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 ここのところ見るからに先生は忙しい。

 代役で雑誌に小説を載せて以降は次から次へと仕事が舞い込んできているようだ。余程ピンチヒッターの出来が良かったのだろう。先生の部屋にはひっきりなしに出版社の人が出没している。そのために先生があまり寝ていないことは一目瞭然だった。髪はぼさぼさ、服はよれよれ、いつも眠そうな顔で赤い目をこすりながらあくびを連発している。僕が作る夕食も時間が惜しいとばかりに一気にかきこみ食べ終えるとすぐに部屋に戻って行ってしまう。僕が作っていない朝、昼はしっかり食べているのだろうか。とてもそうは思えない。先生は日に日にやつれていっているように見える。こんな状態が続けば身体を壊してしまうのは明らかだけど、先生にとって今が一番大事な時期だと思うと僕は何も言えなかった。僕に出来ることは栄養たっぷりの夕食を作ることだけだった。

 今日はニンニクたっぷりの餃子とうな丼と山芋のサラダの予定だ。食べ合わせにはこだわらず精力のつくものばかりを選んだ。これだけ食べればスタミナの補給は十分だ。先生には無理してでも全て口に入れてもらわなくてはいけない。

「村石君、居ますか?」

 チャイムを鳴らし玄関で僕を呼ぶのは先生のようだ。腕時計を見ると4時前。夕食にはまだ早い。準備は今から始めようとしていたところだ。

 しかし玄関を開けるとやはり先生が立っていた。心なしか先生の表情が明るい。目の周りの隈も無くなっている気がする。

「どうしたんですか?夕食にはまだ早いですよ」

「うん。今日は午前中に仕事が一段落ついてさ。小一時間ぐらい昼寝しようかと思って横になったら思わず爆睡しちゃったんだよね。で、さっき起きて、することないから遊びに来たわけ」

 先生はいつもの先生に戻っていた。少し長めのきれいな髪、たれ気味の優しい目、さわやかな笑顔。

 僕は先生を部屋に上げてホットミルクを出した。

 熱めのホットミルクは先生のお気に入りだ。僕は熱を加えすぎることによって表面に出来る膜があまり好きではないのだが先生は全然気にしない。逆に膜の存在を楽しんでいるようで吹いたり吸ったりして遊んでいる。

「忙しかったみたいですね」

「おかげ様でここのところ立て続けに仕事が入っちゃって。この前のピンチヒッターで雑誌に載せた小説が好評だったみたいでさ」

「寝る暇もなさそうでしたもんね。目の周りに隈が出来てましたよ」

 先生は苦笑して髪をかき上げた。指の隙間から黒い髪が雪崩れ落ちる。シャンプーの爽やかな香りが漂ってきそうだった。

「ホント、冗談じゃなく風呂もろくに入れなくてさ……。気がついたらキーボードに突っ伏したまま居眠りしてるってことが何回もあったなぁ。我ながらよく風邪ひかなかったと思うね」

「気が張ってたんでしょうね。逆に気が抜けた今が危ないですよ」

「そうそう。昼寝してから少し咽喉が痛いんだよね」

 先生は真面目な顔で僕の言葉に頷いた。

 一人暮らしの人間にとって風邪は馬鹿にできない大病だ。寝込んでしまっても誰もご飯を作ってくれない。買い物に行けなければ部屋の中の食料はなくなっていく。熱が出たところで氷枕を作るのが自分なら氷を入れ替えるのも自分だ。寝汗をかいて着替えるということを何度か繰り返していると洗濯物はたまっていくばかりでそのうち着るものが無くなってしまう。そして何よりも心細いのがいけない。このまま誰にも気づかれずに死んでいくのではないかと思うとあまりの寂しさに叫びそうになる。いつか死後冷たくなって肉も腐り始めたころに新聞の配達人がポストに溜まっている新聞を不審に思いドアに手を掛け部屋の中の僕の死体を発見するという惨憺たる光景を思い描いてしまったりもしてしまう。そんな死に方は嫌だと布団から這い出して誰かに電話を掛けようとするのだがそういうときに限って誰も捕まらないものなのだ。

 よく考えるとこの部屋には薬らしいものが何一つない。風邪薬ぐらいは常備していた方が安心だと僕は思った。ついでに先生に咽喉飴を買ってこよう。

「この一週間で5本の短編を書いたんだけど、今度それが短編集の形で出版してもらえるらしいんだ。言うなれば処女作だよね。出来上がったら一冊あげるからさ、良かったら読んでみてよ」

 先生の本が出版される。先生の本が日本中の書店に並ぶのだ。僕は改めて先生を尊敬の念をこめて見つめた。先生が何だか眩く見える。僕のような人間が先生と対等に話をしていても良いのだろうか。先生を近くに見ているだけでこそばゆいような快感を覚えてしまう。

「一応、『禁断の関係』ってのが全体を通してのテーマになってるんだ。親子に始まって教師と生徒、刑事と犯人、僧侶と尼僧、医者と患者……。一番書いてて面白かったのが教師と生徒かな。レズものにしたくって教師も生徒も女にして電車内で教師が生徒に触られるってのを描いたんだけど、これが我ながら自信作なんだよ」

 思い出した。先生は官能小説家だった。濃い言葉をさらりと言ってのける先生のさわやかな口調が実にアンマッチだった。

「しかしよくそんなに次から次へとネタが思いつきますね」

 僕はこれが不思議で仕方なった。

 先生のように次から次へと作品を仕上げていく作家という人種の頭の中はいったいどうなっているのだろうか。書きたいことがどこからか無尽蔵に湧きあがってくるのだろうか。指が独自の思考回路を持ち、先生の脳とは無関係に勝手にキーボードを叩いているのかと思ってしまう。

「ちょっとついてきて」

 先生はちょっと考え込んだ様子を見せると僕をどこかへ連れて行こうとした。一度決めると後には退かない先生はニヤニヤ笑いながら半ば強引に僕を外へ引っ張り出した。

 先生が向かった先はサクラビルの三階だった。朋子さんとりょう君が住んでいる302号の前を通り過ぎ305号の前に先生は立ち止まった。

 以前先生から305号の部屋には誰も住んでいないと聞いたことがあるのだが。

 先生は口の前に人差し指を立てて僕に声を出さないように注意してからドアのノブの前に屈みこんだ。僕は先生が何をするのか想像もつかず、ただ言われたとおり物音を立てないように静かに先生の横にしゃがみこんだ。二人で声を押し殺していると何だか先生と秘密を共有しているような気がして僕はいったい何が始まるのかと先生の行動をわくわくして見守った。

 先生がシャツの胸ポケットから取り出したのは二本の金属製の細い棒のようなものだった。先生はその二本の棒を素早くドアの鍵穴に差し込んだ。

 ピッキングだ。

 先生はこの305号の鍵を開けるつもりなのだ。いつになく真剣な眼差しで鍵穴を覗き込んだり音を聞いたりしている先生に無駄な動きはない。その慣れた手つきはこの方法での侵入が一度や二度ではないことを物語っている。

「ちょっと、先生」

 思わず声が上ずりそうになる。これは犯罪ではないか。僕は慌てて前後左右に視線を飛ばし誰もいないことを確認した。

「止めましょうよ、先生。大体、どうしてピッキングなんか出来るんですか?」

 先生は僕の問いを無視して作業を続けた。

 僕は完全に怖気づいていた。当然ながら不法侵入の経験などない。たとえ空室であっても自分の部屋ではない以上見つかればただではすまないと思う。しかし何か言おうとすると先生はまた人差し指を立てて僕に沈黙を要求する。こうなると僕にできることは息を殺して誰か来ないか辺りを見回すことだけだ。

 坂の中途にあるサクラビルの三階から見る景色はなかなかのものだ。眼下に開けた町並みが一望に見下ろせる。しかし見晴らしが良いということは自分の姿も周りから見やすいということだ。

 坂を誰かが上ってくる。僕は咄嗟に姿勢を低くした。階下でドアが開き足音が聞こえてくる。僕はいたたまれなくなってさらに身を小さくした。嫌な汗が脇を伝う。

 今302号の部屋のドアが開いたらどうしよう。朋子さんに見られたらこの状況を何と弁解したら良いのだろうか。もとより弁解の余地などあるはずがなかった。朋子さんは犯罪者或いは変質者を見る白い目で僕を軽蔑するだろう。そんなことになったらと思うと気が気じゃない。

 ガチャリという小さく鈍い音に僕は振り返った。

 先生は満足げに立ち上がりまるで自分の部屋に入るかのように澄ました顔でドアノブを捻った。軽いキィという錆付いた音とともに驚くほどわけもなく305号の鉄製のドアは開いた。

 僕は先日回っていた回覧板に挟んであった「空き巣に注意」のチラシを思い出した。「まさか先生が……」と疑りながらもここまできたら先生について部屋に入るしかなかった。

 部屋の中には何もなかった。空き部屋なので何もなくて当然なのだが、何一つ飾りのない部屋は見ていて気持ちが良かった。僕は二年前にサクラビルに引っ越してきたときのことを思い出した。

 あのとき僕は何もない部屋の中央に座り周りを見回してどこに何を置こうかと空想に耽っていた。自分の好きな物を好きな場所に置き自分のためだけの空間を作れる喜びと真っ白いキャンパスに初めて色を落とすときのような緊張で妙に息苦しかった。真っ白いのは部屋だけではなかった。自分の生活そのものが「一人暮らし」という名の未知との遭遇だった。

 先生はまた僕に喋らないように人差し指で合図をして壁のそばに座り僕を手招きした。僕が先生の側に腰を下ろすと先生は小声で話しかけてきた。

「ここが空き部屋だということは前にも話したから知ってるよね」

 僕は声を出さずに頷いた。

 どこからともなく御世辞にも上手とは言えない鈍いギターの音色が聞こえてくる。

「隣の303号は村石君と同じく学生さんで今部屋にいるようだから物音をあまり立てないように」

 このマンションは壁が薄い。集中して耳を澄ませば隣の部屋の会話を聞きとることも出来るくらいだ。 聞こえてくるギターは303号の住人が弾いているのだろう。ならば少しくらいの物音では気付かないだろうが用心に越したことはない。かと言って物音を立てるようなものはこの部屋には何一つないのだが。

 先生は黙って腕時計を見ている。僕が隣から覗きこむと先生は僕に腕時計を示した。

「今、4時半だね。あと30分もしたら俺が何故ここに村石君を連れてきたか分かるよ」

 そう言うと先生は壁にもたれ目を閉じて身動きしなくなった。どうやらこのまま時が来るのを待つ気らしい。

 僕は先生に見放されたような気分で落ち着かず何もない部屋の隅々に目をやった。

 暖房もない、カーペットも敷いてないこの部屋では吐く息も白い。こんなところで何を待てというのか。赤みがかった窓の外は一足飛びに暗くなってきている。冬の夕焼けははかない。あと30分もしたら明かりのないこの部屋は闇に同化してしまうだろう。

 10分、15分と過ぎていく。相変わらず先生は目を閉じたままだ。何が起こるんですか、と尋ねても先生は決まって微笑みを浮かべるだけで何も言ってはくれない。こちらが黙っていると先生は無表情に目を閉じたままなので眠ってしまったのかと不安になってくる。

 303号からの相変わらずリズム感のないビートが僕の神経を少しずつ逆なでる。僕は所在無く立ち上がって窓の外を見下ろした。

 三階から見る景色は二階の僕の部屋からのそれとは少し違って見えた。全てが少しずつ小さく見えて街の模型を見ているような感じがする。冬の寒さのせいだろうか。立ち並ぶ家々が白々しいほど人工的に見えて人の気配が感じられない。僕は背筋が寒くなった気がして再び先生の横に腰を下ろした。

 部屋の中は加速度的に明るさを失い先生の輪郭がぼやけてきた。白い壁に先生の影が滲んでいる。

 そのとき部屋の前の通路を歩く靴音が聞こえてきた。軽やかな足取りは若い女性を連想させる。その靴音は徐々に近くなり僕たちがいる305号を通り越して306号の前で止まった。鍵を開ける音に続きドアを開閉する金属音が聞こえてきた。僕の心臓は一気に高鳴った。先生がゆっくり目を開いた。いよいよ待ちに待ったものが現れたのだ。

「隣の306号は借主は居るけど、この部屋と同様誰も住んではいないんだ」

 僕は先生の言った意味がよく分からなかった。誰も住んでいないのなら今の靴音は何だったのだろう。306号には何があるのだろうか。誰が何をするための部屋なのだろうか。

「不思議な話だろ?もう少しすれば分かってくるよ」

 先生は僕の心理を見抜いてか、そう言うとまたすぐに目を閉じてしまった。先生は再び石像のように動かなくなった。

 こうやって待つことが先生の作品のネタ作りに何の意味があるのだろうか。もう吐く息の白ささえ分からないほど部屋の中は闇に包まれてしまった。視界が遮られてくると余計に聴覚が敏感になる。僕は鈍いギターの響きの向こうに何かを聞きとろうと懸命に耳を澄ました。

 まもなくまた靴音が聞こえてきた。今度はスニーカーだろうか。歩くリズムは早いが摺り足気味でだらしなく聞こえる。靴音はやはり306号の前で途絶え少し間をおいてドアをゆっくり3回ノックする音が聞こえてきた。

「また誰か来ましたよ」

 僕は壁に近づけ耳をそばだてた。

 スリッパのパタパタという音が聞こえる。

 ドアの開く音。

「あら、随分と若いのね」

 若い女性の声だ。

「だめですか?そっちだって高校生なんでしょ?大して変わらない」

 後から訪ねてきたのは男性だ。声変わりはしているがどことなくまだ幼い感じがする。口調は大人ぶっているが中学生ぐらいかもしれない。女の方は高校生か。

「へー。真面目そうなのにね……。まあいいわ。どうぞ、中へ入って」

 ドアが閉まる音がする。何やら後ろ暗い響きだった。

「それじゃ、いただくものを先にいただいておくわ。ちゃんと持ってきた?」

 男と女。初対面の男が女に渡すもの。

「先生。ここって……」

 先生のおぼろげな輪郭が小さく頷いたように見えた。

 ここは売春宿。つまり先生は売春の現場を盗み聞きしてネタを得ていたのだ。同じマンションの一室で売春が行われていたのも驚きならそれを先生が知っていて盗み聞きをしていたのも驚きだった。

 僕は胸が高鳴り手に汗が滲むのを感じた。それは売春という犯罪を知ってしまった緊張感からか、他人の情事というプライバシーを盗聴していることに対する罪悪感か、あるいは単純に性的な興奮なのか。いつの間にか303号からのギターの音色は僕の耳に入ってこなくなっていた。僕は306号に集中していた。

「三万円確かに。それじゃ始めよっか。ベッドがいい?それともお風呂?」

 始まる。

 女の慣れた口調が艶かしい。僕は生唾を飲んでカラカラに渇いた喉を鳴らした。

 これ以上聞いてはいけない気がする。これは犯罪じゃないか。知らない方がいい。君子危うきに近寄らずだ。しかし僕の耳はどんなかすかな音も聞き逃がさないぐらい壁の向こうに奪われてしまっていた。あまりに興奮している自分が恥ずかしい。今ここでこの場を離れなければ自分がどうにかなってしまいそうだ。

「先生、僕失礼していいですか。こういうのはどうも・・・」

「折角だからもう少しどう?今出て行ってはばったり朋子さん達と会っちゃうかもしれないし」

 先生は聞かなきゃ損だとでも言いたげだ。確かにここで出て行って通路でばったり朋子さんと会ったら目を合わせられる自信がない。いつもならまもなく朋子さんが仕事から帰ってくる時間だ。もし朋子さんにこの階で何をしていたかを問い詰められたら僕は上手に嘘をつけるだろうか。

「じゃあキスしよっか」

 若い女が挨拶をするように言う。壁の向こうにいる二人のシルエットが浮かんで見えるような気がして僕は思わず目の前の壁に釘付けになった。306号の情景に虜になってしまっている自分を先生に悟られまいとすればするほど僕の息遣いは荒くなってしまう。他人がキスをするのをテレビでしか見たことがない僕は壁の向こうで行われていることに対してこんなに自分が興奮していることに驚き、そして羞恥した。

「306号は岡田という男性の名前で借りられてる。どうやらそいつが売春を仕切っているようだね。つまりまず女性を買いたい男性が岡田氏に仲介料の金を払う。岡田氏は女性に連絡してこの部屋にスタンバイさせる。岡田氏からここの住所を聞いた男性がこの部屋を訪れる。岡田氏は手広くやってて他にもこういう部屋を何件か借りているみたいだよ。今日の彼女の声は何回も聞いたことがある。高校生のようだけどベテランだ」

 先生は相変わらず怖いくらい冷静だ。聞き慣れているからだろうか。それとも仕事柄これぐらいの刺激では興奮することはないのだろうか。

「キスぐらいでそんなに固くならないで。ここに座って」

 ベッドを軽く叩く。すぐにベッドがきしむ音がした。女の言葉に男が素直にしたがったようだ。「童貞なの?」という問いかけに男は返事をしなかった。返事をしないのは認めたということだ。

「いくつ?」

「15」

「中3?受験シーズンじゃないの?」

「別にいいだろ」

 中学三年生。僕も中学三年生の時はまだ童貞だったがセックスをしたいからと春を買うようなことは思いもよらなかった。多感な時期ではあったがセックスという行為や女性の身体に得体の知れない恐怖感も抱いていた。それだけ心も身体もまだ未発育だったのだろう。しかし彼はセックスがしたくてここに来た。中学生の頃の僕が持っていた恐怖心にはすでに打ち勝っているのだ。彼がませているのだろうか。それとも今の中学三年生はセックスを経験していて普通なのだろうか。

 隣の部屋で行われていることが売春であり、売春は犯罪であるという意識は僕の中で完全に遠のいていた。もっと音を、もっと声をという欲望にいつの間にか僕は支配されていた。

「いいわ。力を抜いて。怖がらなくてもいいのよ。私が全部教えてあげる。ほら手を貸して」

 僕は少年のまだ節くれだっていない白く頼りない手を想像した。色情に染まったその手はどこに向かっているのか。不器用に震えるその指は何を捉えたのか。

 「ゆっくりよ」「焦らずに」「優しくね」と諭すような女の口調がまるで壁を隔ててこちら側にいる僕を老獪にリードするようでいらだたしい。時折上げる喘ぎ声まで計算づくのようで憎らしかった。生身の女に向かって初めて漕ぎ出した少年の必死の荒い息遣いが聞こえてくる。

「痛いっ!ちょっと、痛いわ」

「あっ、ごめん」

「っもう。もっと優しくしてって言ってるでしょ」

 突き放すような女の言葉で306号の熱されて右肩上がりに膨張していた空気が一気に冷えて萎んでいくのが分かる。沈黙が気まずい。

 こうなると少年が可愛そうだった。人間には余裕が大事だと僕は痛感した。

「こういうケースは初めてだなぁ。いつもはおじさんが相手だから彼女も戸惑っているみたいだね」

 中学生が童貞を捨てるために金を集めて娼婦に走るなんて聞いたことがない。売春とはやはり金を持ったおじ様が若い女を買うというのが一般的な構図なのだろう。

 壁の向こうから金属がこすれる音がした。

「タバコ吸うの?」

「悪い?」

「……」

 女の取り付く島のない返事が帰ってくる。言外の「あんたが下手だからいらいらしてくるのよ」という響きが文字となって目に見えるようだ。

「……でも未成年でしょ。良くないよ。健康にだって悪いし……」

「あんた、売春だって犯罪なのよ。そっちの方が罪が重いわ」

 女の言うとおりだった。ここに来てタバコを咎める少年の発想は幼かった。

「きっと彼はタバコに対して悪いイメージを持ってるんだね。僕は絶対にタバコを吸わないって心に決めているような感じがする。きっと根は真面目な子なんだな」

 言われてみれば僕もタバコに対して悪いイメージを持っている。

 僕の父はチェーンスモーカーでそれこそまさに次から次へとタバコに火を付けた。父と一緒にいるとたちまち部屋の中は白い煙で充満し毒されていない空気は部屋の隅のほうに押しやられ僕や妹は吸うたびに咽喉に痞える空気を仕方なく甘受していた。父の側に行くといつもタバコ臭く、空気が悪い。顔をしかめて見せると不遜だと父に怒鳴りつけられるので平然を装っていたが内心はむせ返りたくなるほど辟易としていた。ヤニで黄色くなった父の歯を見るたびに寒気がして鳥肌が立ったものだ。だから僕は小さい頃からタバコだけは吸うまいと心に誓っていたのだ。この少年も似たような経験をしてきたのかもしれない。

「したいんでしょ。だったらしっかり私の言うとおりにしてよね」

 女の口調が命令的になった。主導権は完全に女のものになっていた。

「返事は?」

「……わかったよ」

 男というのは悲しいほど単純な動物だ。初めて女の裸を目の前にしながらお預けを喰らっている彼には抗う術はない。彼は自分が金を払って春を買っているという事実を忘れてしまったようだ。

「じゃあ、こっちへ来て足を舐めなさい」

「足を?」

「嫌なの?」

 少年は言うことを聞くしかない。少年は女の足を爪の先から舐めることになるだろう。この女にはサディスティックな性癖があるのかもしれない。

「ほら、今度はこっちの足よ」

「はい」

「丁寧に舐めなさいよ」

 女は女王様気分で完全に調子に乗っている。僕は金を払ってまでして女に跪き足を舐めさせられている少年の普段の生活を察してみた。

 元来気の強い性格ではないのだろう。両親の言うことをよく聞いて、真面目に中学三年間学校に通い、夕方からは塾にも行き、有名高校、有名大学に進学するために毎日毎日机にしがみついて勉強しているのかもしれない。そんな受験勉強の最中に夜な夜などうしても下半身に神経が向いてしまう。目の前の問題に集中しなくてはいけないのだが分かっていても手が股間に伸びてしまう。友達が話している猥談が気になって仕方がない。そうしていつの間にか妄想だけが肥大して他の事が手につかないほどになってしまったのだろうか。

「もう舌が痛いよ」

 余程熱心に舐めまわしているのだろう。唾液が枯れてしまうほど一心不乱に。しかし一度優位に立った女は許そうとはしない。

「つべこべ言わないの。ほら。今度は太腿を舐めさせてあげるわ」

 女の官能的な口調が僕にその柔い大腿を思い浮かべさせる。白く芳しく瑞々しい脚。舌と唇に伝わるその弾力を想像して僕は初めて少年をうらやましく思った。今すぐこの壁を叩き割って少年にとって代わりたい。しかし僕は物音一つ立てられない。僕はただの聴衆でしかない。

「ねえ」

「ん?」

「フェラって知ってる?」

「……知ってる」

「して欲しい?」

 女が絡みつくような甘い声を出す。僕はじれったい少年の答えを待った。

 はいと返事をしろ、して欲しいと言え

 僕は思わず声に出しそうになってぐっと咽喉に力を入れた。

 そのとき反対の壁の方から子供の泣き声が聞こえてきた。どこかで聞いたことのある声。声は壁からではなかった。りょう君がベランダで泣いているのだった。

「何回言ったら分かるの!どうして一人でできないの。お母さんは忙しいのよっ!」

 朋子さんが声を荒げてりょう君を叱っている。りょう君の泣き声は一段と大きくなった。

 あの朋子さんがまるで叫ぶようにりょう君を叱責している姿はどうしても僕には想像できない。何かにとりつかれたような朋子さんの声は僕の知っている彼女とはまるで別人だった。

 こんなに固くしちゃってるのね

 おかあさん!おかあさん!

 あっ、ごめんなさい。

 何よ。もういっちゃったの?こんなに出しちゃって。ちょっとそこのティッシュで拭きなさいよ

 りょう!静かにしなさい!

 僕は急にいたたまれなくなってしまった。りょう君の泣き声と淫靡な嘆息とは相容れない。屠殺場で断末魔を聞きながらフランス料理を頬張る気にはなれないように僕はこの部屋にこれ以上いることができなかった。

「僕、帰ります」

 僕は言うや否や部屋を後にした。先生は僕を止めようとも追いかけようともせず声もかけなかった。302号の前を僕は泥棒が逃げるように足音を消してこそこそと走った。

 部屋に帰るや否や僕は空き腹にビールを注ぎこんだ。食道がカッと焼けた。

 内側から濡れたトランクスが冷たかった。二人の会話に感じてしまったのだ。興奮が冷めていくにつれ傷ついた自尊心が顔をもたげ僕は何だか泣きたくなった。先生はまだあの情事に耳をそばだてているのだろう。僕には官能小説家の気持ちは分からない。

 窓の外からは相変わらずりょう君の泣き声が聞こえる。僕は冷蔵庫にもたれてりょう君が泣き止むのを待った。今日はまた一段と寒い。三階の風はりょう君にとって身を切るような冷たさだろう。いつまでもベランダで泣いていては身体が冷え切ってしまう。僕は早く朋子さんが優しく窓を開けてりょう君を暖かい部屋の中へ迎えてくれるよう願った。

 しかし、ただ願うだけで何も出来なかった。

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