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「におうなぁ」
いつもより早い時間に現れた先生は僕の部屋に上がってからずっと眉をひそめて腕組みをしている。
僕は先生にマグカップでホットミルクを出して自分の部屋の中を見回した。別段臭気を発するようなものは無いように思う。
「何か臭いですか?」
最近風邪気味の僕は鼻が詰まって思うように臭いを嗅ぎ取れない。そんな僕には分からなくても先生には何か臭いがするのかもしれなかった。
僕はティッシュで思い切り鼻をかんだ。少し鼻が通るようになる。しかし次の瞬間にはもう鼻水が空気の通り道を塞いでしまう。鼻が詰まると頭もぼうっとしてくる。今日は朝から頭の中に靄が張ったような状態だった。
風邪のひき始めは1週間前、朋子さんとタクシーでりょう君と先生を追いかけて病院に行ったときだ。あのとき僕は部屋着のままで防寒具と言えそうなものは何も着ていなかった。朋子さんの様子に気をとられていて自分のことまで気が回らなかったのだ。雪の中へ飛び出した朋子さんを追いかけたときに僕は風邪をひくことを覚悟していた。首筋から入り込む雪の冷たさと言ったらなかった。
検査の結果、予想通りりょう君には何の問題も見当たらなかった。検査が終わって母親の顔を見つけたりょう君は元気に朋子さんの胸に飛びついていた。二人の微笑ましい様子に安心したときには既に僕は背筋に悪寒を感じていた。そして予想通り僕は風邪をひいたのだった。
朋子さんに笑顔が戻ったのは嬉しいが、この風邪は長引きそうで気が滅入る。寝込むところまではいかなかったのだが、その分いつまでも治らない。常に鼻が詰まっていて息苦しい。今日は特に身体全体が重い気がする。僕は先生の向かいに座りコタツの中に足を伸ばした。
「お隣さんのことだよ」
「お隣さん?」
そう言えば今日から隣の部屋、つまり僕の部屋と先生の部屋に挟まれた203号に誰か引っ越してきたようだ。朝からひっきりなしに家具やら電化製品やらが届いている。入居者ともそのうち通路で顔を合わせることになるだろう。今度は独身者だろうか。それともやはり夫婦だろうか。
ふと前の住人だった若夫婦を思い出した。彼らが出て行ってもう一ヶ月以上が過ぎている。彼らは元気にやっているだろうか。今度は愛し合っても隣に音が漏れないところに引っ越したのだろうか。
今度入居する人は前に住んでいた若夫婦のことはきっと知らない。僕や先生もそのうち新しい入居者を見慣れ彼らのことは忘れてしまうに違いない。そういうことを繰り返してサクラビルは20年の歴史を重ねてきた。いずれ僕もこの部屋を出て行くときが来る。僕もこのサクラビルの歴史の一部になるのだ。そのときがどういう形で訪れるのか今はまだ想像もつかない。
「餃子でも作ってるんですか?」
においの強いものとして僕の頭にまず浮かんだのが餃子だった。引越し餃子とは聞いたことがないが。何が面白いのか先生は僕の言葉にぷっと吹き出した。
「そのにおうじゃないよ。何だか怪しいってこと」
僕はますます分からなくなって先生と同じように眉をひそめた。すると左の鼻から鼻水が垂れそうな感じがして慌ててティッシュに手を伸ばした。気を抜くと鼻水がつーっと出てくる。かんでもかんでも切りがない。いい加減鼻の下がひりひりしてきた。
「どこらあたりが怪しいんですか?」
別段怪しいところなど思い当たらない。当人に会ったこともないのだから怪しいも何もないのだが。先生は小首を傾げてぶつぶつと言い出した。
「今ここに来る途中に顔をあわせたんだけど、四十歳ぐらいのカップル二人きりだった。子供はいなかったんだよね」
それがどうしたと言うのだろう。たまたま今日は二人きりだっただけかもしれないし、百歩譲って子供に恵まれなかった夫婦だったとしてもそんな夫婦など珍しくない。現に101号の水野さんも中年夫婦で二人の間に子供はいない。
「十代の恋人同士のようにぴったり寄り添いあってさ。言葉なんていらないって感じで見つめ合ってどこかへ出かけていったよ」
先生は納得いかない表情だ。口から十センチぐらいのところでマグカップを持ったまま、おかしい、おかしい、と連呼している。思案顔で一向にホットミルクには口をつける様子がない。
そういう夫婦がいてもいいと思う。中年になっても十代のように愛し合っているなんて素敵なことだ。無言で母を睨みつけている父を見ることはあったが、言葉もなく愛を秘めて見つめ合っている両親を僕は見たことがない(そんな二人を見たら気持ち悪かっただろうが)。その夫婦は子供がいないからいつまでも恋人同士の感覚でいられるのかもしれない。
先生は何が気に入らないのだろう。四十代の夫婦間に愛など無いと思っているのだろうか。他人の幸せに嫉妬するような器の小さい人ではないと思うのだが。
「二人とも左手の薬指に指輪をしてたな」
結婚しているなら当たり前だ。先生の言いたい事が未だに見えてこない。先生が手にしているホットミルクから立ち上る湯気のように掴み所が無かった。その湯気にも勢いがない。ミルクはそのまま冷めてしまいそうだ。
「男はゴールドで、女はシルバーの指輪」
なぞなぞだろうか。先生は次第に僕を試すような目になってきた。
「引越しの業者を見てないんだよね」
引越しの業者が引越しの日に来ていないのはおかしい。しかも夫婦は先ほど昼の三時頃に出かけていったのだから今日はもうこれ以上何も来ないと言える。僕は何となく先生の言わんとすることが分かってきた気がした。
「家具やら電化製品やらは全て新しく買い揃えたみたいだったな」
これで僕にも全て理解できた。先生は「夫婦」とは言わずに「カップル」と言った。妻でも夫でもなく男と女なのだ。
「お隣さんは恋人同士のような夫婦ではなくて、夫婦のような恋人同士なんですね」
先生は大きく頷いて冷めかけのホットミルクをすすった。
「あれはきっとダブル不倫だよ。203号は秘密の隠れ家として使うつもりなんだな」
「隠れ家、ですか」
先生が言うのだから間違いないだろう。さすが先生だ。ここに来る途中にすれ違っただけでそこまで見抜いてしまう。
「きっと、ベッドの中では熱く燃えるんだろうなぁ」
また始まった。先生の中でお隣の中年カップルはあられもない姿にされているのだ。
長めの髪を掻きあげ目を細めて遠くを見る先生は一見爽やかだが、その実、考えていることは爽やかさとは対極にある。急に僕の身体から力が抜けていくのは風邪だけのせいではないようだ。
「おっと、もうすぐ四時になるね」
「何かあるんですか?」
「ちょっと約束があるんだよ。305号に行く約束が」
305号と言えばあの隣室を盗聴するための部屋だ。今日もどこかの男があの部屋で女を買うのだろう。そんなところで先生は一体誰と待ち合わせているというのだろうか。
「俺が約束したわけじゃないんだよ。再会を約束しているのをこの前盗み聞いたんだ」
先生はにっこりと微笑むと湯気も立たなくなったホットミルクを一気に飲み干し、やおら立ち上がると僕に向かって、じゃあ、また後で、と軽く手を挙げた。
先生はこれから一仕事するような精悍な顔つきで部屋を出て行った。
僕はもう盗聴はこりごりだった。僕にとって盗聴は性欲の充足と言うには刺激が強すぎる。良心は痛むし、何といってもそわそわして落ち着かない。先生が作品づくりのための参考資料に使う分には何も言うつもりはないが、僕はもう305号に足を踏み入れるつもりはなかった。
今日も外は寒い。昨晩のニュースでタレント気取りの女性天気予報士が「明日はとっても寒くなります。昼過ぎからは雪が降り出します。平野部でも大雪に注意してください」と深刻さの欠片も感じられないとびきりの笑顔を湛えて伝えていたのを僕は思い出した。
今日は起きてからというもの時間が経てば経つほど悪寒がひどくなってきていた。風邪をひきながらも週末まで寝込まずに乗り切れたことで気持ちが緩んでしまったのか、全身が気だるく頭も痛い。先生が出て行って部屋に一人残されるとさらに身体が重く症状が悪化したような気がしてくる。僕は体温を測るために押入れから救急箱を探り出してきた。熱があれば今日はこのままゆっくり寝ることにしよう。申し訳ないが先生には出前でもとってもらうことになるだろう。
僕は体温計のボタンを押して電源を入れ先の方を口に含んだ。そのとき携帯電話が鳴った。
どこで鳴っているのか携帯電話は見えるところにはなかった。耳を欹ててみるとどうやら通学に使っているリュックの中のようだ。部屋の隅に横たわるリュックまでの2,3歩の距離が今の僕にはものすごく遠くに感じられる。僕はコタツに足を入れたまま倒れこむようにして手を伸ばした。
日頃滅多に鳴ることのない電話がこういう日に限って存在意義を誇示するようにけたたましく鳴り響く。身体を思い切り伸ばし爪の先に引っ掛けてどうにかリュックを手繰り寄せる。どうせなら切れてしまわないだろうか。こんな日は先生以外の人とは話すことも億劫だった。緩慢な動作でファスナーを開けごそごそと携帯電話を取り出した。
「はい。村石です」
寝転んで体温計を銜えたまま誰から掛かってきたのかも確認せずに電話に出た。こんなときはどうしても不機嫌な声になってしまう。自分でも嫌になるほど不快感をあらわにした声だ。仕方ない。今日という日に掛けてくる方が悪いのだ。
「橋本ですけど……。もしかして寝てました?」
僕は自分の耳を疑った。全く予想していない人の声だったのだ。
朋子さんと話をするのは一週間前の病院以来だ。慌ててトーンを上げようとするから咽喉に何かが絡まって変に上ずったハスキーな声が出てしまう。
「い、いえ。そんな事はありません」電話を握る手が一気に汗ばんでくる。体温がさらに何度か上がったようだ。僕は慌てて口から体温計を出した。「間違いなく起きてます。ええ。こんな時間には寝られませんよ」
僕の慌てぶりが分かったのか電話の向こうで朋子さんが声を殺すようにして笑っているのが分かる。
「そんなに否定しなくても……。でも、それにしては、ものすごく不機嫌そうな声でしたよ。鬱陶しいっていう感じがひしひしと伝わってきました」
朋子さんは僕を困らせようとするのか「ひしひし」に力を込めた。
「いや、あの、その、ちょっと風邪をひいてしまいまして。いや、大したことはないんですが、咽喉が少し痛くて、声が出しづらいかなって感じで」
「風邪ですか?そんな時に電話なんかしてごめんなさい。ゆっくり休んでください。すみませんでした」
朋子さんの態度がころっと変わった。慌てて低姿勢になったかと思うと電話を切ろうとする。僕は少しでも電話を長引かせようとさらに慌てて元気を装った。
「いや、本当に大したことないんです。熱も大したことないですし」
「熱があるんですね?」
「あ、いや、その……」
「分かりました。今は出張先から電話してるんですけど今日は定時に帰れますから看病させてください」
「えっ?そんな、お構いなく。本当に大丈夫ですから」
「いえ。一週間前のお礼をしたいなと思って電話したんです。申し訳ないことしたなってあの日からずっと気になってて。だから風邪の看病ぐらいさせてください」
朋子さんは僕に断る隙を与えずにまくしたてて電話を切ってしまった。
僕は寝転がったまま天井を見上げて放心していた。つい今まで電話越しに朋子さんと話しをしていたと言うのが夢の中の世界だった気がする。あまりに意外すぎて現実感がない。僕は夢心地で再び体温計を銜えた。するとその瞬間また電話が鳴った。
僕は慌てて携帯電話を掴みなおした。朋子さんかもしれないと思ったが液晶画面の表示には先生の名前が出ていた。
「村石君!」
通話ボタンを押すと電話の向こうから噛み付くような勢いで先生が呼びかけてきた。
「ど、どうしたんですか、先生」
「村石君、すぐに三階に上がってきて。大変なんだ」
「何が、大変なんですか?先生。先生?」
電話はすでに切れていた。
常に冷静な先生が慌てている。それだけでただ事ではないのは分かる。早く駆けつけなければ。しかし身体がいうことを聞かない。恐ろしく身体が重い。身体全体が床に引っ張られているような感覚がある。僕は立ちくらみに耐えながら這うようにして外へ出た。
今にも雪が降ってきそうな暗い空だ。針のように鋭い寒風が頬や手に痛みを伴って突き刺さる。触れば冷気で指が引っ付いてしまいそうな階段の金属製の手すりに手をかけながら動かない身体に鞭を打って三階に辿り着くと先生が306号のドアを激しく叩いているのが見えた。
「開けなさい。警察だ!」
先生は気でも違ったのだろうか。いつもは自分がピッキングで不法侵入しているくせに、今は警察を騙って他人の部屋に入り込もうとしている。それも鉄製のドアを蹴破りそうな勢いでだ。あまりの迫力に気圧されて僕は目の前の様子を映画の一場面を観ているように呆然と眺めた。
「開けろ!開けないなら無理やり開けるぞ」
先生はドアの前にしゃがみこんでポケットを探っている。おそらくまたピッキングで開けるつもりだろう。いったいどうしたと言うのだろう。あの部屋の中で何が起きているのだろうか。状況は全く理解できないがとにかく非常事態であることだけは間違いないようだ。
先生は例のように針金のような棒をポケットから出して鍵穴に差し込んだ。すると急にドアが内側から開いた。先生はドアが開く勢いに飛ばされる格好になって通路の鉄製の柵に背中をぶつけた。
「先生!」
僕が先生に駆け寄ろうとすると部屋の中から衣類を右の脇に抱え左手には靴を手にした白いTシャツ姿の男が猛然と走り出てきた。左手に掴んでいる靴で隠しているので顔は見えない。分かるのは背は低いががっしりとした体格で髪を短く刈り揃えた男だということだけだ。彼はこの寒さのなか裸足で脇目も振らずに僕を突き飛ばして階下に降りていった。僕は手すりに摑まりながら階段から転げ落ちないように必死で身体を支えた。僕とぶつかったときに靴下が一足落ちたが男は全く顧みることもせずあっという間に飛ぶように走り去っていった。
「村石君!大丈夫?」
よろよろとこちらにやってきた先生も腰のあたりをさすりながら痛そうに顔を顰めている。
「何とか大丈夫です」
僕は弱々しく右手を上げて無事をアピールした。全く何でこんな目にあわなくちゃいけないんだ。
「とりあえず部屋に入ろう」
先生はそう言って306号に入っていった。
僕はドアの影でためらった。306号では売春が行われていたのだ。そんな場所に足を踏み入れるのは犯罪に加担するようでどうも気がひける。それにたった一度ではあるが盗聴した相手の顔を見ることになるかもしれないと思うと、あのときの興奮と嫌悪の気持ちが思い出されて気恥ずかしい。
それでもいつまでも寒い外にいるわけにもいかず仕方なく鼻をすすりながら僕は部屋の中へ入った。
何もないと言っていいほど殺風景な部屋だった。
間取りは僕の部屋と同じだが、およそ生活の臭いが感じられない。人間の出入りが少ないせいか空気が流れることなく澱んでいる気がする。台所には冷凍室のついていないタイプの小さな冷蔵庫が低い音で唸っている。奥の部屋にはテレビデオが卑猥なタイトルのビデオテープと一緒に床に転がっていた。ベッドだけが大きく立派でこの部屋の意味を暗示しているかのようだった。そのベッドの上に生きているとは思えないほど血の気の無い表情の裸の女が毛布に包まって座っていた。
ボーイッシュなボブカットの髪を今時の高校生らしく明るい茶色に染め顔には派手気味な化粧を施している。本当は童顔で可愛らしい子なのだろうが、きつめのアイラインや目に痛いピンクの口紅が彼女の纏っている雰囲気にすれたものを感じさせる。
シーツは乱れベッドの周りに彼女のものと思われる破れたセーラー服と赤い上下の下着が散乱していた。彼女は呆然と目を見開いたまま身を包む毛布の端をぎゅっと掴み小刻みに震えている。さっきの男に指で絞められたのだろうか、首にうっすらと赤黒い痕が浮かび上がっているのが痛々しい。
「大丈夫ですか?」
先生の問いかけに女はこくりと力無く頷いた。全然大丈夫ではなさそうだ。乱れた髪も直さず毛布の隙間から陰部が覗いているのも気付いていないらしい。若々しく伸びる白い足の間にある黒く輝く茂みを直視できず僕は部屋の中を見回した。
ガスコンロもないのでは湯も沸かせない。
僕は先生に断って一端自分の部屋に戻った。一番大きいマグカップにたっぷりコーヒーを淹れて再び306号に戻り一向に震えの止まる様子のない彼女に手渡した。彼女は礼を言う余裕も無いようで飢えた子供のようにマグカップを僕からひったくると両手で挟むように持ち一口飲むと頬に当てた。
「温かい」
彼女はちびりちびりと半分ほど飲んでようやく呪縛から解かれたように大きく息をついた。少し顔色に生気が戻ったように見える。僕が下に行っている間に下着だけは身に着けたようだ。毛布の隙間から赤いブラジャーの肩紐が見える。透き通るような白く若い肌にはその生臭い血の色のようなラインが映えすぎて違和感があるように思った。
先生は自分と僕をこのマンションの住人だと彼女に簡単に紹介し、それから質問を始めた。
「あの男は知り合い?」
先生の問いに彼女は首を横に振った。
「知り合いじゃないけど、今日で三回目」
「前にも二度会ったことがあるんだね」
「会ったっていうよりも、やったっていう感じ……」
自分よりも若い女性が恥じらいもなく平然と「やった」と口にすることに僕は戸惑いを感じたが、先生はなるほどという表情で頷いた。
「彼について何か知ってることない?」
彼女はあっさり「さあ」とだけ答えた。深く考える素振りも見せずまるで他人事のように気のない返事をする彼女に僕は苛立たしさを覚えた。
「名前とか、住んでるところとか知らないの?思い出してみてよ」
僕が詰問口調で先生と彼女の間に割りこむと彼女は僕を馬鹿にしたような一瞥を寄越した。
「あのね、金を払ってセックスするのに名前とか住所とか教える馬鹿がいると思う?出来る限り自分のことを知られたくないと思うのが普通でしょ。毎回毎回乱暴で下手くそなのを我慢してきたけど、さすがに今日は頭に来て『その歳にもなって女の扱い方も知らないの?』って言ったら殺されかけたの。ただ、それだけ」
言い終わると彼女は僕の存在を無視するように僕から目を逸らしコーヒーを啜った。
僕は水の流れのように澱みのない口調の彼女に言い返す言葉を咽喉に詰まらせた。
浅はかな奴だ
苛立ち紛れに頭の中で彼女を罵った。考えもなく誰彼無しに肉体関係を持つからこんな目に遭うんだ。憤りから思わず口をついて出そうになる彼女への蔑みをぐっと飲み込んで僕は努めて冷静な声を出した。僕は何も喧嘩をするためにコーヒーを作ってきたわけじゃない。
「『それだけ』って言い方はないだろ。僕らが来なかったら君は今頃本当に死んでたかも知れないんだからさ」
僕が言うと彼女は眉根を寄せて僕を睨みつけた。
「そんな恩着せがましく言わないでよ。確かにこの人には助けてもらったけど、あんたは何かしてくれたの?」
そう言われれば何もしていない。犯人を捕まえることもなく無様に通路で突き飛ばされてひっくり返っただけだ。しかし風邪をひいて身体がつらいのに、自分の部屋とを往復して熱いコーヒーを淹れてきてやったのだ。そんな言われ方をされる筋合いはない。
「売春なんかしてるからこんなことになるんだろ」
僕は吐き捨てるように言った。マグカップを奪い取って自分の部屋に帰ってやろうか。
「まあまあ村石君、冷静に」
先生が僕をなだめようと笑顔で僕の視界に入り込んでくる。先生に間に入られては僕も何も言えなくなる。
「ったく、うざいわね。その売春を盗み聞きしてるのはどこの誰よ」
僕は顔が真っ赤になってカッと熱くなり全身から汗が拭き出すのを感じた。急激に頭に血が昇ったのか、身体全体がふわっと浮き上がったような感覚を覚える。気を抜くとその場にへたり込みそうだ。
盗聴のことを彼女はどうして知っているのか。先生もさすがに驚いた表情で彼女を振り返った。
「気付いてたの?」
先生は自分の膝に手をやり彼女の顔と同じ高さまで自分の目の位置を下げて問いかけた。
「何となく気配でね。下手な男とやるときはセックスに集中したくないからどうしても他のところに神経をもっていっちゃうの」
「そうなんだ。……怒ってる?」
「ううん。今日だって隣の部屋にいてくれたから助けてもらえたんだし……。エッチするのは気持ちいいし、その上お金までもらえるんだから止められないけど知らない人はやっぱり怖いの。今日みたいなこともあるしね。だから誰かが側に居て聞いててくれてると思うと安心なんだ。それに、聞かれてると思うと興奮して濡れちゃうの。私が興奮すればお客さんも喜ぶし一石三鳥よ」
彼女は男の僕でさえ耳を覆いたくなるような卑猥な言葉を平然と言ってのけると寒そうに毛布を掴みなおしてしっかりと全身を覆った。
僕は空恐ろしくなった。世の中何か間違っている。妹と同じ年代の高校生が快楽の手段として男の身体を求め、しかもそれを他人に聞かれることでより快感を覚えていると平然と口にする。どうすれば自分が興奮するのか、興奮すれば自分がどうなるのかもしっかり理解している。彼女はこの若さで性欲と快楽を思うように操作できると誇示したいような口調だ。
「大分顔色が良くなってきたね」
「うん。温まってきた」
彼女は先生の言葉には素直に頷くようだ。どうして先生はこう人の扱いが上手いのだろうか。
「名前、聞いても良い?」
「ゆう。結ぶっていう字一字で結。いい名前でしょ。結構気に入ってるの」
そう言ってにっこりと笑う彼女はやはりまだあどけなかった。口元に出来る笑窪が思わず微笑み返したくなるほど愛らしい。しかし毛布の隙間から見える胸元にはしっかりと谷間が出来ている。身体は十分に大人なのだ。彼女になら高い金を払ってでもという男はたくさんいるだろう。
「結ちゃんか。結ちゃん、話は戻るけど、さっきのお客さんはいくつぐらいか分かる?」
「年?そうだなぁ。四十は超えてるかなぁ」
「背は高くないけど、結構がっしりしてたよね」
「そうだね。お腹は出てなかったし、特に足が引き締まってたよ。外回りの仕事なのかな」
「なるほどね。結婚してそう?」
「してないと思うよ。あんなに下手くそじゃ誰も結婚してくれないよ、きっと」
自分の子供と言っても良いぐらいの年若な高校生に軽い調子でこんなことを言われたら大なり小なり殺意を抱くだろう。彼女に掛かったら男の尊厳も意地もあったものではない。
「犯人捕まえたい?」
「ちょっと、先生」
僕は慌てて先生の肘を掴んだ。そのまま壁際に連行する。
「何、何?」
「いったい、どうするつもりなんですか?」
先生は結に「警察に通報するか?」とは訊かずに先ほどから犯人のことについて結から根掘り葉掘り聞き出そうとしている。何やらきな臭い。探偵の真似事でもしようというのだろうか。そんな危ないことをしてせっかく軌道に乗り始めた本業に支障を来たすようなことがあってはならない。
「犯人捜しもおもしろいかなって思ってさ」
「やっぱり。ダメですよ、そんな危険なこと。そういうのは警察の仕事です」
「だって、警察に通報なんてできないじゃん。そんなことしたら売春してた結ちゃんだって捕まっちゃうんだよ」
「だからって、先生が首を突っ込むことじゃないじゃないですか」
「乗りかかった船だろ。それに小説のネタにもなりそうじゃん。村石君も一緒に探偵ごっこしない?」
先生はもう完全に乗り気だった。目が爛々と輝いている。
「そんなこと言われても」
「見てごらんよ。あんなに痕がつくほど首絞められて。結ちゃんが可哀想だとは思わないの?」
僕は先生の肩越しに結を見た。確かに結の白い首筋に浮き上がっている指の痕を見れば僕だって犯人に対する嫌悪感を抱く。犯人をこのままのうのうとさせておくのは歯がゆいような気にもなってくる。
結は右手の人差し指をその小さな唇に添えて思案顔を浮かべている。悩む姿も可愛らしい。自分の魅力を知っていての素振りなら全く末恐ろしい。これからも彼女によって何人もの男が狂わされることになるだろう。
「やっぱ別にいいや。今日は運が悪かったと思うことにする」
「え?」
あっけらかんと笑う結に僕と先生は同時に驚きの声をあげた。
「運が良くって失神するほど気持ちいいときもあれば、今日みたいな日もあるわ。お金ももらってるわけだし。お客さんは大事にしないとね」
「それでいいの?」
半ば未練がましくすがりつくように先生が結の顔を覗き込む。
「うん。私が怒らしちゃったっていうのもあるし。結局今日は本番やってないのにお金はもらったままだからなんだか逆に悪いことしちゃったかも」
結の言葉は実に爽やかだった。彼女には彼女なりの商売観があるようだ。お金をもらった以上はその額に見合うサービスを施す。相手に満足させることにこだわりめいたものを持っている。結なりのプライドなのだろう。「何だか今日の売り上げは使いにくいなぁ」とつぶやく結が好ましくさえ思えてくる。
「あっ、雪だ」
いつの間にか窓の外では雪が降り出している。空から落ちてくる一ひら一ひらがかなりの大きさだ。天気予報を信じれば今晩中降り続くことになる。明日の朝、ドアの向こうにどんな景色が広がっているか楽しみでもあり憂鬱でもあった。
「私、そろそろ帰る。積もったら嫌だもん」
「帰るって言ったって、どうやって」
僕は部屋に散乱している結の衣服を見つめた。この破れたセーラー服では外に出られないだろう。
「朋子さんに服、拝借できないかな」
「でも、この状況をどう説明しましょうか」
「そうだなぁ」
僕と先生が思案に暮れている間、結は毛布に包まりながら制服をかき集め何やらごそごそやっている。毛布からルーズソックスを履いた足が伸びた。スカートも穿いたようだ。セーラー服は壁際に転がっていたプラダのリュックサックに突っ込んだ。
「私なら大丈夫よ。コートがあるから平気、平気」
結は裸の背中をこちらに向け、素早く淡い水色のダッフルコートを羽織るとこちらに向き直り、ほらねと得意そうに笑った。確かにコートを着てしまえばその中の様子は周りからは分からない。マフラーを巻けば首筋の痣も隠れてしまう。誰も彼女がコートの下にブラジャーしか着けていないなどとは思わないだろう。
「でも、きっと寒いよ。雪が降ってるし風邪ひかない?」
「大丈夫だって。若いもん。それにこの格好で外を歩いてたら刺激的じゃない?身体が火照ってくるわ。今、便秘中だからお腹が冷えて下痢になったら丁度いいし」
お腹の周りを大きく撫でる結に先生は大きな声で笑い出した。彼女のたくましさには笑うしかないという気持ちは僕にも理解できた。
先ほどまで生きているかどうか疑いたくなるようなひどい顔色でうずくまっていた彼女はもうどこにもいない。まかり間違えば今頃このベッドの上で彼女は息絶えていたかもしれなかったなどとは到底信じられない話だ。
ころころと笑う彼女は存分に人生を謳歌していて何の悩みもなさそうに見える。実際悩みのない人間などいないことは僕だって知っている。結だって見ず知らずの男に殺されかけたのだ。きっと心に深い傷を負ったに違いない。それでも気丈に振る舞い何事もなかったようににっこりと笑う彼女の強さは僕には真似できないと思った。彼女なら今日の出来事を明日には友人に笑い話として語っているかもしれない。
「握手してくれませんか?」
先生は右手を彼女に向けて差し出した。それが単に知り合った記念でも、高校生の肌に触れたいためでもないことは僕にも分かった。先生は彼女が対人恐怖症や男性恐怖症に陥っていないかどうか確認しているのだ。
彼女は差し出された右手に一瞬強張った表情を見せた。反射的に身をすくめたのが肩の動きで分かる。やはり男の手というものに対して恐怖心が出来てしまったのだろうか。
しかし彼女はひるまなかった。すぐに右の掌を軽くコートの脇腹で拭うような仕草をして笑顔を添えて先生の手をとった。次いで彼女は僕に向かって右手を差し出して握手を求めてきた。これも単なる握手ではない気がした。彼女は自分から僕の手を握ることで生死の境をさまよった恐怖を克服しようとしているのかもしれない。
僕は結を真似て脇腹で掌を擦ってから彼女の手を握った。彼女は僕の仕草に笑って僕の手をしっかりと握り返してきた。彼女の瞳にはもはや微塵の曇りもない。その笑窪には若々しい生命力が漲っているようだった。
「この仕事続けるの?」
僕は敢えて「仕事」と言った。その言葉が結にとって一番しっくりくるだろうから。彼女は屈託のない笑顔で頷いた。
「当然。こんなにいい仕事、他にはないわ」
結はプラダの黒いリュックサックを肩にかけ鍵を手にして「出ましょ」と歩き出した。
「最後に一つ、聞いてもいいかな?」
玄関に向かう結の背中に向けて先生は最後の問いを投げかけた。結は玄関でローファーを履きながら「なあに?」と問い返した。
「結ちゃんって、何歳なの?」
そんなことを聞いてどうするのだろうか。確かに結は小柄で童顔ではあるが、胸の膨らみは十分で中学生には見えない。
「二十歳。大学二年生よ」
結は事も無げに言って玄関から出て行った。
僕は狐につままれたような感覚で開いたままのドアの向こうを呆然と見つめていた。そこから結は確かに帰っていった。しかし僕は幻を目で追っているようなあやふやな気持ちになった。今の今まで高校生だと思っていた女の子が実は僕と同い年のれっきとした成人の女性。俄かには受け入れがたい事実だった。大きなガムを飲み込めと強要されているような気分だった。どうにも喉の奥に入っていかない。
「やっぱりな」
先生は爽やかに笑って結に続き外に出て行った。
先生はいつから気付いていたのだろうか。この三人の中で知らないのが僕だけだとしたら何とバツの悪いことか。すっかりだまされている僕を二人は心の中で笑っていたのだろうか。
「閉めちゃうよ」
ドアの影から結が顔を出して鍵を鳴らした。その向こうから雪混じりの寒風が入り込んできて気付代わりに僕の頬を叩く。背中に悪寒が走り僕は風邪をひいていたのを思い出した。すっかり全身から力が抜けてどっと熱が上がった気がする。せめてもの救いはこれから朋子さんが看病に来てくれるということだ。
僕は再び這うような気持ちで二人に続いた。




