どこまでも甘く、やわらかな【アーサー視点】
ミリーを送り届けた馬車の中で、アーサーはぼんやりと窓の外を見つめていた。
いくら王都とはいえ、中心部から外れたこの辺りは街灯も少なく夜道は暗い。眺めていて楽しいような風景ではないが、思考を巡らせる分にはむしろ適していた。
先ほどまで抱き上げていた少女の感触が生々しく腕に残っている。
どこまでも甘く、やわらかなそれが――どうにも手放し難いと思っている時点で既に手遅れなのだろう。
今まで、何かに激しく執着することはなかった。
けれど彼女に関しては明確に、欲しい、と心が訴えかけている。
でなければ初対面の少年にあそこまで強い言葉は使わないし、彼女の受け渡しを断固拒否することもなかった筈だ。自分の性質を客観的に理解出来ているからこそ、アーサーは認めざるを得ない。
自分は確かにミリー・ベイカーという少女に惹かれている。
そしてそれは俗に、恋や愛という言葉で分類される類の感情であるのだと。
「……お帰りなさいませ、アーサー様」
「ただいま。今日は悪かったな、色々と手間を掛けさせた」
オルブライト商会に戻ってきたアーサーを出迎えた秘書の男性は「とんでもない」と微笑みながら疲れた上司を気遣いお茶の準備を始める。それを横目に見ながらアーサーは上着を脱いで自席についた。
今日予定していた書類仕事は当然ながら半分以上が手つかずのままだ。最低限、明日までに処理しなければならないものだけは優先して片付けておかなければ。
「あれからベイカー様のご様子はいかがでしたか? 正直、かなり負傷されていたので私も驚いてしまって」
「ああ、おそらくは問題ないだろう。彼女の両親にも説明はしてきたし薬も持たせた。悪化するようなら明日必ず医師を呼ぶように念押しもしたしな」
「然様でございますか……早くお元気になられると良いのですが」
湯気の立つティーカップを執務机に置きながら心配を滲ませる秘書へ、アーサーは顔を上げて言う。
「君が彼女を発見してくれて助かった。心から礼を言うよ、ありがとう」
アーサーが秘書から今回の一報を受けたのは、国内でも有数の名門侯爵家で臨んだ商談が無事まとまった時分だった。その家の令息は学生時代からの友人であったため、アーサーは商談後の流れで彼にお茶へと誘われ快諾した。そして互いに近況報告をしながら和やかに雑談をしていた辺りで飛び込んできたのが、件の知らせである。
いくら個人的に親しい間柄とはいえ仮にも侯爵家での席だ。よほど緊急の用件かと緊張を漲らせたアーサーが伝令役の人間から聞かされた内容は、しかし想像とは随分かけ離れたものだった。だが――実際のところ、仕事関係のトラブルよりもよっぽど肝が冷えたと思う。
そして気が付けばアーサーは黙ってこちらの様子を窺っていた友人に頭を下げていた。
「すまないが急用が出来たので行かなければならなくなった。この埋め合わせは後日にでも」
「あ、うん、別に気にしなくていいよアーサー。忙しいところをお茶に誘ったのは僕の方だしね。何か仕事のトラブル?」
友人からの質問に一瞬、言葉を詰まらせたアーサーだが、
「――いや、個人的なものだ」
下手に誤魔化す気にもなれず、正直に告げながら自嘲気味な笑みを漏らす。
「へぇ、珍しい……もしかして、女絡み?」
「……それは君の想像に任せるよ」
するとそんなこちらの反応に興味を引かれたらしい友人は、席を立つアーサーに「今度みんなで酒でも飲もう。詳しい話はその時に聞くよ」と笑った。アーサーは寛大な友人に感謝しながら急いで屋敷を後にする。
そこから先は特に説明することもないだろう。
傷だらけで運び込まれ、秘書の手回しで先に治療を受けていたミリーの姿を見た瞬間に湧いた感情の名前を、もうアーサーは知っている。
彼女が目覚めるまでの間、まったくと言っていいほど仕事が手につかなかった。
処置に問題はないか、いつ目覚めるのか、医者を何度も問い質した行動も自分らしいとは到底言えない。理性よりも感情が先立つなんてことは幼少期に経験して以来だった。
どうにも彼女が絡むと調子を狂わされる。
それなのに、関係を断つという選択肢はアーサーの中から完全に消失していた。今も書類を片付けながら頭の片隅では彼女のことばかり考えてしまう。非常に厄介だが、同時に可笑しくもあった。
親の敷いた道をただ漫然と歩いてきた身だからこそ、自分の中で巻き起こる変化の激しさがどこか心地好い。
「……そういえば、彼女が持ってきていた焼き菓子だけど、ちゃんと取ってあるよね?」
「はい。幸いにも包装がしっかりしていたため、形にこだわらなければ食しても問題ないかと」
「じゃあ、それは私が持って帰るから後で馬車に積み込んでおいてくれ」
「……すべて、ですか?」
「彼女が作ったものだからな」
粉々に割れていようと、形が歪であろうと、そんなことは問題にならない。
彼女から与えられるものは全て手にしたい。もはや理屈ではなく本能に近い衝動だった。
(別に付き合ってもいないのに――本当にどうしようもないな、この感情は)
そう、二十一年間の人生において、アーサーは初めて恋というものを知ったのだ。
「……侯爵家に急ぎ使いを向かわせたことは間違いではなかったようですね」
少しだけ揶揄うようなニュアンスの混じる秘書の声に、アーサーは「そうだな」と苦笑する。
「しかしあの子の泣き顔は、もう十分見飽きたよ」
思えば初めて出会った時もボロボロと泣いていた彼女。今日のこともだが、その涙の原因が彼女の想い人であるあの少年だという事実が、腹立たしくて仕方がない。
彼とのやりとりはほんの数分程度。だが、確信があった。
(あの少年は間違いなくミリーに恋愛感情を抱いている)
ミリーは自分が失恋したと思い込んでいるようだが、アーサーからしてみれば勘違い以外の何物でもない。あれほど敵意を剥き出しにしながら食って掛かってくる姿は、好きな女を取られたくない男のそれでしかなかった。
(いっそ本当に失恋していれば良かったのに)
そんな暗い考えを持ってしまうのは自分が彼女に恋をしているから。
本当に厄介だなと嘆息し、アーサーは作業の合間に少し温くなったティーカップを傾ける。
(……さて、どうしたものか)
失恋の傷心に付け込む悪い大人になるべきか。それとも正攻法でいくべきか。
(どちらにせよ、もうあの少年のことでは泣かせたりしない)
自分とあの少年がそれぞれ想いを告げたとして、最終的に選択権を持つのは彼女の方だ。ならば自分は最大限、彼女に選ばれる努力をしよう。それでもし、彼女が自分の手を取ってくれたならば――
「……根回しくらいは、しておくべきかな」
「何かございましたか?」
「いや、こっちの話。……それより、明日の午後に彼女へ見舞いの品を届けて貰いたいんだが」
残念ながら明日も仕事は詰まっている。流石に二日連続で予定に穴を開けるわけにはいかない。
そんなアーサーの心情を察してか、秘書は目を細めると「すぐに手配いたします」と頭を下げた。




