アーサー・オルブライト
「あのさ……お前が好きな奴の名前って、アーサーで合ってるか?」
ルイの質問は、ミリーにとって全くの予想外だった。
何故そんなことを訊いてくるのか疑問は尽きないが、黙っていては話が進まないので「そうだけど」と頷いて肯定を示す。
すると、ルイは眉間に深い皺を刻み前髪をぐしゃりと握るようにして乱しながら、深く深く息を吐いた。
「……ルイ? 本当にどうしたの……?」
明らかに様子がおかしいルイが心配になったミリーは彼の方に近寄るべきか迷う。しかし実行に移す前にルイは顔を上げ、聊か険しい眼差しをこちらに向けてきた。
「なぁお前、騙されてんじゃねぇのか? そのアーサーって奴に」
「は? え、なに……どういう意味?」
無意識のうちにミリーの声も強張る。
(アーサー様に騙されてるなんて、そんなことあるわけない。彼はそんな人じゃない)
咄嗟にそう反論しようとしたミリーだが、
「なら、アイツの家名は当然知ってるよな?」
「っ……それ、は」
続けざまに問われて言葉に詰まる。確かにミリーはアーサーの家名を知らない。
手紙の送り先はいつもオルブライト商会宛にしていたので、特に気にしたこともなかった。
「確かに知らないけど……それに何の意味が」
「――アーサー・オルブライト」
「……え? なに?」
「アイツのフルネームは、アーサー・オルブライト。オルブライト商会を運営するオルブライト子爵家の嫡男……つまりは次期当主だ」
「なに、それ……」
ミリーは最初、何かの冗談かと思った。
しかし淡々と話すルイの表情はふざけるような色合いが一切ない。それどころか、こちらの反応をどこか痛ましそうに見てくる。まるで同情するかのように。
「っな、なんで……ルイがそんなこと知ってるの?」
「この間、たまたま巡回任務中にアーサー・オルブライトを見かけた。その時に一緒に任務に就いてた同期の騎士から聞いたんだ。その後で俺自身も調べたから間違いない」
明確な回答は、そのつもりはなくとも着実にミリーを追い込んでいく。
「……嘘、じゃないの……?」
「――わざわざこんなところまで来て、俺が嘘を吐く理由なんてないだろ」
その通りだ。ならば、本当にアーサーはオルブライト次期子爵ということなのか。
(アーサー様が……貴族?)
貴族など平民であるミリーとはまったくもって縁のない存在だ。自分たちと彼らの間には身分という名の絶対的な壁がある。まさに住む世界が違う人々。それが平民にとっての貴族の認識だ。
「もう一度訊く。お前、アーサーって奴に遊ばれてるんじゃないのか?」
ルイの容赦ない言葉が鋭い杭となって胸の奥深くに突き刺さる。
確かに平民と貴族が恋愛関係になることなど普通は考えられない。もし恋仲に発展したとしても、それは最終的には終わりが決まっている関係だ。結婚などという明るい未来は決して望めない。
若い平民の女性に手を出す貴族男性がいるという話もたまに耳にするが、最後には必ず捨てられるのが定石だ。それほどまでに身分差というものは埋めがたい溝なのである。
だから、ルイの指摘は正しい。
もし本当にアーサーが貴族なのだとしたら、平民であるミリーとの未来は存在しないのだから。
激しいショックのあまり言葉を失うミリーに、ルイは一歩一歩距離を詰める。気づけば手を伸ばせば触れられる距離まで迫っていて。驚いたミリーは咄嗟に後ろへと下がろうとした。
しかしルイはそれを阻むように、そっと手を伸ばしミリーの両肩を柔らかく包む。
「ミリー……もう俺を選べなんてことも言わないから――アイツは、アーサー・オルブライトだけはやめておけ。貴族相手の恋愛なんて、先がないことはすべきじゃない」
彼の忠告は心からミリーを案じるもので、だからこそ苦しかった。
ルイの言葉はどこまでも正論だ。遊ばれて傷つくのはミリーの方。今引き返せば、傷は浅くて済む。
でも――
(……本当に、それでいいの?)
ミリーは不意に目を伏せてアーサーのことを考えた。
彼と過ごしたこの一年間を脳裏に呼び起こす。
出会った時から、彼は紳士的で優しかった。
路地裏で泣きじゃくるミリーを見捨てず、益もないのに手を差し伸べてくれた。
それから焼き菓子を通して少しずつ仲良くなって。
ルイとのことで精神がボロボロだったミリーに、立ち直るきっかけをくれた。
――そして、こんな平凡で面倒くさいミリーのことを好きだと言ってくれた。
次の恋に臆病になり、しばらく仕事に専念すると宣言しても応援してくれた。
気長に待つと笑ってくれた。
先ほどなどミリーからデートに誘えば、本当に子供のように無邪気に喜んでくれた。
そんなアーサーだったから。
ミリーはもう一度、恋をしたいと思えたのだ。
(……だから私は、アーサー様を、信じたい)
ミリーはそっと目を開けると、心配そうな瞳でこちらを窺うルイをそのまま真っ直ぐに射抜く。
「心配してくれてありがとう、ルイ。……私、決めたよ」
自ら出した答えをルイに告げながら、ミリーは微かに微笑むことが出来た。
それは一年前にはない、今のミリーの確かな強さの証だった。




