてくるだろうと。
暗い路地裏でひとり泣いていた、弱った子猫のような妙に庇護欲をそそる女の子。
懐いてくれたらさぞかし可愛くて気分がいいことだろう。想像するだけで自然と胸が躍る。
「……うん、美味しい」
小袋から取り出した飾り気のない素朴なクッキーを一枚、噛み砕いて。
アーサーは満足げな笑みを浮かべながら、帰路を進む馬車の座面に深く沈み込んだ。