それぞれの変化の兆し【3】
窓越しの光景を、ミリーは瞬きも忘れて見つめる。本当は一刻も早くこの場を立ち去った方がいい。そう頭の中では警鐘のようなものが鳴り響いているのに、足は縫い止められたかのように動く気配はない。
ルイは真剣にショーケースの中を覗き込みながら、時折、隣の女性に意見を求めているようだった。
彼女はとても嬉しそうにルイに微笑み掛けながら応じている。
完全に恋人同士のやりとりにしか見えない。
ほどなくルイは店員に声を掛けて、ショーケースの中から可愛らしいデザインのペンダントを選んで取り出して貰っていた。ペンダントトップの色は吸い込まれそうな深い藍色――ルイの瞳の色だと、ミリーはすぐに気が付いた。
熱心にペンダントを見つめるルイに彼女が何かを話し掛ける。するとルイは途端にその頬を赤く染めた。しかしすぐに目を細めると、彼女へと笑いかける。それは、ルイが本当に嬉しい時の表情だと、ミリーは幼馴染ゆえによく知っていた。
そして、ミリーは理解した。せざるを得なかった。
(ああ、そうか……恋人が居るなら、私の存在は確かに迷惑だよね……)
毎月頼んでもいないのに差し入れをしにくる幼馴染の女なんて、彼女持ちからしたら迷惑以外の何物でもないだろう。ルイからしてみれば、きっとこの彼女に誤解されたくなかったのだ。ミリーとはただの幼馴染。そこに恋愛感情はなく、彼女が心配するような関係では断じてないのだと。
今だから分かる。だからミリーは訓練の見学を許されなかったのだ。人目があるところでミリーがルイに親し気に接すれば、それだけで疑念を生みかねないから。
そんなことにも気づけないほどに周りが見えていなかったのだと、ミリーはようやく気が付いた。
(それなら……最初から言ってくれれば良かったのに。もしかして私の気持ち、全然伝わってなかったの?)
窓の向こうで笑い合う二人は、とても眩しくて幸せそうに見えた。
その事実がミリーの中にある柔らかくて温かい恋心を容赦なく握り潰していく。
(ルイにとって、私って本当にどうでもいい存在だったんだ――……)
ミリーは今までの己の行動を強く恥じながら、弾かれるようにその場を駆け出した。その時、背後で誰かが自分の名を呼ぶ声を聞いたような気がしたが――決して振り返ることはしなかった。怖かったのだ。
もし呼んだのがルイだとしたら、今度こそ軽蔑の眼差しを向けられるような気がして。
自分の心音が煩い。頭がガンガンする。息が苦しい。
それでもミリーは走り続けた。止まる選択肢なんてなかった。
しかしミリーの意思に反して、それは唐突に終わる。
「――ッッ!?!!」
石畳の境目に足を取られ、ミリーは盛大に転んだ。
咄嗟に手をついたので顔や頭は守られたが、手のひらや肘、膝などをしたたかに打ち付けてしまう。擦った箇所からは服越しに血が滲み出し、じわじわと熱を持つのが分かった。
道の往来で派手に転んだミリーを心配したのか、何人かの親切な通行人が声を掛けてくれる。ミリーはなんとか顔を上げると、転んだ際に激しく潰れてしまった荷物を急いで回収し、周囲には「大丈夫です」と頭を下げてから再び歩き出した。しかし足を痛めてしまったため、その足取りはおぼつかない。
(……お菓子、これじゃあ渡せないな……)
大きな鞄の中でひしゃげた焼き菓子の詰め合わせに目を落とし、ミリーは力なく笑った。
もう何もかもが恥ずかしかった。消えてしまいたい気分だった。
ほんの数十分前までは、今日の天気のように明るい清々しい気持ちでいられていたのに。
(……痛い)
身体も、心も。何もかもが痛かった。けれど涙は不思議と出て来ない。
あの日はボロボロ泣けたのに。今日は一滴も出て来なかった。きっとあの日に流した分で涙は枯れ果ててしまったのだろう。
だけどあの日と同じように、ミリーは途方に暮れていた。
オルブライト商会を訪ねる気力は既にない。かといって、すぐに帰路に就こうという感情も湧かない。
(……とにかく、一人になりたい)
思ったのは、ただそれだけ。ミリーはあの日のように道も確かめずにふらふらと商業地区の道をとぼとぼと歩く。出来るだけ、人気のない方角を目指して。
(ああ……でも路地裏は、入っちゃダメなんだっけ……)
それはミリーに残された最後の理性だった。あの日、アーサーと出会わなければ危ない目に遭っていたかもしれないと注意を受けた。だからそれはしてはいけない。心配を掛けたくはない。
(でも……じゃあ、どこに行けばいいの……?)
まるで迷子の子どものように、行く先を見失ったミリーは道の端に立ち止まって空を見上げた。抜けるような青空が視界いっぱいに広がる。憎らしいくらいに。
(いっそ雨でも降ってくれればいいのに……)
そうすれば、少しはこの痛みと熱も引いてくれるだろうか――なんてバカみたいなことを考えていたその時、
「もしや……ベイカー様……?」
ミリーのすぐ横を通り過ぎようとした馬車から唐突に声が響いた。反射的に視線を動かせば、そこにはオルブライト商会の紋章が入った馬車があって。さらに開けた窓からこちらを覗き込むようにして、一人の男性が驚愕の表情を晒していた。ミリーはその人物に見覚えがあった。
以前に商会へ焼き菓子を差し入れた時、親切に対応してくれた人。
確か、アーサーの秘書を務めていると言っていた――
そこまで考えた刹那、ミリーの脳が不意にぐわんと揺れた。
膝から力が抜け落ちる感覚。それに抗うことも出来ずミリーはその場に崩れ落ちた。目の前が真っ暗で何も見えない。意識を保とうにも身体は言うことを聞いてはくれなかった。
そしてミリーの意識は急速に闇へと沈んでいく。
――どこか遠くで誰かが、必死に自分を呼んでいるような気がした。




