13
由紀からの電話は全く要領を得なかった。しかし由紀のその金切り声と繰り返される単語の羅列が事の重大さと緊急性を如実に僕に伝えていた。
お母さんが、お母さんが、倒れて、どうしよう、お兄ちゃん、誰もいないの、お兄ちゃん……。
母の身に何か起きたことは間違いなかった。妹の拙い説明でも母が病院に運ばれたことは理解できた。どこの病院かを由紀に何とか吐かせると僕はすぐさま行動を起こした。
僕は不思議なほど落ち着いていられた。狂ったように取り乱していた妹と対峙したからかもしれないが、僕は母が倒れることをあらかじめ予測していたような気がしていた。携帯電話の画面に由紀からの着信が表示されているのを見たときにはこれから由紀が何を言うのか何故か僕は手にとるように分かっていた。僕は何度も予行演習をしていたかのように焦らず無駄のない動きをした。
電話を切ると僕は財布の中身を確認してから時計を見た。まもなく日付が変わる。終電はまだあるかもしれないが乗り換えや駅からの道のりを考えると初めからタクシーを使ったほうが速い。
僕は足早に先生の部屋に向かった。夜行性の先生は昼間よりも覇気のある様子だった。僕が事態を説明すると期待通りの飲み込みの早さで即座に僕に三万円を貸してくれた。これで僕の財布の中は四万円になった。これだけあればとりあえず困ることはないだろう。僕は先生に礼を言うと素早く自分の部屋に戻って厚手のダウンジャケットを掴み冬の夜の寒くて暗い道路に走り出た。吐き出した息がいつまでも白く宙に漂っている。鼻から空気を吸い込むと鼻腔の粘膜がちりちりと痛くなるほど深夜の気温は低かった。
大通りに出ると一台のタクシーが僕が止めるのを知っていたかのようにタイミングよく僕の目の前に滑り込んできた。
妹からやっとの思いで聞き出した病院はかなり名の知れた大きな病院だった。行き先を告げると運転手はただ小さく「分かりました」とだけ言ってアクセルを踏んだ。無口な昔気質の職人を連想させるその仕草に僕は安心して背もたれに身を委ねた。
窓越しに冬の夜の街に眺めていると僕は今日と同じようにタクシーで病院に向かったあの日のことを思い出さずにはいられなかった。
僕の隣には朋子さんがいた。窓の外にちらちらと舞い降りる雪ははかなく可憐で、肩には朋子さんの重みと温もりを感じ、あのときほど僕は時の流れの早さを恨めしく思ったことはなかった。反対に今日のタクシーは遅々として進んでいない気がしてしまう。外を見やれば吸い込まれそうな錯覚を覚えるほど深く気味の悪い闇がどこまでも続いている。僕は不意に背筋に悪寒を感じてダウンジャケットの襟を掴んだ。目を閉じてみたがそこにも闇が広がっていて得体の知れない嫌な予感が僕の全身を駆け抜けていった。
深夜の面会者に嫌な顔一つしない愛想の良い看護婦に案内されて薄暗い病室に入ると「お兄ちゃん」と涙をこぼしながら由紀が飛びついてきた。由紀は僕のダウンジャケットに顔を埋め、泣き腫らした紅い目で僕を見上げた。僕は由紀の細い背中を強く抱きしめ二度、三度と髪を優しく撫でた。微かにシャンプーの匂いがした。由紀は僕の胸の中で小さく鼻をすすった。僕はこのときほど妹を可愛いと思ったことはなかった。兄であることに緊張と誇りを感じた瞬間だった。僕はもう一度由紀を強く抱きしめた。
「大丈夫か」
「うん。もう平気」
「お前じゃないよ。母さんだよ」
「あ、そっか」
由紀は顔を起こし照れたように笑った。しかしその目には今にもはらはらと流れ落ちそうな溜め涙が浮かんでいた。ノーメイクにパーカーとジーンズというラフな格好の由紀は先日のセーラー服姿よりも幼く見え、泣き濡れて僕を見上げる面持ちは甘えん坊で泣き虫だった小学生の頃と変わってはいなかった。
「今は眠ってる。痛み止めの注射を打ってもらったから、その影響で朝になるまでこのまま眠り続けるみたい」
久しぶりに見る母は予想外に変わった印象はなかった。しかしベッドの脇にあるわずかな明りに照らされた母の寝顔をよくよく眺めるとやはり白髪が増え皺も深くなったようだ。痛みや苦しみの様子は見られないが、顔色はあまり良いとは言えず、その表情の無さは能面を連想させる。微かな胸の上下の動きが無かったらあまりに静かで生きているのかどうかさえ不安になってしまうほどだった。
「安らかだな」
「縁起でも無いこと言わないで」
由紀が僕のダウンジャケットを叩く乾いた音が病室の中に響いた。
僕は脱ぐのを忘れていたダウンジャケットをパイプ椅子に掛けて由紀と並んで腰を下ろした。
「お母さんね、一端6時過ぎに帰ってきてまた出かけたの。そのときにはもう顔色が良くない気がしたから、行くのやめたらって言ったんだけど、どうしても抜けられない大事な会合だからって出て行ったの。それから帰ってきたのは十一時ぐらいだったと思う。私はリビングでテレビを見てて、いつまでたっても帰ってきたお母さんが顔を見せないからおかしいなと思って玄関に見にいったら、お母さんがうずくまってて」
「そっか……」
「顔色がものすごく悪かった。青ざめたって言うよりはここの壁みたいな色になってた。土色って言うのかな……。お母さん、背中が痛いって言ってそのまま倒れて気を失っちゃったの」
「背中?」
「うん。すい臓が悪いみたい。急性すい炎だって先生が言ってた」
「すい臓……」
口に出してみても何の感慨もない名前の臓器だった。胃や肺や肝臓だったら幾つか病名も頭に浮かぶし、心臓と聞けば即座に生命に関わるという印象を持っただろう。しかし高校の生物の授業以来耳慣れないすい臓という臓器について僕が持っている知識はゼロに近かった。それだけに母の身体に巣食う病魔が何とも得体の知れない恐ろしいものにも思えてならなかった。母が今どれだけ危険な状態なのかは想像もつかないが楽観できないということだけは案内してくれた看護婦の妙に親切な態度から何となく察しがついていた。
由紀が睨みつけるような鋭い視線で僕を見ているのが気配で分かる。由紀が何を言いたいか僕には痛いほど理解できた。お兄ちゃんがもっとしっかりしてくれないからお母さんがこんなになるまで働かなくちゃいけないんだよ、と妹の薄紅い目が僕を責めている。僕はその眼差しを直視できなかった。
「お兄ちゃん……。帰ってきてよ」
「別に家出してるわけじゃないよ」
僕は鼻から息を抜くように苦笑した。自分でも不快な笑いだ。後ろめたさを感じている証拠だった。
「お兄ちゃん!お母さんはきっと頑張りすぎなんだよ。もともと身体が強いわけじゃないことお兄ちゃんだってよく知ってるじゃない。このままの状態が続いたらお母さん本当に死んじゃうよ!」
妹は上気した顔で僕の袖をぎゅっと掴み「それでもいいの?」と問いかけてきた。答えるまで離さないと言いたげな由紀の目にまたじわじわと涙が浮かんでくる。梨花一枝春雨を帯ぶ。由紀が唇を結んで涙をこらえる様子は兄の僕から見ても可憐で美しかった。
「いいわけないだろ!」
僕は強引に由紀の手を振りほどいて立ち上がった。
どうしようもないじゃないか
責められて当然だとは分かっている。このままの暮らしを母に続けさせるのは母に死ねと言うようなものだ。しかし、僕なんかに何ができる、という気持ちが何よりも激しく胸を揺さぶり僕はどうしても一歩前に進むことができない。
二十歳の僕に会社を経営できるわけがない。会社のことについて何も知らなければ、名前と顔が一致する社員もほとんどいない。スタッフも親の七光りでしかない僕についてきてくれるとは思えない。取引先も僕が相手では頼りないだろう。合併話まで持ち上がっているような会社の浮沈がかかっているこの時期に僕が社長になったとしてプラス材料など何一つ生まれてくるはずがないのだ。
代われるものなら代わりたいとは思う。幼いころから僕を父の鉄拳から身を挺して守ってくれた母の身体を病魔が蝕んでいると考えただけで僕の心は焼け付くような熱い痛みを覚える。しかし僕はあまりに無力だった。やつれて健康を崩しベッドに横たわっている哀れなこの母よりも僕ははるかに非力なのだ。父が遺した会社のトップに立つと考えただけで足が竦み手は震え僕は全身が戦き強張るのを感じてしまう。
会社なんて無くなってしまえばいい
そう考えない日はない。父が遺したもの全てが僕にとってはプレッシャーだった。母がどうして社長の座にこだわるのか僕には未だに見当もつかない。この会社さえなければ僕は自由気ままに大学生活を謳歌し、母も安気に老いを迎えられるのだ。
母さん
大学を卒業するまでは僕を自由にしてくれると約束したじゃないか。僕はまだ自分の生活に充実感を見出せていない。先生と出会って、朋子さんを好きになってやっと人生というものの楽しい面が覗けたような気がしてきたところんだ。これ以上自分の人生を美しく彩ろうとするのは我儘だって言うのかい。
僕は問いかけるように母の顔を見下ろした。
眼下の母は相変わらず青白い顔で横たわっている。寝息も立てずに静かに眠り続ける母を見ていると時が止まったような気がしてくる。その側で由紀が鼻をすする音だけが病室に響いている。僕はいたたまれなくなって妹をおいて病室を出た。
先ほど病室を案内してくれた看護婦がナースセンターからほの暗い廊下に出てくるのが見えた。院内を見周りに行くのだろうか、手には懐中電灯を持っている。僕は彼女に声をかけ母の病状について尋ねた。
その看護婦は急性すい炎という病気について僕に説明してくれた。
すい臓内のすい液がすい臓自体を消化してしまう、軽症でも入院しなくてはならない生命に関わる恐ろしい疾病だと聞き、改めて母は危うく死にかけたのだと思うと僕は身体が細かく震え膝の力が抜けていくのを感じた。彼女は母の急性すい炎の原因は過度のストレスとアルコールが原因だと言った。母が酒を飲んでいるということを僕は全く知らなかった。かつて母が酒を飲むところなど見たことがない。自分でも
「好きじゃない」と言っていた酒を呷って死にかけた母が哀れに思えて仕方なかった。
「今は鎮痛剤が効いてますのでお母様は明日の朝までは目を覚まされません。妹さんと交代ででもお休みになられた方がいいですよ。おそらく大丈夫だとは思いますが、急に顔色が悪くなったり息が荒くなったりしたらすぐに呼んでください。いつでも集中治療室に移れる準備はしてありますのでご安心ください」
彼女は僕に微笑みかけて僕の心配を払拭しようとしているのだろうが、「集中治療室の準備」と聞いて僕は余計に不安を募らせる形になって部屋に戻った。
由紀は僕を見上げて「さっきはごめん」とポツリと謝った。僕は俯いて兄を責めた自分を悔いているように見える由紀に何か言葉を返そうと口を開いたが適当な台詞が見当たらずそのまま妹の隣に腰掛けた。
「少し休めよ」
案の定、由紀はかぶりを振った。
「お兄ちゃんこそ」
小さく頷いたが僕ももちろん横になる気になどなれなかった。それから僕達兄妹はほとんど何も喋らず、皮肉にも久しぶりに家族水入らずの一夜を過ごすことになった。
太陽がよろよろと顔を出し、やがて南の低い頂点に昇りきっても母は目を覚まさなかった。鎮痛剤の効力は午前中には切れたはずなのだが依然として目を開く様子を見せない母に代わる代わる病室を訪れる医者や看護婦も暗い顔で小首を捻る。
僕は早朝に母の秘書に連絡を取って事の次第を説明し、入院の必要があるため当分母の出勤は不可能だと伝えた。鮎川という名のその秘書の声は不自然なほど冷静で抑揚がなかった。僕と彼とのやり取りは非常に無機質で、僕はロボットに向かって話しをしているような気分だった。受話器越しの短い会話だけで彼がいかに無駄無く全てを完璧にこなし秘書として非常に優秀なのかということが理解できた。母が死んだと伝えても驚かないであろう彼には一人の人間と言うよりも一つの機能という言葉がしっくりくる。この男には母は愚痴の一つもこぼせないだろう。軽い世間話すらできやしない。彼の存在も母のストレスの一要因であることは間違いない。
午前中パイプ椅子にもたれてうつらうつらしていた由紀は昼になると入院の長期化に備えて母の身の周りのものを取りに家に帰った。「少し寝てくると良いよ」と声を掛けたが由紀は何も言わず疲れた顔を横に振って背中を向けた。
それから僕はベッドの脇に腰掛けてひたすら母を見つめていた。太陽があっという間に色を変えながら傾いていき、戻ってきた妹が変わらぬ母の様子に落胆の色をありありと見せても僕は黙って母の顔を眺め続けた。母は時折唸るように大きく息を吐くのだがそれ以外は相変わらず能面のような無表情を保って眠っていた。
僕は久しぶりに目の当たりにした母の顔をただ飽きることなく眺め続け、いろんなことを考えたようでそれでいて何も考えていなかったような贅沢な時間を過ごした。何も言わず、ぴくりともしなくても母はやはり母だった。母の傍にいるというだけで僕の心は静かに満ち足りていた。
「やっぱり私、ちょっぴり寝てきたの。お兄ちゃんも少し横になったら?」
病院に戻ってきた妹は元気な素振りを見せて「仮眠室があるみたいだよ」と僕に勧めた。
良く見れば由紀の目の下には隈ができている。家で横にはなったかもしれないが眠ることはできなかったのだろう。健気な妹の言葉は胸が締め付けられるほど有難かったが僕は昨晩病室に入ってから不思議と眠気を感じることがなかった。あごに手をやるとざらつく髭の感触に長い時間の経過を悟るが、母の傍にいる間何故か僕は睡魔とは無縁だった。
「もし……。もしよ、仮にお母さんがこのまま目を開けることがなかったとしたら……。お兄ちゃんと私二人きりの家族になっちゃうんだね」
二人きり。その言葉は身震いするほど寂しく聞こえた。
「死なせるかよ」
離れて暮らしているということと、この世に存在しないということとの間には決定的な差がある。母のいない世界など考えられなかった。具体的に何ができるわけでもないのに僕は自分の手で何が何でも母を生き続けさせると心に決めた。そうしなければ自分自身が生きていけないという根拠の無い強迫観念に僕は迫られていた。もう一度母の笑顔を見たい。それさえ叶えば後は何もいらない。僕は純粋にそう思っていた。
僕はそのときむせ返りそうになるくらい息を飲んだ。母の目元がぴくりと動いた気がしたのだ。僕は由紀の手を引き寄せ二人で母の顔に視線を注いだ。気のせいではなかった。母は少し唸るような声を上げて首をゆっくり振った。僕は覆いかぶさるようにして西日に照らされて紅く染まった母の顔を覗きこんだ。由紀は母の手を取り「お母さん!」と叫ぶように呼びかけた。するとさらに母は口元を歪め瞼を震わせた。間違いない。母はこちら側に帰ってきたのだ。僕と妹は水平線上に姿を見せた船に手を振る漂流者のように、次第に近づいてくる母の魂に向かって一心に呼びかけた。
俄かに騒然とし出した病室内の様子に看護婦が慌てて飛び込んできたかと思うとまた踵を返して出ていった。まもなく白衣を纏い聴診器をぶら下げた医者が病室にのっそりと現れ半狂乱の僕と妹に「そのまま呼びかけてください」と微笑みかけた。
僕はその医者の態度に腹の奥でむっとした。母の命を預かっている人間が何とも他人任せに思えたのだ。言われなくても生死の境をさまよう母のためなら僕と妹は咽喉がつぶれるまで呼びかけるだろう。善人ぶった微笑を浮かべながらも一歩離れたところから親子を芝居の役者を見るような視線で眺めているだけの彼の態度が僕にはとても冷ややかなものに思えた。
必死の呼びかけが功を奏したのか、やがて母は蕾が割れて花冠が開くようにゆっくりと瞼を開けた。薄く開いた目でぼんやりと虚空を見つめる母に僕は如来を連想した。生死の境をさまよって母は何かを悟ったのではないかと僕は思った。
「お母さん、分かる?私よ。由紀よ」
切羽詰ったような勢いで離しかける由紀とは対照的に母はスローモーションのようにゆっくりと顔をこちらに傾けた。
「私……、確か……」
聞く者がいたたまれなくなるほど細く心許ない声だったが確かにそれは待ちに待った母の声だった。
「お母さん、昨日の夜中に倒れたんだよ。背中が痛いって。救急車でこの病院に来て注射を打ってからずっと眠ってた……」
由紀はそこまで言うと布団に突っ伏して「良かった、良かった」声をあげて泣き出した。
「ありがとうね、由紀」
母は脇に顔を埋めて泣いている由紀を慈しむように見つめ、それからゆっくりと僕に目をやった。意識の戻った母の頬には幾分赤みがさしていて僕はもう大丈夫だという確信を持った。
「母さん……」
「ごめんね、保。迷惑かけたね」
そのとき母の目から涙がこぼれた。次々溢れてくる涙は母の乾いた髪と枕を濡らした。
久しぶりに会った母に最初に言わせたのが謝罪の言葉だったことに僕は自分の不甲斐なさを痛感した。死の淵に足を踏み入れかけるところまで行きながら何とか生きて帰ってきてくれた母に息子の僕は何を謝らせているのか。弱々しく首を横に振りながらもあまりに自分が情けなくて僕は目頭が熱くなった。僕はハンカチを取り出し濡れている母の目元を拭いながら親を泣かせる事の罪深さを痛いほど感じた。
「背中やお腹は痛くありませんか?」
母の足元に控えていた医者が愛くるしいほどの笑顔をのっそりと出して母に容態を尋ねた。母は鼻をすすって大きく息を吐き医者に向かって頷いて見せた。
「痛みはありませんが全身に感覚が無いような感じです」
「ずっと眠っていらっしゃいましたからね。まだ眠いようでしたらもう少しお休みください」
医者は母の言葉にうんうんと頷いてまた頬が崩れるほどの柔和な笑みを満面に湛えた。僕にとっては気味の悪い笑い方でも心細い病人には天使の微笑みに見えるのだろうか。母はまるで催眠術にでもかかったように白衣を着たペテン師に促されるまま再びゆっくりと目を閉じた。医は仁術ではなく忍術だと僕は思った。
「保、由紀ちゃん。ごめんね。もう少し寝かせてね」
すぐに母は眠りに落ちて静かに規則正しく寝息を立て始めた。それを見届けると医者は看護婦に何事か耳打ちしてそそくさと病室から出て行った。残された看護婦が何やらほくそえみ僕の視線を感じて慌てて表情を打ち消して逃げるように医者の後を追った。あの二人はできてると僕は直感した。看護婦はきっと今晩の待ち合わせを告げられたのだろう。こんな想像を膨らませるようになったのは榊原先生の影響だろうかと僕は思った。丸一日会わなかっただけなのに僕は妙に先生を懐かしく感じた。
再び病室には家族だけが残された。母を見つめる僕と妹の間には先ほどまでにはなかった弛緩した空気が漂っていた。
「何だか急に眠くなってきたわ」
由紀が大きく開けた口を手で押さえあくびまじりにそう言った。あくびでさらに目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭う。
「仮眠室で寝てこいよ」
「そうする。お兄ちゃんは眠くないの?」
「俺か。俺はいいよ。お前が戻ってくるまではここにいる」
「分かった。じゃあ、2,3時間寝たら交代するね」
由紀が出ていくと病室は急に世界から取り残されたような静寂に包まれた。いつの間にかたそがれ時は過ぎ、外の暗さが余計に部屋の静けさを助長しているように感じる。
僕は改めて母を見つめた。不思議なもので目を覚ますまでは能面のように無表情だった病人の顔が今は別人のように血色がよく、僕の目にはうっすらと微笑んでいるようにさえ見えた。
母親と二人きりになるのは何年ぶりか思い出せないぐらいだと僕は思った。そう考えると不意に照れくささが背中をくすぐって僕は落ち着かない気分になる。僕は一旦病室を出て自動販売機でカップのコーヒーを買った。増量ボタンを押して砂糖とミルクをたっぷりにした甘いコーヒーだ。立ち上る湯気が僕を落ち着かせる。舌の奥にからみつくような甘さが疲れた身体に心地よかった。
父が死んで遺された家族は各々が急に色々なものに目がいくようになりここ数年互いが互いを見詰め合う時間など無くなっていた気がする。母の今回の急病で結果的には家族の大事さを認識できたのは怪我の功名だったと思う。僕も由紀も親の有り難味と兄妹の存在の大きさを痛いぐらいに味わった。僕がいなかったら由紀は気が動転したまま泣き続けていたかもしれないし、由紀が母と暮らしていなかったら僕は今頃自分の親不孝さに悔やんでも悔やみきれない事態に直面していたかもしれない。「私、看護婦になろうかな」と昨晩由紀は呟いた。毎日を淡々と送っていた由紀にとっては母の入院は人生の大きな転換点になるかもしれない。
僕たち家族の前には大きな問題が横たわっている。父が遺し母が切り回している会社をこれからどうするか。僕は次に母が目を覚ましたときには母に社長の座から降りることを勧めるつもりだった。かと言って僕が母の後任に就く気も無い。今は何百人もの社員を抱えるような企業のトップを一家族が代々世襲していくような時代ではない。足の引っ張り合いの厳しい時代の流れの中では気概ある有能な人材がリードしていかなくては企業、社員延いてはその家族までもが路頭に迷うことになってしまう。母も今回の入院で自分の身体がこれ以上激務に耐えることはできないと悟っただろう。僕に継ぐ意思がないと分かれば母もどうしようもないはずだ。母にとってはつらい決断かもしれないが、結局そうすることが僕たち家族にも会社にとっても一番良いのだと思う。
病室にもどった僕は気付くとパイプ椅子の上で舟を漕いでいた。無理な体勢だったのか首と腰が重く痛かった。時計を見ると三十分ぐらい眠っていたらしい。僕は目を擦りながら椅子に座りなおした。
「あれ。起きてたの?」
いつの間にか目を覚ましていたらしい母は僕の方を見て微笑んでいた。こんなことでは仮眠室で寝ている由紀に怒られてしまう。
「私も今起きたところよ。久しぶりね。保の寝顔を見るのは」
そう言って母は小さく笑った。母の笑顔は優しく温かくて僕はいつまで経っても自分が小さな子供だということを知った。
「そうやって座って居眠りしている姿はお父さんそっくり。お父さんも忙しい人だったからよくそうやって椅子に座ったまま居眠りしていたわ」
以前の僕なら父と似ていると言われると良い気分はしなかった。僕はあの尊大で傲慢な父親とは鏡で映したように正反対の人間になりたいと思っていた。しかし今母に言われても不思議と悪い気はしなかった。少し懐かしささえ覚えていた。今回のことを経験してそう思えるようになったのだろうか。
「まあ、親子だからね」
僕は照れながらもそう言えた自分が少し大人になったように思えた。
「保」
「何?」
「あなたに言っておきたいことがあるの」母の顔は穏やかなままだったそのが声はいつにも増して真剣だった。「これから言うことがあなたにとってどう影響するかは、無責任かもしれないけど私にも分からない。ある面ではプラスだろうけど必ずマイナスに働く部分もあると思うわ。とにかくあなたにとって何らかの、それも大きな影響を持つ事実であることは間違いないと思う。……でもしっかりと保自身で受け止めて欲しいの」
言っているうちに母の眼の光は弱々しくなっていった。僕に対して何かを謝罪したげに見える。
会社のことだろうか。今回倒れたことで自分の健康に自信をなくし、いよいよ社長の座を誰かに譲り渡す決心でもついたのかもしれない。そういうことであれば僕に気兼ねなく決断してほしい。僕には母の会社に対して野心もなければ、責任感もない。何も僕に詫びることはないのだ。僕は少し頬を緩め母の次の言葉を促した。
「保。あなたとお父さんは血が繋がっていないの」
「え?」
僕は耳を疑った。母が搾り出すようにして口にした言葉そのものの意味は分かるが何度頭の中で反復しても内容が理解できなかった。「血が繋がっていない」という文字が僕の脳内を飛び跳ねる。跳ね回りつつその体積を増やし、すぐに脳全体に広がって僕の頭の中を内側から強烈な強さで圧迫し始めた。頭が割れそうに痛い。
母は救いを求める僕から目を反らした。
「由紀も知らないことだけど、由紀とあなたは異父兄妹なのよ」