それぞれの変化の兆し【4】
――誰かが頭を優しく撫でてくれている。
それが、意識を取り戻したミリーが最初に感じたことだった。
全身が火照るように熱を持ち身体のあちこちがジクジクと痛んで辛い。それでも徐々に思考が覚醒していき、やがてゆっくりと目を開いた。
「うぅ……?」
「ッ! ミリー、気が付いた?」
「? ……っ……アーサー、さま……?」
「そうだよ。……良かった、意識はしっかりしてるな」
心底ホッとしたような顔でこちらを覗き込んでくるアーサーの存在にまず驚く。と同時にミリーは自分が何かの上に寝かされているのだとようやく気が付いた。少し視線を動かし確認すれば、どうやら大きいソファーか何かのようだ。さらに状況を確認すべくなんとか身体を起こそうと身じろぎするが、その前にアーサーが優しくこちらを制す。彼はそのままミリーの額に手をそっと当てると僅かに表情を曇らせながら呟いた。
「熱はまだ下がらないか……とりあえず、水を飲んで」
上半身を支えて貰いながら予め用意されていたらしいコップの水をあてがわれ、拒む暇もなくミリーはゆっくりとそれを飲む。喉を流れる冷たさが気持ちいい。
あっという間にすべて飲み干したミリーは深く息をついた後で、改めてアーサーの方を向いた。
「……ありがとうございます、アーサー様」
「どういたしまして。さぁ、もう少し横になってて。頭は打っていないようだけど、倒れたばかりだから安静にしないと」
「倒れた……? 私がですか?」
「うん。見つけたのは俺の秘書。そしてここはオルブライト商会の俺の執務室」
言いながら、アーサーは固く絞った濡れタオルでミリーの額を甲斐甲斐しく拭う。加えて身体をもう一度横たえるよう促されるが、ミリーは上半身を起こしたままゆるく首を横に振った。
「もう大丈夫ですので……ご迷惑をお掛けしました。すぐに帰ります」
ただでさえ多忙のアーサーにこれ以上の迷惑はかけられない。ミリーとしては当然の選択だったが、アーサーは途端に眉を僅かに顰めた。常に紳士的で柔和な彼らしくない顔にミリーは驚きから軽く目を見張る。
「――帰りは俺が家まで送っていく。だから今はとにかく身体を大事にしてくれ……そこかしこに怪我もしてるんだぞ」
嘆息混じりの声に導かれるようにして、ミリーは視線を自分の身体へと向けた。
確かに腕や足など、転んで怪我をしたと思しき箇所がいくつも見て取れる。同時にそれらはすべて何らかの治療処置が取られていた。あちこちに巻かれた包帯やテープで留められたガーゼなどがかなり目立っている。
「処置は医者によるものだから安心していいよ。骨には異常ないそうだけど、しばらくは傷口や打撲痕が痛むだろうから薬も貰っている。それも後で渡すから」
「そんな……何から何まで、本当にすみません……」
「……こういう時は、どちらかと言えば『ありがとう』の方が聞きたいんだけど?」
おそらく気落ちするミリーを思い遣ってだろう。
一転して柔らかい口調でそう言ったアーサーへ、ミリーは心から感謝した。
「本当に……ありがとうございます、アーサー様」
「うん、それでいい。そもそも大したことはしていないしね」
それより、とアーサーは話題を切り替えた。
「申し訳ないけど荷物を少し確認させて貰ったんだ。……もしかしなくても、ミリーは今日ここに来るつもりだったのか?」
「あ……はい。その、アーサー様がお忙しいだろうと思って前みたいに差し入れを、と……」
「そうか……なら、あの焼き菓子は俺が貰っていいんだよな?」
ニヤリと口の端を上げたアーサーにミリーは目を丸くする。それからすぐに慌てて声を上げた。
「だ、駄目です! あれは持って帰りますので……っ!」
「いや、もう貰うと決めたからあれは俺のだよ。大丈夫、残さず美味しくいただくから」
「そんな……絶対クッキーとか粉々になっちゃってるのに……っ」
「でも、他でもないミリーが一所懸命作ってくれたものだろう? それを無下にするなんて俺には出来ないよ。諦めて」
そこまで言われてしまえばミリーにはもう返す言葉はない。
なので説得を早々に諦め、代わりに別の提案を口にする。
「……じゃあ今度お店に来てくれたら、アーサー様の食べたいもの、お礼になんでも作ります」
「ああ、それは嬉しいな! ぜひ楽しみにしておくよ」
本当に嬉しそうな顔をしながら、アーサーは再度ミリーに横になるよう促す。その言葉に従うべきだと頭では理解しつつも、ミリーは身体をそのままにアーサーの目を見ながら、おずおずと口を開いた。
「あの……聞かないんですか?」
するとアーサーは緩めていた表情をさっと引き締めて、ミリーの顔をじっと見据えた。
まるでこちらの真意を探るように。
「それは……聞いて欲しいってことかな?」
逆に問われて、ミリーは目を伏せてしばし黙考する。だが、それほど間を置かずに結局はコクリと頷いた。自分から話題を振った時点で、答えは既に出ていたのだ。
「たぶん……聞いて欲しいんだと思います。……聞いて、貰えますか?」
「――俺でよければ、いくらでも」
その穏やかな声に心底安堵したミリーは、今日の出来事をぽつぽつと語り始めた。
同時にそれは自分の気持ちを整理するための儀式のようなものだったのかもしれない。
流石にルイを見かけた時点からの流れを口にするのに何度か言葉は詰まったが、それでも止まることなく最後までアーサーに話を聞いて貰うことが出来た。
一方、アーサーは何も言わなかった。彼はただ黙ってミリーの声に耳を傾けてくれていた。馬鹿にすることも、慰めることもせず、ただただ真剣な面持ちで。だから、だろうか――
「アーサー様……私ね…………失恋、しちゃいました……っ……」
遂にその事実を声に出して認めた瞬間、枯れていた筈の涙が一粒、ぽろりと頬を滑った。
そこからはまるで堰を切ったかのようにボロボロと、両目から大量の雫が流れ己の頬を絶え間なく濡らす。
ミリーは慌てて顔を伏せて腕で強引に涙を拭おうとした。だが、そうする前に腕を掴まれ行動を阻まれてしまう。他ならぬ、アーサーの手によって。
びっくりして思わず顔を上げれば、アーサーの左手がそっと伸びてきて、ミリーの右頬を包み込むようにしながら親指の腹で涙を優しく拭ってくれる。
思いがけず至近距離で見つめ合う形になり、ミリーはしばし呆然としていた。すると、アーサーはどこか困ったような笑みを浮かべながら、ミリーの耳元へゆっくりと顔を寄せる。
「……参ったな。俺は今、君を抱きしめたくて仕方がないみたいだ」
一瞬、心臓が止まるかと思った。
あまりの衝撃に目を大きく見開いたミリーは呼吸すらままならない。
「っあ…………アーサー、さま……?」
「うん? ……あ、涙止まったね。正直、君が男のことで泣いているのも気に食わなかったから良かった」
もう何を言われているのかも正直よく分からない。それほどに混乱していた。
そんなミリーを置き去りにしながら、アーサーは微苦笑のままで囁く。
「ごめん。困らせたいわけじゃなかったんだけど結果的に困らせたな」
今は忘れて良いよ、と彼は言う。しかしそんなこと出来る筈もない。
だって彼の手の温度がまだ、しっかりと頬に残っているのだから。
その後、今度こそミリーは半ば強制的にアーサーによってソファーに横になるよう促された。今度こそもう何も考えられなくなって自発的に目を瞑る。全身が燃えるように熱いのは、傷のせいなのか、それとも別の何かなのか――
(分からない……もう、なにがなんだか……っ)
さっきまで頭の中は確かに好きな人のことでいっぱいだったのに。
その感情すらも鮮やかに塗り替えられていくような気がして――ミリーにはそれが、酷く恐ろしいことのように思えた。




