それぞれの変化の兆し【5】
「俺としてはこのまま泊っていって欲しいんだけど――ご両親を心配させる方が嫌だろうから」
緩やかに時間は流れ、夕刻。
あれから主に茹った頭を冷やすべく身体を休めたミリーは、オルブライト商会の馬車で自宅まで送って貰うこととなった。流石にそこまでは……と固辞しようにもアーサーは決して許してくれず、了承しなければ強制的に宿泊させるとまで言い出したので、結局はミリーの方が折れざるを得なかった。
(本当に何から何までお世話になってしまった……)
わざわざ一緒に運び込まれた毛布を深くかぶりながら、ミリーは向かい側に座るアーサーに気づかれないよう、そっと溜め息をつく。もはや焼き菓子程度ではとても返しきれない恩の数々に別の意味で頭が痛い。
(……思えばアーサー様にはみっともないところばかり見せているなぁ)
初めて会った日も、そして今日も。
顔をベシャベシャにしながら泣いてばかりだ。まるで子供みたい。
(ああ……もしかして急に抱きしめたいって言ったのも、慰めたいってことだったのかも……)
それこそ泣いている子供を落ち着かせるような気持ちだったのかもしれない。そうでなければ、アーサーのような人が自分のような下町の娘を抱きしめる理由はないのだから。
彼は紳士なので、きっと哀れな子供のことが放っておけなかったのだろう。
なんとなく納得出来る理由が見つかって、どこかホッとしている自分が居る。
ミリーは怖かった。つい先ほどまでルイとの関係を勝手に期待して、結果として深く傷つくことになった。それ自体はミリーの自業自得なので辛くとも受け入れるしかない。けれど、また同じように勝手に期待して勝手に傷つく、なんて愚かな真似は二度としたくなかった。
(アーサー様は、恩人で私のお菓子のお得意様……それでいいんだ)
馬車に揺られながら、そう結論付けて目を閉じる。これ以上、余計なことは考えたくなかった。それほどまでに今日のミリーは疲れていた。身も心も、何もかも。
ほどなく馬車は目的地であるミリーの自宅近くで停まった。というのもパン屋が面している道は少し細くなっていて馬車で通ることは出来ないのだ。それでも距離としては歩いて二分も掛からない。十分に休ませて貰ったこともあり、あちこち痛むもののミリーは自分の足で自宅へ向かうつもりだった。
だが、アーサーはそれを許可しなかった。
それどころか有無を言わさずに毛布ごとミリーを抱き上げると、さっさと馬車を降りてしまう。
「ちょ、アーサー様っ!? お、下ります! というか下ろしてっ!」
「それは聞けないな。そもそも足を痛めてるんだから大人しくしてて」
「だって私重いですし……っ! アーサー様の腕が心配です!」
「……なんだろう。本気で心配されているのが逆に辛いんだが?」
もっと筋肉を付けないと駄目か……などと軽口を叩きながらもアーサーはミリーの身体をしっかりと支えながらスタスタと歩いて行く。こうなってはもうお手上げだ。ミリーはせめてもとアーサーの負担にならないよう遠慮がちではあるが彼の首に腕を回した。目が合うと気まずいので必然的に顔は伏せる。それでも初めての距離感に心臓がバクバクと忙しない。この早鐘に気づかれたらどうしようかと、今度は別の方に意識を取られた。
だから、ミリーは気づかなかったのだ。自宅の前に誰かが立っていたことに。
先に気づいたのはアーサーで、彼は少しだけ警戒するように歩調を緩めて停止する。そこでようやく異変を察知したミリーは目線を自宅の方へと向け――瞬間、あまりの衝撃に息を詰めて大きく目を見開いた。
「ルイ……」
そう、自宅の前に居たのは間違いなくルイだった。左手に小さな紙袋を下げた彼は昼間見た服装のまま。もしかしなくてもデートの帰りなのかもしれない。
一方、ルイもミリーの存在に気が付いたようで僅かに動揺したのが見て取れた。しかしすぐに眉を顰めると苛立ちも露わにこちらへと近づいてくる。
「お前…っ、こんな時間まで何処にいたんだ。しかも男と一緒だなんて、ふざけるのも大概にしろよ」
開口一番でぶつけられた刺々しい言葉に、ミリーは酷く困惑した。
そもそもどうしてルイに怒られなければならないのか。まずそこが理解出来ない。別に悪いことなんて何もしていないのに。時間だってまだ夕方だ。男といたからなんだと言うのだ。ルイには関係ないではないか。
そんな風に湯水のごとく湧き出る疑問と不満をなんとか抑え、
「……ルイこそ、どうしてここにいるの」
ごちゃつく思考の中からなんとか選び出したミリーの問いに、ルイはハッと表情を変える。
それから少々バツの悪そうな顔をしながら彼はガシガシと右手で黒髪を乱雑に掻いた。
「そんなの、お前に会うために決まってんだろ……っ」
「……なんで?」
「なんでって……そんなの、普通に分かるだろ!?」
分かる訳がない。ミリーは本気でルイを訝しんだ。確かについこの間までは、ルイのことなら何でも分かったような気になっていた。けれどそれは恥ずかしい勘違いだったと痛感した今となっては、もうルイの考えていることなど何一つ分かる気がしない。
「というか、お前こそなんで男に抱き上げられて――……っておい、もしかして怪我してるのかっ!?」
どうやらここに来てようやくミリーの状態を察したらしい。ルイは一転して心配そうな表情になると、無遠慮にこちらへと詰め寄ってきた。その勢いのまま彼は今度はミリーにではなく場を静観していたアーサーへと話し掛ける。
「……どこの誰かは知りませんが、ここからは俺が代わりますのでミリーを寄越してください」
言葉こそ最低限取り繕ってはいるが、その態度からは相手を威圧する気配が強く滲んでいた。しかしアーサーは涼しい顔でそれを受け流すと、ルイとは対照的に穏やかな声音で応じる。
「断る。それよりも早くミリーを休ませてあげたいから、君こそさっさと退いて貰えるかな?」
「は……? アンタこそ、もうミリーに触んなよ。あとは全部俺が引き受けるから」
「だから断ると言ってるだろう? 言葉の通じない男は嫌われるぞ」
ミリーはそのやりとりを呆然と聞いていた。ルイの態度も決して褒められたものではないが、それよりもアーサーが挑発的な物言いをしていることに驚きを隠せない。
当然のように両者は一歩も引かず。場の険悪さだけが天井知らずに上がっていくのを肌で感じながらもミリーは動くことが出来なかった。本当は自分が止めなければいけないのに肝心の言葉が見つからない。
そんな中、先に痺れを切らしたのはルイだった。
「っ……アンタの意見なんかどうでもいいんだよ! ミリー、さっさとこいつから離れろ! こっちへ来い!!」
発言とほぼ同時にルイはミリーに向かって右手を伸ばしてくる。その無骨な手が間近に迫った瞬間、ミリーは恐怖心から反射的に目を瞑り、無意識のうちにアーサーの首元へと縋りついていた。まるで助けを求めるように。
その一連の動作は相手からすれば明確な拒絶の意思表示に見えただろう。
結果として彼は愕然としながら動きを止めた。行き場を失った手が虚しく空を切る。
一方のアーサーは冷静にルイを見据えながらも、壊れ物を扱うような繊細さでミリーの身体を抱え直した。どこまでも優しい手つきと温度にミリーは思わず安堵の息をつく。
「少し落ち着いた? ……大丈夫、傍にいるから」
「……はい」
掠れた声でなんとか返事をしたミリーにアーサーは薄く微笑む。それから彼は未だその場で顔色を悪くし立ち尽くすルイに向かって淡々と言った。
「見ての通り今の彼女は冷静に話が出来る状態じゃない。怪我もしているし熱もあるんだ。正直、君の相手をしている余裕はないよ。分かったらいい加減、退いてくれ――邪魔だ」
容赦ない物言いにルイの表情が大きく歪む。彼は咄嗟にアーサーに反論しようとしたが、ミリーの顔色の悪さを見て取ったのか、結局は口を閉ざした。そしてそのまま悔しそうに拳を握ると塞いでいた道を譲る。アーサーも特に何も言うことなくルイが開けた道をさっさと歩き出した。
そうしてアーサーに抱きかかえられながらルイの横を通り過ぎようとした瞬間、
「――ミリー」
どこか縋るような声で呼ばれ、深く考える前にミリーは声の方へと視線を動かした。
当然のようにルイと目が合う。彼はどこか切なげな目をしながら、
「……この前は悪かった。とにかく一度ちゃんと話がしたいんだ。だから――次の休みにまた来る」
そう言い残し、こちらに背を向け止める間もなくその場を立ち去った。




