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今にも何か降って来そうな鉛色の空だ。その不吉な空に突き刺さるように真っ直ぐレールが伸びている。どこまでも続く赤銅色のレール。後ろを振り返ると同じように線路が遠近法の絵の如く紅く燃え盛る大地の一点に向かって走っていた。
どうしてなのか分からないが気がつけば僕の足は線路に同化して僕は身動きがとれないでいた。両手をじたばたさせるのだが足は全く動かない。どれだけ揺すっても鋼のレールは微動だにしなかった。このまま僕は一生レールの上から抜け出せないのだろうか。そう思ったとき僕はゆっくりと前に進んでいた。動きたいと思ったからでもなく、かと言って動きたくなかったわけでもない。ただ足が勝手にレールの上を前に進んでいくのだ。レールの上からは外れることが出来ない。後ろに戻る術も見当たらない。このままあの不気味な空に向かって行くだけだ。僕は動きたくないと思った。少しの間とどまって考えたい。しかし足は言うことを聞かずただただ前進を続ける。
僕はだんだん焦ってきた。このままレールに身を任せていたらいつかあの暗い空に飲みこまれてしまう気がする。色とも言えない無表情の鉛の空にたどり着いても何も見当たらないに違いない。満足感も、達成感も、挫折感さえも。
嫌だ
このままだと僕は灰色に染まり灰そのものになってしまいそうだ。燃えることなく燃え尽きてしまうのだ。僕は何とかしてレールから逃げ出したくなった。脱線したい。それがたとえ事故であってもいい。身を滅ぼすような大事故でもかまわない。何とかしてこのレールから外れなくては。
いつの間にか僕の右手には大きなハンマーが握られていた。いや、握っているのではなく右手そのものがハンマーになっていた。そんなことはどっちでもいい。とにかくこれで殴りつければこのレールは壊れるだろう。僕は右手を大きく振りかざした。ずしりと身体全体に重量感を覚える。振り下ろせばこのレールはひとたまりもない。そのとき一瞬僕の頭の中を、レールが壊れればどうなるのか、という疑問がよぎった。僕は右手を下ろしかけて躊躇した。このレールを殴りつけると僕はどうなるのだろう。線路端に投げ出されても前にレールはない。この足ではレールがなければ進みようがない。
しかし僕はもう一度右手を大きく振りかざした。そんなことは後で考えればいい。とにかく今はこのレールから抜け出すことが大切だ。
一思いに僕はハンマーを線路に殴りつけた。大きく高い金属音とともに全身に鈍い感触が広がる。しかし眼下にはびくともしない鋼のレールが横たわっていた。
僕は不意に背後からかすかな振動を感じた。地面に膝をつきレールに耳を近づけると、振動は確実に大きくなっていく。
僕は焦った。間違いない。電車がやってくるのだ。
僕は右手のハンマーで何度も何度もレールを殴りつけた。このままでは僕は電車の下敷きになってしまう。しかしレールは僕をあざ笑うかのように鉛色の鈍い光を変わりなく発し続けていた。
僕は前方に目をやった。眼前で線路が二又に別れている。その向こう数メートルのところに切り替えのポイントレバーらしきものが立っていた。
後ろを振り返ると遥か彼方から電車が進んでくるのが見えた。煌々とライトを照らして猛然と僕を追いかけてくる。僕は前に急いだ。結局レールの上を進んでいる自分に嫌悪の気持ちはなかった。とにかく今は生きなければ。
僕がポイントを超えたところで背後すぐ間近から巨大な電車の猛り狂う警笛が聞こえてきた。僕を喰らおうとする猛獣は恐るべきスピードですぐそこに迫っているのだ。
もう間に合わない。僕は伸ばせるだけ手を伸ばしてレバーに向かって倒れこんだ。
小指にだけレバーが引っかかるのが分かった。その左手の小指に全力を注ぎこみレバーが倒れるのと指の股が裂けるのを感じたとき背後でポイントが切り替わる音がした。
誰かが僕を呼んだ気がして僕は目覚めた。見渡せばいつもの僕の部屋だった。
もうまもなく日が暮れるということはカーテン越しの赤褐色の光で分かる。全身に不快な汗をかいていた。胸の奥でざわざわした感触の何かが蠢いている。
脇に転がっている先生の処女作と一緒に買ってきた本を見て僕は記憶を辿った。
「寝ちゃったんだ」
べたべたした額を手の甲で拭う。しかし焦りにも似たざわついた気持ちまではなかなか払拭できない。
嫌な夢だった。しかし驚きはない。同じ類の夢は小さい頃から何度となく経験している。そして目覚めるたびに今のような気分を味わってきたのだ。
チャイムが鳴っている。先生だろうか。
最近僕は玄関の呼び鈴に悪いイメージを抱くことがなくなっていた。僕はふらふらする身体を起こして玄関に向かった。
ドアを開けると冷気が入り込んできて一瞬にして眠気が吹き飛んだ。
「良かったね、りょう君。お兄ちゃん、いたよ」
先生と手をつないでいるのはりょう君だった。りょう君は嬉しそうに僕を見上げている。僕は思わずしゃがみこんでりょう君に微笑みかけた。
「いらっしゃい」
「何だか顔色が良くないよ。体調悪いの?」
先生が僕の顔を心配そうに覗く。
「あ、いえ、ちょっと昼寝してて、急に起き上がったら立ちくらみがして。多分そのせいです」
「だから出てくるのが遅かったのか。何度も鳴らしたんだよ。大丈夫?」
「大丈夫です。それよりも今日はどうしたんですか?朋子さんは?」
僕は朋子さんがドアの影から顔を出すのを期待していた。
「ママ、お仕事」
りょう君がつまらなさそうに報告する。
「今日は日曜日だから休みの予定だったんだけど、急に仕事が入っちゃったんだって」
「そうなんですか」
僕は極力がっかりした様子を見せないように振舞いながらも先生に妬みを感じていた。どうして先生が朋子さんの予定を知っているのだろうか。どうしてりょう君と一緒にいるのだろうか。
駆け足で部屋の中に入っていくりょう君を見送って先生は僕に耳打ちしてきた。
「305から戻る途中で、出てきた朋子さんにばったり会っちゃったんだよね。肝をつぶしたよ」
どうやら先生は盗聴帰りに、急な仕事で呼び出された朋子さんと遭遇して部屋に残されるりょう君の面倒を申し出たようだ。りょう君が一人、部屋で朋子さんの帰りを待つことは珍しいことではなかったようだが、それでも一人は寂しいに決まっている。りょう君が先生に飛びついて喜んだのは先ほど僕がドアを開けたときのりょう君の屈託ない笑顔から想像に難くない。これからりょう君が一人になることがあったらこうやって遠慮せずに遊びに来て欲しいと僕は思った。りょう君の来訪で朋子さんと話す口実ができることを期待している部分は否定できないが、子供嫌いの僕も天使を想像させる笑顔のりょう君だけは素直に可愛いと思えていた。
それにしても先生はあっけらかんとしている。二階の住人が三階にいる不自然さを朋子さんにどう説明したのだろうか。
「ここからの景色が好きなんだって答えたよ」
りょう君に絵本を読みながら平気な顔をして先生は言った。嘘ではないからね、と先生は平気そうな口ぶりだが僕にはとても真似できない芸当だと思った。僕だったら朋子さんにどういう応対をしただろうか。ろくに挨拶も出来ず逃げるように部屋へ戻ったことだろう。日曜日の昼間から商売に励む高校生の女の子にもびっくりだが、図太い神経の先生に僕は改めて驚いた。
りょう君は先生になついている。僕の存在など忘れてしまったかのように先生の膝の上で無邪気に飛び跳ねて笑っているりょう君を見ていると先生に嫉妬すら感じてしまう。
先生はどうしてあんなにりょう君に好かれているのだろう。この部屋で鍋をやったときから初対面なのに先生とりょう君は仲が良かった。先生の独身らしからぬ子供のあやし方のせいなのだろうか。それとも単純に馬が合うというやつなのだろうか。
そう考えているうちに僕は一つの答えに達した。りょう君は父親を求めているのだ。りょう君にとって、僕と先生とではどちらがより父親に近いかと言えばそれは間違いなく先生の方だ。彼の目から見れば先生の方が年齢は上だし、外見的にも僕よりは父親の落ち着きを持っているだろう。
先生の膝の上で目を輝かせて持ってきた絵本に見入っているりょう君を見て僕は父を思い出した。
はっきり言って僕は父親が嫌いだった。嫌いと言うよりも恐ろしいという表現が正しいかもしれない。こんな乱暴で傲慢な父親はいらないと思ったことは数え切れないぐらいあった。出来ないと知りつつ子供心に完全犯罪による父親の殺害を考えたこともあった。いっそいなくなればと思わない日はなかったが、それは父親を持つ人間の言葉だ。
口には出さないがりょう君は父親のいない寂しさ、心細さを感じているのかもしれない。先生の膝に座ってりょう君は背中から父親の大きさ、強さ、温かさを存分に味わっているのだろう。出来ることならその役を自分が務めたいと僕は思ったが、先生とりょう君の様子が本当の親子のようにしっくりいっているように見えていつの間にか、うらやましさも消えていた。絵に描いた様な美しい父子の姿がそこにあった。
朋子さんが帰ってきたのは十時過ぎだった。ドアを開けたときに見えた朋子さんの顔はひどく青ざめて見えた。夜の暗がりや、部屋の光の加減でそう見えるのかと思ったが、口数の少なさや何となく気だるそうな仕草がやはりいつもと違っていた。
お仕事大変ですね、と声を掛けようとして躊躇った。朋子さんが排他的なオーラを身に纏っているのが分かったからだ。放っておいてと背中が言っているように思えた。
りょう君は遊びつかれたのか夕飯を食べるとすぐに先生の傍らで眠ってしまっていた。朋子さんはぐっすり眠っているりょう君を少し乱暴に抱きかかえた。急に抱き起こされたりょう君は手足をじたばたさせてぐずり、朋子さんが、静かにしなさい、と太腿辺りを叩くと突然火がついたように泣き出した。それでも彼女は強引にりょう君を抱え小さな声で僕と先生に礼を言うとさっさと自分の部屋に帰っていった。朋子さんが出て行ったときにドアから忍び込んできた冷気が一層暗然たる気持ちにさせる。
「朋子さん、少し様子が変でしたね。風邪でもひいたのかな」
りょう君に掛けていた毛布を畳みながら僕が言うと先生は珍しく難しい顔をして小さく頷いた。
「最近本当に寒い日が続いてるからね」
先生は心配そうに天井を見上げた。そこからは部屋に戻ったりょう君の泣き声が微かに漏れてくる。
「先生」
「何?」
「朋子さんのことが好きなんですか?」
僕は思いきって聞いてみた。前々からはっきりさせておきたかったのだ。
僕は朋子さんのことが好きになりかけている。それは先ほどドアを開けて朋子さんの顔を見たときにはっきりと分かった。あの何かに疲れきったような朋子さんの顔に胸を焦がす愛しさを感じたのだ。すばやく彼女の手を引いて胸に抱きしめたかった。その冷え切った頬で僕の火照った心を静めてほしかった。僕のものにしてしまいたかった。それが出来なかったのは先生とりょう君の存在だ。先生の方がりょう君の父親に向いている、朋子さんの夫にふさわしいと分かっているからなのだ。
「どういう意味かな?」
先生は小首を捻って僕を見ている。朋子さんの顔色、この空気、僕の表情。先生なら僕の言わんとすることが分かっているはずだ。
「朋子さんを愛していますか?」
僕は真っ直ぐに先生を見つめた。相手をコーナーに追い詰めるボクサーの気分だった。答えを聞くまでは逃がしはしない。意味を問い返した先生の真意はこの場から遠ざかりたいということだ。落ち着いては見えるが僕の言葉に先生は怯んでいるのだ。それはつまり先生も朋子さんを好きだと言うことに他ならない。
「いや、困ったなぁ。ハハハ」
頭を掻いて笑う先生を僕は冷ややかに見つめた。先生は真剣な僕を見て気まずそうに笑顔を引っ込めた。
僕は先生からの一撃を待った。心の中で奥歯をしっかり噛みしめ左の頬を先生に向けていた。その一振りで僕はノックアウトされるのだ。先生の口からはっきりと「朋子さんのことを好きだ」という言葉が聞ければ僕はここで朋子さんを諦められる気がしている。それは僕が先生のことを敬愛しているからだ。悔しいけれど朋子さんには、そしてりょう君には先生こそが必要なのだと僕は納得してしまっている。
「愛しているのかどうかと問われれば、答えははっきりとノーだよ。俺は朋子さんを愛していない」
僕はぽかんと先生を見つめた。そんな馬鹿な。実は1+1=2ではないんだよと教えられたような、自分の根底にある常識が揺さぶられた思いだった。
「嘘だ」
僕は吐き捨てるように言った。嘘でなければいけない。先生と朋子さんが結婚するという確定した未来は明日も明後日も太陽は東から昇ることと同じ自然の摂理でなくてはいけないのだ。僕は半ばむきになって先生に食ってかかった。
「先生は朋子さんと結婚して、りょう君の父親になるべきです」
僕は自分の気持ちを棚上げにして息巻いた。心の中の葛藤が余計に平常心を失わせる。しかし先生は明らかに困惑の態で天井を見上げたり窓の外を眺めたりしている。
「愛してないものは愛してないから」
「僕に遠慮してるんですか?」
「そういうことじゃなくて、……村石君は朋子さんのことが好きなんだね?」
「好きです」
勢いとは恐ろしい。
先生は僕の返事にさもありなんという顔つきで頷いているが、僕は口にして自分の耳で聞いて初めて自分の気持ちを疑った。しかし今さら、冗談です、とは言えない。あまりに真剣に断定してしまった。気がつけば後には退けないジェットコースターに乗ってしまっていた。
僕は本当に朋子さんを好きなのだろうか。好意を抱いているのは間違いないが冷静に考えれば愛情と思っていたものは実は同情だったのかもしれない。そして朋子さんとどういう関係になりたいのか自分で分かっていない。結婚したいとまで考えているわけではない。ただ、そばにいたい。そして彼女を癒してあげたい。この気持ちを言葉で具体的に表現するのは僕の語彙力では不可能だった。僕はどうしたいのだろう。僕はもやもやとした霧の中にいた。視界ゼロ。足元も見えない。迷子になったような焦りが僕の中に渦巻き始めた。
そのとき階上から何かが落ちたような鈍い音が響いてきた。間違いなく音の源は朋子さんの部屋だった。聞こえていたりょう君の泣き声がぴたりと止んでいる。
「今の、何の音かな」
先生は小首を傾げた。
「まさか倒れたんじゃ」
ごまかしようのないほど青ざめていた朋子さんの顔色が思い出される。先生は僕の言葉を聞いた瞬間に飛び出していた。僕は先生の背中を追いながら、やっぱり先生は嘘をついていると確信した。
いつの間にか外は小さな雪が音も無く降っている。風に乗って降りかかってくる雪を掻き分けるようにして部屋の前まで駆け上がると先生はドアを叩くようにノックした。
「朋子さん!大丈夫ですか?」
部屋からの返事はなかった。もう一度先生がノックをしたが一向に誰も出て来る様子がない。ノブに手を掛けると軽く回ってドアが開いた。チェーンも掛かっていない。部屋の中からは一条の明かりも漏れてこなかった。
先生と僕は目で頷きあった。
明らかに何かがおかしい。じっと中の様子に目を凝らしても暗闇の中に人の姿は見あたらない。咄嗟に強盗という言葉が頭を過ぎった。この闇の中で飢えた強盗が母子を人質にしてこちらを見ているかもしれない。空気は肌を刺すように冷たく部屋着のトレーナーだけの格好なのに僕は手にじっとりと汗を感じた。
「朋子さん、大丈夫?入るよ」
先生と僕はゆっくりと部屋に足を踏み入れた。
部屋のつくりは僕の部屋と全く同じなので先生も僕も明りがなくてもそれほど不自由なく動ける。しかし部屋の中の様子は全く窺い知れない。
とにかく明りを点けなければ。僕は壁にあるスイッチに手を伸ばした。隣に居ると先生の息遣いがはっきりと分かる。先生は息を詰めて頷き、僕はスイッチを押した。
パッと明りが点いてきれいに整理されているキッチンが僕の周りに浮かび上がった。奥の部屋に台所の光が差し込んで誰かが壁にもたれて立っているのが分かった。
「朋子さん?」
声を掛けても彼女は身動きせず俯いている。僕は駆け寄ってコート姿のままの彼女の肩に手を掛けた。
「朋子さん。何かありました?」
僕が揺り動かしても彼女からの返答はない。先生が部屋の明りを付けてあっと大きな声を出した。振り返ると木製の四角いテーブルの上にりょう君が寝転がっていた。白目を剥いている。意識をなくしていることは明らかだった。先生がりょう君の口元に耳をやり手で脈をとった。
「大丈夫。息はしてる」
僕は慌てて朋子さんを振り返った。
「朋子さん!どうしたんですか!」
僕の声にようやく顔を起こした朋子さんは笑っていた。彼女は僕の手を振り払って腹を押さえて奇怪に笑い出した。キャハハハハ。りょう君を抱きかかえた先生も僕も彼女の様子に呆気にとられて立ちつくした。
「投げたのよ。放り投げたの。私が、ぽいっとね」
僕は耳を疑った。
彼女は気がふれたように大きな声を出して息苦しそうに笑いながら壁にもたれてずるずると倒れこむように腰を下ろした。笑いながらもハー、ハーと大きく息を吐き出して呼吸を整えようとしたが、笑い上戸の酔っ払いのようにまもなく彼女はこみ上げてくる笑いをこらえ切れない様子で肩を揺すり再びクククと不気味に押し殺すように笑い出した。
僕は気付いたときには彼女の正面にしゃがみこんで彼女の頬を平手打ちしていた。乾いた音と共に笑い声がぴたりと止んだ。
「村石君!」
いつも冷静な先生だがさすがに今回は僕の行動に驚いたようだった。朋子さんは僕に殴られた頬に手を添えて固まっていた。乱れた髪が顔を覆っていて彼女の表情が全く掴めなかった。
ポタッと微かな音がした。ベージュ色のカーペットが何かで滲んだ。よく見れば彼女の顎に光るものが伝っていた。
僕は自分の右手と朋子さんの涙を交互に見た。
僕は初めて自分のしたことに驚いていた。今までの人生で女性を殴ったことなど一度もない。新聞の家庭内暴力の記事を読んでも自分は万に一つも女性に手を上げることなどないだろうと思っていた。しかし、間違いなく僕が朋子さんを殴ってしまったのだ。痣になってしまったらどうしようか。これが原因で朋子さんが男性恐怖症になってしまったら。僕は持ち前のマイナス思考で次々と自分を追い込んでいった。先生の顔を見上げられなかった。
すると朋子さんが急に僕の膝に抱きついてきた。そして大きな声をあげて泣き出した。それこそ走り回って転んだ子供のように。
ずっと彼女は泣きたかったのかもしれない。誰かを頼って頼りきって我儘に泣きたかったのだろうか。
僕が撫でるように彼女の頭の上に手を添えると彼女は僕の腰に抱き付いた手に一層力を込めて泣き出した。
「とりあえず病院に行ってくるよ。大丈夫だとは思うけど頭を打ってるみたいだから。一段落ついたら朋子さんの保険証を持って来て」
先生は近くの病院の名前を僕に告げると、りょう君を毛布に包んで抱え雪の中へ出て行った。
朋子さんは何年分かの涙を一気に流しきるかのように止め処なく泣いている。その泣き声は梅雨時の雨のように止む気配がなかった。僕の膝は絞れるぐらいになっているだろう。僕の手の下で泣いている朋子さんは小さくて愛しかった。今彼女はこの広い世界で唯一僕だけを頼りに涙を流しているのだ。そう思うと僕が彼女を泣き止ませ幸せにしてあげなくてはいけないという気持ちになってくる。諦めて先生に全てを託そうとしていた僕はもうどこにもいなかった。好きです、と言い切ったことにも後悔の気持ちもなくなっていた。今は自分の気持ちに一点の曇りもなかった。
「さあ、病院に行きましょう」
朋子さんは涙を拭き、鼻をすすりながら何度も頷いた。保険証を持つと朋子さんは走るように外に出た。タクシーはすぐにつかまった。
「あの子の父親に会ったの」
「え?」
「別れた前の夫に会ったの」
朋子さんは少しずつ言葉を紡ぎだすように選んで話し出した。
離婚前からノイローゼになってしまい精神科に通っていること。前夫に今日いきなり電話で呼び出されたこと。彼が寄りを戻したいと言ってきたこと。
朋子さんは自分の心の中を整理するようにゆっくりと筋道立てて話していく。
「朋子さんは何て言ったんですか?」
「絶対に嫌だって。これ以上あの人に私の人生をかき回されるのは耐えられないから。やっとりょうとの暮らしにもリズムが出てきたところなのよ。あの人が現れたら私もりょうも無茶苦茶になってしまう」
朋子さんの話から推測すると離婚の原因は前夫にあるようだった。
彼は全てにおいてだらしなかった。朋子さんの知らないところで遊ぶ金欲しさに多額の借金を作り、朋子さんの妊娠中に不特定多数の女と関係を持った。そのうちの一人には半ば力ずくで行為に及び妊娠させたうえで中絶させている。朋子さんは借金返済に加え中絶させた相手への慰謝料のためにも身を粉にして働きりょう君を流産しかかったらしい。彼から暴力を振るわれたことも少なくなかったようだ。
「これ以上あの人と関わるのが怖くて仕方ないの」
一度は恋に落ちて将来を誓いあった二人なのに今は相手に恨みさえ抱いている。悲恋とはこういうものを言うのだろうと僕は思った。たとえ別れることになってしまったとしても、相手のことを好きだったという気持ちまでは否定したくないと思う。その気持ちを否定することはそのときの自分を否定することになる。過去の己を否定するのは今の自分を否定することに繋がる。過ぎ去った恋は大切な思い出として心の隅に美しく飾っていて欲しい。二人の思い出が恐怖や絶望の灰色に染まってしまっている朋子さんの恋は本当に悲しいものに思えた。
「もう、少しも愛してないんですか?」
僕の問いに返してきた朋子さんの薄紅い目は何だか悲しそうに見えた。
「今思えば馬鹿みたいなんだけど、私、あの人のことが好きで好きで家出するようにして彼についてこっちに来たの。私、このあたりの出身じゃないのよ。もともとは関西の人間なの」
僕は朋子さん母子と初めて一緒に鍋を突付いた日、彼女が先生を関西出身だと言い当てたことを思い出していた。あのとき朋子さんも、いろいろある、と言っていた。
「私が元には戻れないって言ったときあいつ何て言ったと思う。『だったら、金よこせ』って。私、鞄振り回して叫びながら走って逃げてきちゃった」
彼は朋子さんのことを金づるとしか思っていないのだ。朋子さんは震えていた。それが恐怖からなのか悔しさからなのかは分からなかった。
「私、もう狂っちゃいそうなの。気を抜いたら自分が何をするか、自分のことが分からないの。本当はもう狂ってるのかもしれないわ。何もかもが怖くて不安で一思いに死にたくなるのよ。胸が詰まって息が出来なくなって涙が止まらなくて私……」
朋子さんは震える手で頭を抱えた。僕は黙って見ていることに耐えられずそっと朋子さんの肩に手を掛けて抱き寄せた。小さな朋子さんは僕の腕の中で小刻みに震えるばかりだった。
「これから一人でちゃんとあの子を育てていけるのか、あの男がまた現れて私を殴らないか、私の気がふれてしまわないか、あの人の血が流れているりょうを愛し続けられるのか……。りょうには何の落ち度もないのにどうしても冷たく接してしまうの。毎日何かに心を縛られているような圧迫感を感じたり、身体が中から張り裂けてしまうような感覚に襲われたりする。耐えられなくなるのよ」
「大丈夫ですよ、大丈夫」
僕は優しく朋子さんの肩を抱き頭をなでた。
僕は何となく満ちた気分だった。力なく僕の肩にもたれかかる朋子さんが全てを僕に預けてくれたようでその重みが僕の心に喜びをもたらしている。タクシーがこのまま二人を乗せてどこまでも運んでくれればと思った。これからは僕が朋子さんを支えていこう。
程よい暖房と優しい振動が眠りを誘うほど心地よかった。窓越しに見える夜空に雪が舞っている。真っ黒の空から白い雪片が無尽蔵に生み出されてくる様子は神のいたずらかと思えるほど美しい。黒いアスファルトの上に氷の結晶はもろくはかなく溶けていく。その脆弱な美しさはまるで朋子さんのようだった。
りょう君は大丈夫だろう。根拠はない。だが先生が大丈夫だと言ったから僕は何も心配していなかった。先生の優しい口調にはいつも揺るぎない自信の裏打ちを感じる。りょう君は何事もなかったようにすぐに元気に母の胸に飛び込んでくるだろう。きっと明日にはあの無邪気な笑顔を見せてくれるはずだ。
タクシーが病院に着いてしまった。朋子さんはドアが開くと、りょう、と一言つぶやいて雪を掻き分けるように駆け出していった。