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果たしてこの時間は充実しているのだろうか。
大学での講義を終え、スーパーで買い物を済ませて、僕は今、マンションまでの帰り道を歩いている。
眼前には夕刻の薄暗い東天に向かってどこまでも続きそうな坂道が伸びている。マンションは坂の頂上付近にある。この長い坂道は足腰にきついのだが、だからと言って僕はこの坂道が嫌いではない。だらだらと続く坂道を若干の前傾姿勢で足元に目を落としながら上る。時間にすれば三分ぐらいだろうか。この三分間に僕は色々なことを考える。
今日もテーマは「充実」だ。最近ずっとこのテーマで上っている。
充実とは何だろう。この前辞書で調べたら「内容が十分で豊かなこと」とあった。何ともあやふやな意味だ。「充実した時間を過ごしましょう」と人は言う。僕も常々そうありたいと思っている。その気持ちは人並み以上だという自信すらある。しかしその願望が大きければ大きいほどどうしたらいいのか分からなくなってくる。充実した時間とは何ぞや。「内容が十分で豊かな」時間。さっぱり分からない。
今、僕は両手に食材を抱え「充実」について考えながら坂道を歩いている。この時間は果たして充実しているのだろうか。
今日の講義をした大学の教授に「どんなときに充実していると感じますか」と問えば何と答えが返ってくるだろうか。「研究をしているとき」だろうか。「講義をしているとき」だろうか。それとも「趣味のテニスをしているとき」かもしれない。総じてみれば「好きなことをしているとき」と言えるのだろうか。だが「好きなこと」をしているからといって必ずしも充実しているとは言えないと思う。おしゃべりが好きだからといって、取るに足りない話題で延々と長話をしていても充実感はないような気がする。しかし密かに心に想っている人が相手だったらほんの数秒の立ち話がえも言われぬ満足感をもたらしそうだ。だけどそれも周りからみれば単なる社交辞令の挨拶程度で、とても充実した内容には見られないのかもしれない。
他人がどう思うかなんてどうでも良いと言われてしまうだろうか。確かに僕が感じる充実の度合いなど他人には分からないのだから僕が充実していると思えればそれで良いのだろう。
しかし今充実していると思えてもその充実の連続が何年後かには何と無駄な時間だったのだろうと思うときがくるかもしれない。
同じ人間でも価値観は変わっていくのだからそれはあり得ることだ。だとしたらなおさら充実とは曖昧なものでしかない。追い求めても無駄なような気がする。それでもやはり人間として生きている以上生命あるときを大切にしたい。時間を大切にするということは充実した時間を送ることに繋がると思う。
特にこの大学四年間は二度とやってこないのだ。体力はある。頭の回転も人生のピークにあるだろう。この四年間を充実させるための体内のインフラは整備されている。後は僕次第なのだ。
僕は充実した大学生活を送っているだろうか。どうも自信がない。
大学の講義は想像以上におもしろくない。友達づきあいも上手ではない。もちろん僕のこんな気持ちを癒してくれる恋人もいない。
いつかは小説を書いてみたいという思いがある。
小さい頃から作家になりたかった。そのために文章が上手くなるからと何かで読んだので新聞のコラムを毎日書き写したり、片っ端からいろんな本を読んだりはしているが、それは中学生の頃からやっていることであり、毎日ご飯を食べることと同じように習慣化していて好きな時間ではあるが特別自分が充実できているという自覚はない。
では、どうすれば僕の大学四年間は充実したものになるのだろうか。
僕は今、生きている。それは医学的あるいは生物学的な意味で。つまりこの世に生を受けてはいる。しかし、ただそれだけなのだ。人生を謳歌しているとはとても思えない。そう意識する度に僕の心の中に焦りに似た気持ちが生まれてくる。
僕に残された時間はあとわずかしかない。
このままではいけない。今の自分の時間を今客観的に評価するのは難しいのかもしれない。しかし今の時間が充実していると思えなければ漫然と大切な時間を浪費しているようで罪悪感に苛まされさえする。ああ、僕はどうすれば良いのだろう。充実した時間を過ごしたい。
そうこうしているうちにマンションの前まで来てしまった。マンションの名前はサクラビル。築年数は僕と同い年の二十歳でベージュの色調の外観はくすんでしまって古ぼけてはいるが鉄筋コンクリートなので結構丈夫そうだ。3階建てで2階の202号が僕の部屋だ。
部屋を見上げると僕の部屋の南隣の203号から住人が大きな段ボールの箱を持ち出しているのが見えた。マンションの脇に目をやると小さめのトラックが停まっていて荷台に幾つか段ボール箱が積んである。どうやら引越しらしい。203号の住人は確か2,3ヶ月ぐらい前に越してきた若い夫婦だ。もう出て行くのだろうか。
階段を下りてきた夫の方が僕に気づいて会釈をしてきたので僕も軽く頭を下げた。
「引越しですか?」
「ああ。短い間だったけど、お世話になったね」
本当に短い間だった。名前も知らずじまいで、お世話をした覚えなど全くない。言葉を交わしたのもこれが最初で最後ということになる。
階段を上がっていくと奥さんの方も下りてきた。
思っていたよりも美しい女性だった。僕は思わず二日に一度は必ず夜中に壁越しに聞こえてくる若い女性の声を思い出した。
壁が薄いのもあるのだろうが、声もわざとかと勘繰りたくなるほど大きくてこっちが恥ずかしくなるぐらいに鮮明に聞こえてくる。最近では少しは慣れてきたがやはり若い僕がそれを冷静に聞き流せるはずがなく、そっと耳をそばだてながら膨らみきった股間に右手をあてがうことはしょっちゅうだった。
あの声の主がこの人だ。
そう思うと僕は頬がカッと熱くなるのを感じて顔を起こすことが出来なかった。伏目気味に会釈して奥さんとすれ違った。彼女の髪から甘い果物のような匂いが漂って僕の鼻腔をくすぐる。僕は消えゆく薫りを追いかけるようにそっと思い切り鼻から空気を吸い込んだ。たちまち僕の股間はこらえようもなく反応してしまう。
僕は小走りで駆け上った。階段を上がりきって、トラックに向かう奥さんの背中に視線を落とした。服の下にある細身の裸身を思わず妄想してしまう。
もうあの鳴き声を聞くことも、その声に感じて股間を膨らませることもない。
僕は何だか大人への階段を一つ上がったような気がした。彼女のおかげで少し大人になれた。いやこの別れで無理やり大人にされてしまったのか・・・。
なんとなく寂しい思いとともに感謝に似た気持ちが湧いてきて名も知らぬ彼女の後姿をいつまでも見ていたかったが、夫の方が階段を上がってきたので僕は急いで自分の部屋の鍵を開け中に入ってドアを閉めた。
ドア越しに彼の力強い足音を聞くと切ないような気持ちがした。胸を刺激するぴりぴりとしたこの微かな痛みは何だろう。僕は後ろ髪を引かれる思いでドアから離れた。
スーパーの袋から食材を取り出す。玉ねぎ、人参、ジャガイモ、牛肉。今日のメニューは朝から決めていた。もちろんカレーだ。この料理は食べることも然ることながら作ることも僕は好きだった。幾つかの工程を経て少しずつ出来上がっていく様子はいつも僕を夢中にさせるのだ。
最後に茄子を取り出して全部だ。僕のカレーに茄子は欠かせない。これもお袋の味と言えるのだろうか。母の作るカレーには必ず茄子が入っていた。茄子がカレーの味をその実に凝縮するのだ。噛んだときに溢れ出てくるその濃厚な味わいが何とも言えない。
米をとぎ炊飯ジャーをセットして、まずは人参とジャガイモに取り掛かる。ピーラーで気持ちよく剥く。ジャガイモの芽は逃してはならない。剥き終わったら少し大きめに切って水に浸しておく。
次に玉ねぎを切る。この玉ねぎというやつは曲者だ。切り出したら涙が止まらない。コンタクトをしている人は涙が出ないと聞いたことがあるが僕は現代人には珍しく裸眼を保っている。両目共に1.5だ。従って今日も涙を流しながら玉ねぎを切る。カレーには欠かせないのだから仕方がない。
肉を一口大に、茄子は輪切りにしておいて早速玉ねぎを炒め始める。弱火でじっくり炒めなくてはならない。
顔を上げると台所の窓ガラスが初冬の西日に紅く染まっていた。夕飯にはもう少し時間がある。ゆっくりと丁寧に作り上げよう。玉ねぎが狐色になってきたところでジャガイモと人参だ。牛肉も加えるとあたりに美味しそうな匂いが漂い始める。
炒めている間に鍋で湯を沸かす。湯が湧いたら勢いよくフライパンのものを鍋に移す。急に見た目にカレーらしくなってきた。後はジャガイモや人参が柔らかく煮えるまで待たなくてはならない。今のうちに洗濯物を入れてしまおう。
一人で暮らすということは日常生活における責任が全て自分に帰属することになる。毎朝誰が起こしてくれるでもなく、食卓にご飯ができているはずもない。掃除も僕自身がやらなければ部屋の中は際限なく汚くなっていく一方だ。部屋の隅に埃がたまるのは本当に早い。浴室のカビの繁殖力にはびっくりさせられる。洗濯をサボっていると明日着る下着もないというときもある。
自由を求めて一人暮らしをする人は多いだろうが、逆に自由から生まれる忙しさに縛られることにもなると気づくのは僕だけではないはずだ。しかし僕はその自由による束縛を心地よく感じている。炊事洗濯は大変だということは分かった。だけどそのことで僕は生きていることを実感している。
食べ終えた後に残る皿の汚れ、起きぬけのじっとりと湿っぽい布団、埃を吸い取る掃除機の音、籠にたまっていく洗濯物の山。それらは自由という名の足枷であり、僕の生命活動の証とも言える。外から戻ると、この部屋に染み付きつつある僕の匂いを感じて全身の細胞が落ち着きを取り戻し静かに呼吸するのが分かる。ああ、僕はこの部屋の中で間違いなく生きているんだと確認できることが嬉しく感じるのだ。
つまりその分僕が一般社会から取り残された存在であるということが言えるかもしれない。恋人もなく友達も少ない僕にとってはこの部屋の外は見ず知らずの他人だらけの世界であり、一歩進むごとに異邦人としての疎外感を味わわせられる何とも生き難い空間だ。この202号だけが僕に自分の存在を実感させてくれる唯一無二の最後の砦なのだ
洗濯物をとり入れ所定の位置に仕舞ってから鍋の中を覗き込む。菜箸でジャガイモを突付くと大分柔らかくなっているのが分かる。もうルーを入れてもいいだろう。箱からルーを取り出し小さく割って鍋に落とす。お玉でかき混ぜると慣れ親しんだカレーの臭いが台所中に広がった。最後の仕上げの茄子を浮かべる。これで一件落着。あと少し煮込んだら火を止めしばらく寝かせて置くだけだ。
腕時計を見る。6時18分。まもなく先生が現れるころだ。タイミングよくご飯も炊き上がった。
予想に違わず台所の窓の前を人影が横切った。すぐに部屋の呼び出しチャイムが鳴る。やっぱり先生だ。
「んー、いい匂い。部屋の外までカレーの匂いが漏れてきてるよ」
「先生、すいません。また、カレーにしちゃいました。ほんと、レパートリーが少なくて」
「いやいや、とんでもない。こっちが無理なお願いをしてるんだから作ってもらえるだけで感謝してるよ。それに俺、村石くんのカレーが大好物でさ。あの茄子が忘れられないんだよね」
先生は少し長めのさらさらとした髪を掻き揚げ鍋に鼻を近づけて大きく空気を吸い込んだ。眼鏡を曇らせながらも満足そうな笑顔を浮かべている。その顔を見ただけで僕もうれしくなってしまう。
誰かのために料理を作って喜んでもらう。僕はそこに何とも言えない喜びを覚えてしまった。
今まで気付かなかったが、料理は結構向いているのかもしれない。もしかするとこの感覚が充実感という奴なのだろうか。まだ確固たるものではないが、少なくとも先生と過ごす時間は無駄ではない気がしている。
「この匂いをかぐとあの日を思い出しちゃうね。ああ、急に腹減ってきた」
先生が大げさに顔を顰めて腹を抱えながら炊飯ジャーに歩み寄った。蓋を開けるともうもうと白い湯気が立ち上る。先生は嬉しそうに僕を振り返った。
あの日とは先生が初めて僕の部屋に訪れたときだ。思い返せばもう十日も前のことだが、何だか昨日のことのように思えてしまう。それだけ僕の中であの日の印象が強く残っているのだろう。
十日前の夕方も僕はここでカレーを作っていた。
もうすぐ出来上がる、火を止めて少し寝かせておこうと思ったそのときチャイムではなくドアをノックする音が聞こえた。それは身体ごとドアにぶつかったような重く硬い音だった。僕はドキッとして身体を強張らせてドアを見つめた。
僕の部屋に訪問者などめったにない。知り合いが僕を訪ねてきた経験などまるでないのだ。あるとすれば新聞や宗教の勧誘ぐらいで僕はその手の勧誘を無碍に断る術を知らないので大抵居留守を使うことにしている。
今は台所の明かりが外に漏れているので居留守は使えない。いったい誰だろう。勧誘だとしたら上手く断れるだろうか。あの押しの強さにはいつも閉口してしまうのだ。どうにも断りきれなくて必要もないのに二紙も新聞をとっていた時期がある。
「決して、怪しい者やありません。強盗とか押し売りとかの類とちゃうんです。ほんまです。ちょっと開けてもらえませんか」
か細いが早口で切迫感のある男性の声だった。声色を作っている印象はなく芝居を打っているようには思えなかったが僕は玄関に出るのを躊躇った。
怪しい者ではない、と言われて素直に信じろと言う方が無理な話である。ドアをノックして「怪しい者だ」と名乗る人などいるはずがない。関西っぽい訛りがあるのも気になるところだ。関西人がみな怪しいというわけではないが耳慣れないイントネーションに親近感は湧いてこない。
僕はとりあえずドアの覗き穴から外を見た。
レンズの向こうには誰も見えなかった。確かに誰かがこのドアをノックして、開けてくれ、と言ったはずなのだが。いたずらだったのだろうか。深呼吸をした後に鉄製の厚く冷たいドアの向こうに僕は恐る恐る声を投げかけてみた。
「どちらさまですか?」
しばらく待ってみたが反応はなかった。
やはり誰かのいたずらだったのかもしれない。このまま放っておこうか。しかしそんなことは出来ないのは分かっていた。新手の勧誘術なら相手の思う壷だが、このままでは咽喉に刺さった魚の小骨のようにいつまで経ってもドアの向こうが気になって仕方ない。僕は意を決してゆっくりとドアを開けた。
顔だけを出して外を見てみると、眼鏡をかけた細身の男性が壁を背に両手を腹に当てて座り込んでいた。どうやらこの人が僕を呼んだらしい。寝ているのだろうか。ぴくりとも動かないその様子はマネキンのように生気がなく少しずつ濃さを増しつつある夕闇にそのまま同化して消えてしまいそうだった。
もう日は沈み西の空がかすかに茜色に染まって見えるだけだ。北風にドアが押されて寒さに思わず身をすくめる。今にも雪が降り出しそうなこんな寒い日に玄関先でにらめっこなどしていられない。話があるなら早くしてほしい。いつまでもここに座り込んでいられるのは迷惑だ。
「あの……。どうかしました?」
僕の問いかけにその男はようやくゆっくりと顔だけを起こした。長めの前髪が風に揺れる。焦点の合っていないようなぼやけた眼差しで眼鏡越しに僕の顔を仰ぎ見ている。口の周りの無精ひげに違和感があるが男の顔に見覚えがあった。何度かこのマンションで顔を合わせている人だ。このマンションの住人というのは嘘ではない。だがそれ以上のことは知らない。その男が僕に何の用だろうか。回覧板は持っていないようだった。
「これから夕食ですか?」
男は咽喉の奥から搾り出すようにして掠れた声を出した。
「ええ、まあ」
「カレーですか?」
これだけ台所から匂いがこぼれてくれば聞かなくても分かるだろう。男は顔は憔悴しきっていたが僕が頷くと目だけは爛々と輝かせた。次の瞬間、男はさっとその場に座りなおして正座になり手をついて僕を見上げた。
「失礼は承知でお願いします。私にカレーをごちそうしてもらえませんか?」
驚くと言葉が出なくなるということを僕は生まれて初めて体験した。誰かに手をついて見上げられたことも、作ったものを食べさせて欲しいと言われたことも初めての経験だった。この人は一体どういうつもりなのだろうか。
グレーのセーターにジーンズという格好にくたびれた感じはなく食い物に困った物乞いには見えない。華奢な肉付きから強盗というイメージもわかない。彼の真意をつかめず返答にまごついていると、彼はジーンズのお尻のポケットから黒い皮製の財布らしきものを取り出して僕に見せた。
「私、二件隣の205号の榊原、言います。一昨日の晩から何も食べてへんのです。何とか外に食べに行こうとドアを開けたんですけど、おたくの部屋からのカレーの匂いを嗅いだ瞬間もう動けなくなってしまいました。お金ならここにあります。どうか私にカレーをごちそうしてください」
男は僕の手にぐいぐいと財布を押し付けてきた。言葉遣いは丁寧だが必死の形相だ。
「怪しいもんやありません。他意もありません。このお金も私が働いて稼いだきれいなお金です。どうぞお納めください。どうぞどうぞ」
強引に財布を押し付けられて「それでは遠慮なく」ともらうわけにもいかない。僕は観念してとりあえず男を部屋に上げることにした。いつの間にか西の空も闇に包まれている。いつまでも日の暮れた寒空の下で押し問答などやっていられない。第一、こんなやり取りを誰かに見られたら恥ずかしくて仕方ない。
男を部屋に上げてからほんの数分で僕は人間の偉大さを知ることになった。
人はこんなにも食べられるものなのだ。そしてこんなにも食べられるほどお腹を空かせることが出来るのだ。
こたつに座った男の前に作りたてのカレーライスとスプーンを置くや否や彼はものすごい勢いで飛びついた。その勢いは暴走という言葉がぴったりで食べるというよりは飲み込むといった感じだった。正座で上品に座っている下半身とカレーを次々と頬張る上半身とのギャップがおもしろい。まるで手と口で行うスポーツのようだ。口の周りやセーターの下に着ている淡いブルーのカラーシャツの袖が飛び散るカレーで汚れていくのも彼は全く気づいていないようだ。
僕は目の前で巧妙な手品を見せられているように半ば口を開き加減で男の食いっぷりに見入ってしまっていた。この口はブラックホールにつながっているのかと思いたくなるほどそれは異様な光景だった。
カレーを作るときはいつもかなり多めに用意して食べ残した分は冷凍しておくことにしているのだがあっという間に鍋の底が見えてきてしまった。明日の分も炊いてあった炊飯器の中のご飯はすっかりなくなってしまった。四杯目のお代わりを出したとき、空になった炊飯器を見つめて僕は五杯目を要求されたらどうしようかと内心焦り始めていた。
しかしさすがにその事態は免れた。男は四杯目を食べ終えるとようやく我に返ったように皿とスプーンを置いてコップの水を一息に飲み干して大きく息をついた。
「こんなに食べたのは生まれて初めてです。いやぁ、大変美味しかった」
僕もこんなに食べる人を見たのは初めてです。
細身の彼の身体のどこにあれだけのカレーが入っていったのか不思議で仕方ない。
ただ、美味しいと言ってもらえると何だかむず痒いようなうれしさがこみ上げてきた。癖になりそうな喜びだった。僕は美食を追及する料理人の気持ちが何となく分かるような気がした。
男は急に居住まいを正し眼鏡のずれを整えさらさらの髪を撫で付けて僕を正面に見た。
「大変失礼いたしました。非礼をお許しください」
彼は丁寧に深々とお辞儀した。「いえいえ、とんでもない」と僕もお辞儀を返した。確かに僕の夕食はなくなったが不快な気分にはならなかった。何故だか清々しい感じさえある。
「私、榊原大輔と言います。三十二歳。一応、作家のはしくれです。大して売れてませんけどね」
さっか?
僕はこのとき生まれて初めて作家という職業を持つ人間に出会った。思わず頬が紅潮する。「作家」という言葉の響きだけで僕は目の前の人物に好印象を抱いていた。
僕は小さい頃から本が好きだった。小説を読めばその世界に浸れる。主人公になりきることで恋愛も出来るし、悪を挫くことも出来れば、友達もたくさん出来る。父の怖い怒鳴り声や母の悲しいすすり泣きも本の世界にいれば耳に入ってこない。大きくて暗い部屋の中で一人ぼっちでも本さえあれば寂しくなかった。
だから将来は小説家になりたいと思っていた。読んでいるときと同じように小説を書いている間はきっとつらいことや悲しいことを忘れていられるのだろうと自然と思うようになっていたのだ。
目の前に小説家がいる。僕にとってそれは天にも昇るような幸運だった。
僕は大学は文学部を選んだ。毎日必ず小説を読んでいる。文章の書き方を身に付けるために新聞のコラムをノートに書き写すことも欠かさない。それもこれも作家になるためだ。それが今、憧れの存在である作家と一対一で会話をしているのだ。宝くじを当てたような驚きに満ちた胸苦しい喜びに思わず目頭が熱くなるのを感じた。
さわやかな笑顔、鋭い視線、白く細い手と指のペンだこ。なるほど、よく見ればまさにこの人こそ小説家だ。眼鏡の銀縁が光り輝いてまぶしい。
「ぼ、僕は村石って言います。村石保。K大学の文学部二回生です」
思わず声が上ずってしまう。頭の中が真っ白だ。せっかく生で本物の作家と対面しているのだから何か話さないともったいないと思うのだが突然のことで何を聞いたらいいのかさっぱり思いつかない。
ちょっと待てよ。
この先生は205号に住んでいると言った。つまりは今まで同じマンションで作家大先生と生活していたのだ。ああ、僕は何と愚かなのだろう。そんな大事な事に気付かずにのほほんと毎日を送っていたなんて。知っていればきっとさぞかし充実した日々を送っていただろうに。
「私には珍しく大きな仕事が舞い込んできたんですよ。一昨日の晩、雑誌に載せる小説を書いてくれって大手の出版社から依頼がありましてね。2日間で仕上げて欲しいと言われて、それで飲まず食わずでさっきまで小説を書いてたんです」
いつの間にか榊原先生の言葉から関西訛りは消えていた。出身は関西でたまたま先ほどは地の部分が出てしまったが普段は標準語を話すようにしているということだろうか。ふとそんな疑問が頭を掠めたが、それはすぐに消えてしまった。
締め切りに追われてペンを揮う。夢にまで見たシチュエーションだ。それを榊原先生は実践している。疲れを滲ませながらも満足げなその表情は仕事をやり遂げた男の顔だ。男の僕が見てもその横顔にうっとりしてしまう。
「それは、大変でしたね」
相槌を打ちながら、何かが足りないと僕は考えていた。
そうだ、コーヒーだ。小説家にはコーヒーが似合う。先生はきっとその美しい指で洒落たコーヒーカップをつまみ無限の彼方を眺める。そして凡人には理解できない深遠で哲学的な言葉を口にするのだ。僕は慌てて立ち上がり台所に向かった。
口惜しいことに我が家にはコーヒーを注ぐのにはマグカップしかなく受け皿の一枚もない。これでは雰囲気がまるでないではないか。僕は思わず舌打ちして地団駄を踏んだ。早速明日買いに行かなくては。
どうぞ、と僕は先生の前にマグカップに注いだコーヒーを差し出した。コーヒーから立ち上る湯気が先生には似つかわしい。先生が熱さに顔をしかめつつその苦い大人の飲み物を啜るのを僕は固唾を飲んで待った。
「申し上げにくいのですが……」
僕が出したコーヒーを前にして先生が眉根をひそめてうつむき加減だ。どうしたのだろう……。僕は先生の愁眉の原因を必死に考えた。
そうか。先生が飲むのはこんな安っぽいインスタントコーヒーではなく、豆を挽いて淹れる本格的なコーヒーなのだ。僕は自分の目線で物事を考えていたことを恥じた。何と浅はかなことをしてしまったのだろうか。僕は穴があったら入りたいほど自分の迂闊さを呪った。
「すみません。今日はこんなインスタントものしかなくって……」
消え入りそうな僕の言葉に先生は大げさにかぶりを振って否定した。
「そうではありません。……恥ずかしながら私はコーヒーが飲めないんです。苦いコーヒーを飲むと寒気がして全身に蕁麻疹が出てくるんです」
先生は背中を掻き毟り寒そうに自分の両腕を抱いた。
「えっ?」
猫がまたたびを好きなように小説家は皆コーヒーが好物なのだと僕は思いこんでいた。作家も人間なのだからコーヒーが苦手な人がいてもおかしくはないが……。またたびが嫌いな猫もいるのだろうか。
何となく僕は寂しいような残念な気持ちになった。興奮していた僕の頭の中に冷えた隙間風が吹き抜ける。急に部屋の中に気まずいような雰囲気がはびこってきた。
「お金……食事代払います。お幾らお支払いすればよろしいですか?」
「そんな、お金なんて結構ですよ。誰かに食べさせようと思って作ったわけではありませんから」
「そういうわけにはいきません。無理やり押しかけてこんなに美味しいカレーライスをごちそうになったんです。幾らか払わせてください」
先生は財布を手に僕の言葉を待っている。しかし、いくら?と聞かれてもお金をもらうつもりでカレーを作っていたわけではないから即座に返答できない。
レストランでカレーを頼んだらいくらぐらいだろうか。一皿で千円もしないだろう。でも僕のカレーでレストランと同じ代金をもらったら日本中のレストランの店長に申し訳ない。
「本当にいいんです。こんなカレーぐらいでお金をいただくなんて・・・。それよりも僕は先生と知り合いになれただけでうれしいんです。僕もおこがましいですが作家志望です。だから先生のような本当の小説家の方とお近づきになれただけで、胸が躍るような気分なんです。カレーの代金は結構ですからこれをきっかけに僕と仲良くしてください」
「そんなこと言っていただけると私もうれしいんですけど、私なんか大した作家じゃありませんよ。その日暮らしの売れないダメ小説家です。私なんかと知り合いになってもきっとろくなことがない」
そんなことを言われると余計に引き下がれない。第一、僕だって相手が今をときめく売れっ子作家だったら尻込みして「友達になれ」だなんてそんな大それたこと口に出来るはずがない。
「少ないですけど」
先生は財布から一万円札を抜き出し僕の前に置いた。
「こ、こんなにいただいたら怒られちゃいます」
「誰に?」
日本中のレストランの店長に、と言いかけて口を閉ざした。
「誰ってわけではないんですけど……でも僕のカレーが一万円だなんて、やっぱり」
「こんな時間におしかけた迷惑料も入っています。それに今回の仕事で次からも仕事がもらえそうですから今はちょっと余裕もあるんですよ。ここは黙って受け取ってください」
優しい目でにこやかにそう言われても僕は受け取りたくなかった。
先生とはこれから深い付き合いがしたかった。貸しを作りたいというわけではないが、ここで代価をもらってしまうことで今日限りでさよならという形になってしまうことが怖かった。それとも僕なんかと近所付き合いするのが迷惑なのだろうか。そうかもしれない。近所付き合いを大切にする人ならもっと昔から知り合いになっているはずだ。
「僕なんかと知り合いになるのは面倒ですか?」
「そんな……、とんでもない。私の方こそ村石さんとお話しすることができてうれしいんです。端くれでも作家なんていう商売をしてると家に引きこもりがちで一日中誰とも口をきかない日が珍しくないですから、時々自分の孤独さに気が狂いそうになるときがあります。世間から隔離された、どの組織にも所属していないふわふわとしたシャボン玉のような不安定さが何とも恐ろしいときがあるんです」
「分かります」
その気持ちは何となく分かる気がした。僕も布団に入って目を閉じるときに考えることがある。
このまま明日になって目を開けることなく死んでしまったらいったい誰がいつ気付いてくれるのだろうか。自由気ままな大学生。一人暮らし。友達も恋人もいない。大学という、あるのかないのか分からない曖昧で極めて大まかな組織に辛うじてしがみついてはいるが、はっきり言って僕という個体は世間から取り残されてしまっている。世の中の人は全てが他人で誰も僕を見てくれてはいない。すれ違う僕という人間が生きているか否かに興味はない。個としての僕はあまりにちっぽけで、消しゴムのカスのようにある程度集めなければ存在が成り立たず、つまんで捨てることすらかなわないような存在なのだ。
「ここでこうしておしゃべりをして久しぶりに血の通った人間と温かい会話をしてる気がしてるんですよ」
「だったらなおさらこのお金はいただけません」
僕は気持ちよく一万円を押し返した。これが友情の第一歩だ。
「分かりました。これは返していただきます」先生は一万円を財布に戻して今度は千円札を取り出した。「じゃあ、これで食事を作っていただけませんか?別に特別なものでなくていいんです。村石さんが毎晩食べるものを私にも食べさせていただければ。一食千円のバイト。いかがですか?」
「僕が先生の夕食を?僕の、料理と呼べないようなものでもいいんですか?」
「村石さんの料理の腕前はなかなかのものですよ。さっきのカレーは味加減がとても良かった。お願いできませんか?」
考えてみるまでもない。料理の腕に自信など全くないが、一人分が二人分になっても作る面倒は変わらない。普段から一人で食べる食事に侘しさを感じていた。憧れの作家先生と知り合いになれてしかも毎日食事を一緒に出来るなんて。僕の生活が一気に彩りを得ていくような気がする。
「喜んでお引き受けします」
「良かった。じゃあ、この千円は今日のカレー代です」
先生は満足そうに微笑んだ。今度は僕も遠慮せずに押し頂いた。
「しかし、大変ですよね。二日間も飲まず食わずとは」
「今回は特別です。ピンチヒッターだったんですよ」
「誰かの代わりということですか?」
「ええ。本来は下根先生って方が書く予定だったんですが、ある事情で急にその先生の作品を載せることが出来なくなってしまったようで」
「ある事情?」
僕が首を傾げると先生は僕の方に少し顔を近づけて小声になった。
「逮捕されてしまったんですよ」
「逮捕?」
「強制わいせつ罪で」
「きょうせいわいせつ?」
僕が一オクターブ高い声で驚くと先生は満足げに口を開けて笑った
「こんなこと言っていいのか判りませんけど、聞くところによると先生は常習犯だったようでね。少なくないんですよ。やっぱり実体験は作家が作品を書く上で重要なファクターですから。よりリアルな描写に迫るには実際に体験するのがやはり近道なんです」
「でも、強制わいせつを常習していたってことは……」
僕の中で何かが崩れていく音がした。榊原先生の声がやけに遠くに聞こえる。
「下根太一先生はレイプモノのスペシャリストですから。僕はまだ何が得意っていうものがないんですが、今回はソフトSMで書いてみました。やはりSMは読者の食いつきが良いみたいですからね。女性も興味のある人が多いようで」
「官能小説なんですか……」
榊原先生が爽やかに笑っている。その笑顔はスポーツをした後の心地よい疲労感をイメージさせる。まるでポルノとは相容れない笑顔だ。僕には先生という人が全くつかめないでいた。
「203号の夫婦が引っ越したみたいですね」
僕はカレーライスを頬張る先生の横顔を盗み見ながらわざと世間話を切り出した。
一口目の先生の表情が気になって仕方ない。上手くできているかどうか。今日で十食目だが僕は毎回先生の顔色を窺っている。先生は僕の気持ちを知ってか知らずか毎回同じように美味しそうに食べてくれるのだが僕の作るものがいつも上手に出来ているとは思えない。時には口に合わないものもあるはずだ。そんなときはどこがいけないかはっきり言って欲しいと僕は思っている。
はっきり言われたら間違いなくショックだろう。泣きそうになるかもしれない。だがどこが悪いかも分からずに毎晩夕食を提供し続けるのも自分が納得できない。そういう葛藤を胸に抱きながら毎回息を殺して先生の顔色を窺っているのだ。
今日のカレーはどうやら先生の口にあったようだ。何となくだがスプーンの動きが軽やかに見える。先生は本当にカレーライスが好物なのかもしれない。
「ああ、そうそう。昨夜遅くまでごそごそやっていると思ったら引越しだったみたいだね。そう言えば深夜に聞こえてくるあの奥さんの声は何とも艶っぽかったんだけどなぁ。もう聞けなくなるのかと思うとほんと残念だ」
職業柄か先生はこういうことを何の照れもなく平気で言う。
僕は思わず俯いてしまった。そうなんですよ、と相槌を打つわけにもいかない。かと言って平然と知らない顔を作れる自信もなかった。
あの奥さんの甲高い鳴き声が脳裏に響く。快感を訴えさらに快感を求める動物の咆哮。先生もあの声を聞いて自慰にふけっていたのだろうか。それとも先生ほどの大人になるとあの程度の刺激では僕が覚える我を失うほどの興奮とは無縁なのだろうか。
「実を言うとさ、あの声が俺の想像力を刺激してくれて、おかげで書けた作品もあったんだよ。そういう意味では大いに世話になったけど結局あの人の名前も知らないままだったなぁ」
「そう言えば未だに僕はこのマンションで先生以外に名前を知っている人はいませんよ」
僕は何とか話を変えることに成功した。少し顔が赤らんで脇の下に汗をかいているのを洞察力の優れた先生には悟られてしまっているだろうか。
「俺も村石君以外は知らないよ。ここに住んでかれこれ三年になるけどね」
三年住んでいても下の階の人の名前も知らないでいる。それでも何の支障もなく日々過ごしている。現代人は孤独だ。それは病的と言っても良い。自由を求めいつの間にか孤立し気が付けば四面楚歌に思えてしまう。他人が疎ましい。自分しか話し相手がいない。そんなときに一端マイナス的な思考に陥れば後は螺旋を描いて止めどなく落ちていくばかりという気がする。
「それって寂しくないですか」
「村石君は寂しいの?」
「そりゃあ、やっぱり一人暮らしは孤独ですよ。時々ふと実家に帰って母親や妹とたわいもない世間話をしたくなります。本当は家が嫌で嫌で、半分飛び出してきたような形ですけど」
「確かに孤独で一人ひとりが孤立してるよね。でも俺なんかはこのマンションの住人全員が知り合いだったら息が詰まってやってけないな」
「え?どうしてですか?」
先生はうーんと唸って顎に手をあて考え込んだ。そんな格好が絵になる人だと僕は思った。
「現代は比較社会なんだよね。月収、財産、地位、名誉、出世、健康、環境。様々なものさしで人と人を比べてる。嫌でも社会に出るとこういういろんな種類のものさしと共に生活していかなくちゃいけない。そんな比較などしたくないって思っても周りが勝手に比較してしまう。他人と自分とを比較するということは自分と他人は違うという事実を鮮明にするよね。だから周りと比べながら生きていくということは自分をどんどん孤独に追いやるということになる。もしこのマンションの住人が全員知り合いだったとしたら、そういう比較を壁一枚隔てたところでやることになるんじゃないかな。朝から晩まで、下手をすると寝ているときまで自分を孤独だと意識していることになる。つまり知人と生活するということは自分を孤立させることになると思うんだ。想像するだけで指先から冷えてくるな」
先生の言葉の意味は良く分からなかったが、僕は先生の中に何か暗く冷たいものを感じた。常に冷静だがそれはときに冷徹ささえ感じさせる。先生は他人を一定の半径から近づけないように見えない障壁を身に纏い、心の動きを人に悟らせないような仕草を常に演じているような気が僕にはするのだ。
先生は不思議な人だ。先生はこのマンションにどうして引っ越してきたのだろうかと僕は思った。三年前に何があったのだろうか。消えてしまった関西訛りにはどういう意味があるのだろうか。
「話が変な方向に向いてしまったな……。もちろん村石君のことはかけがえのない友人だと思ってるよ。それに名前は知らないし付き合いは無いとは言えこの三年間毎日マンションの周りを散歩してるからそれなりにこのあたりの住人のことについて知識もあるしね。仕事柄、人のことを観察するのは癖になってるから」
先生の仕事柄の観察というものは単なる他人の外見の観察とは違う。観察の後には必ず想像が付いてくる。
気の強そうな目もとの引き締まった女性を見ると荒い縄で縛って天井から吊るしてみたいだとか、あの汗をかいてあくせく働く腹の出た中年男性は夜になると赤ちゃんプレイで哺乳瓶をくわえているだとか……。真面目な顔をしてそういうことを口にするからこちらとしてはどういう顔をして良いのやらさっぱり分からない。
それでも先生はやっぱりよく観察していた。大学とマンションの往復だけの僕と違い気分転換に一日に何度もマンション周辺を散歩をしているからか住人の生活リズムが手にとるように分かるらしい。
先生によると引っ越していった203号は夫が肉体労働者で妻は公務員なのだそうだ。夫は毎朝の出勤時の極端に裾の広がったニッカボッカの格好で、奥さんは洗濯物の事務服で分かったらしい。
「コスプレしたらあの事務服の地味さが逆に淫靡な感じを醸しだしてそそるんだろうなぁ」
僕はまた返答に窮してしまった。