それぞれの変化の兆し【1】
早朝の仕込み中。これから焼くパンに合わせて小麦粉の計量をしていたミリーに対して、母が今日の天気の話題を振るくらいの軽さで言った。
「ミリー、今月はルイ君のところに行かなくていいのかい?」
「……あ」
正直、言われるまですっかり頭から抜け落ちていた。
気が付けばあの日から既に一ヵ月半以上の時が経とうとしている。こんなにもルイと会わない日が続くなんて、少し前の自分には到底考えられないことだった。けれど今、ミリーの心は自分でも不思議なほどに落ち着いている。
(……時間薬って、本当にあるんだなぁ)
ルイのことがどうでもよくなったとか、嫌いになったとか、決してそういうわけではない。
けれどかつてほど、ルイのことだけを考えていた頃の自分ではなくなっているのだと実感する。
その変化が喜ぶべきことなのかどうかはさておき、ミリーは今の自分が嫌いではない。だから、その変化自体は前向きに捉えることが出来る。
「えっと……実はね、ルイから騎士団へは来るなって言われちゃったんだ」
「あら、そうだったの!? ……それってもしかして、アーサーさんに送って貰った日?」
「あー、うん。そうだよ」
仕入れでこの場に父が居なくて幸いした。この手の話題は父親の前ではし辛いから。
「理由は聞いたのかい?」
「ううん。ただ、迷惑だって言われた。確かに会いに行くのは私の自己満足みたいなものだし、ルイにしてみたら遊びに来られているような感じだったのかも」
「……そうかい。まぁルイ君も忙しいだろうからね。今はそっとしておいてやんな」
「うん、そうする」
「それにアンタはアンタで最近忙しいんじゃないのかい? ここのところ毎日毎日、焼き菓子の研究してるだろう?」
その言葉に思わず手が止まる。
「……気づいてたの?」
「そりゃあ、同じ厨房使ってんだから分かるに決まってるさ。最初は店に貢献するためかなと思ってたが……その様子だと、どうやら違うようだね?」
どこか揶揄うような声音の母に、しかしミリーは平然と返す。
「お店に貢献したい気持ちもちゃんとあるよ? まぁ、きっかけは確かにアーサー様だけど」
「おや? もう少し照れるかと思ってたんだが意外と冷静だね?」
「照れるも何も本当のことだし。最近気づいたんだけど、私は誰かに喜んで貰うのが凄く好きみたいなの。アーサー様はいつも私の焼き菓子を楽しみにしてくれてるから、少しでもそれに報いたいって思って。変かな?」
振り返って問えば、母は目を軽く瞬かせた後でにっこりと笑った。
「――いいや、ちっとも変じゃないよ。きっかけはなんであれ努力することは良いことだしね」
その言葉に思わずホッとする。実は今日も午後の空いた時間は新作レシピの検討をしようとしていたのだ。母からも太鼓判を押された気になったので、俄然やる気が漲ってくる。
もちろんパン作りの方も疎かにするつもりはない。そろそろ父が帰ってくる頃合いだ。それまでに準備を完璧に終えなければ。学ぶべきことはまだまだたくさんある。
将来の夢は小さい頃からルイのお嫁さんになること――それを取り下げるつもりはないけれど。
同時に自分がやりたいことをもっともっと極めてみたいと、ミリーは欲張りになっていく自分を肯定的に受け止めていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
本日の営業時間も無事に終了し、太陽も完全に沈もうとする頃。
店内の片づけと清掃作業を行なっていたミリーは窓越しにこちらへと走ってくる人の姿を捉えた。
今日はもうてっきり来ないものと思っていたので、驚きながらも慌てて店外へと飛び出る。
「アーサー様!?」
「……あー、クソっ! やっぱり間に合わなかったか……ッ!」
普段は紳士的な彼にしては非常に粗野な口ぶりだったが、理由を聞いて納得した。
どうやら馬車でこちらへと向かっている途中に事故に巻き込まれたらしい。幸いにも怪我人はいなかったが、アーサーが乗っていた馬車の前輪が一部故障してしまったのだとか。
「事故ですか……それは大変でしたね。怪我がなくて良かったです」
「うん。それで馬車を降りて走って来たんだけど……はぁ、こんなに走ったのは久しぶりで、しんどい……」
「あー……アーサー様、見るからに体力なさそうですもんねぇ」
「っ! ……ハハッ、君も言うようになったねミリー?」
「だって本当のことですし。それに体力はどちらにせよ付けた方が良いですよ? その……太ってからじゃ遅いですので……」
暗に甘党なので太りやすいのではと指摘すれば、アーサーはさらに疲れたような顔で肩を落とした。
「そこまで心配されるほど体力がないわけじゃないってば……これでもサウスゲート近くからここまで走って来たんだぞ?」
「え、えええっ!?!? サウスゲート!?」
これにはミリーも驚きの声を上げざるを得なかった。サウスゲートからここまで、ミリーの足なら徒歩で三十分は掛かる。それを走ってきたのならば相当体力を削られたことだろう。
「どうしてそんな無茶を……また別の日に来れば良かったじゃないですか」
この店は逃げたりしないのだから。
そう思って口にすれば、アーサーがどこか憮然とした表情を向けてくる。
「……仕方がないだろう。君にどうしても会いたかったんだから」
「――は?」
「は? とは本当に失礼だな……俺は今日、君に会いたかったんだよ、どうしても!」
「――――はあぁ!?」
あまりにもストレートな言葉に思わず面を食らってしまう。どういう反応をしたらいいのか分からない。素直に喜ぶべきなのかもしれないが、それだと別の意味合いを含むような気がして躊躇してしまう。
一方、アーサーの表情は真剣そのものだった。しかし説明が足りていないことに気づいたのか、息を整えた彼は柔らかな金茶の髪を掻き上げると姿勢を正してミリーに相対する。
「……今週、まだ一度しか来れてなかっただろう? 今は社交シーズンで仕事が詰まってるし、今日を逃すとしばらく来れそうになかったんだよ。だから今日はどうしてもここに来て、君と会って話がしたかった。そして君のお菓子で癒されたかった……結局は間に合わなかったけどね」
それだけだよ、と言ってアーサーは苦笑いしながらミリーの頭にポンと右手を乗せる。
ミリーはその瞬間、身体中の血が沸き立つような、逃げ出したくなるような、そんな感覚に陥った。
初めての事態に思考が上手く回らない。
「ミリー?」
頭上からこちらを気遣う優しい声が降って来て、ミリーは思わずぎゅっと唇を噛んだ。
嬉しいと恥ずかしいと叫び出したいが渾然一体となった不思議な気持ち。これの名前は何だろう。知らない感情に戸惑いながらも、ミリーはそっと顔を上げてアーサーを仰ぐ。
「……アーサー様」
「うん?」
「…………新作の試作品があるんですが、食べて行かれますか?」
瞬間、男の表情がぱあっと明るく華やぐ。
なんてわかりやすい。でも、それが今はとても助かる。
自分の気持ちが掴み切れないミリーは、とにかくこの場で深く考えることを止めた。
代わりに思う。
――今はただ、必死になって走ってきてくれたこの人に、自分の作ったお菓子で喜んで貰おう。
ミリーは雑念を払うようにプルプルと頭を軽く振ると、普段通りの笑顔をアーサーへと向けた。




