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 いつものマンション前の坂道に差し掛かったとき僕が考えていたのは今朝の新聞の記事についてだった。今日はそのことが頭から離れなかった。

 経済面の隅に母が経営する会社と他の食品会社との合併についての記事が載せられていた。

 合併相手には主に冷凍食品を扱っていて一人暮らしの二十代、三十代を狙った「おふくろの味」シリーズがヒットして近年目覚ましい成長を遂げている食品会社の名前が挙げられていた。記事によればその会社は母の会社と合併して健康食品業界にも参入し、一気に押しも押されぬ国内有数の大企業に仲間入りしたい目論見のようだ。

 記事を書いた人間は合併というよりは母の会社が吸収されるという表現がふさわしいと見ているようだった。母の会社は規模としては一日の長があるが合併相手の食品会社の方には現代社会の世相を反映した勢いがある。かつての成功の思い出にすがるだけのジリ貧企業にとってはその推進力にすがりたい一心だろうと記事は締めくくってある。

 鵜呑みにはしたくはないが新聞が根も葉もないことを書くとは思えなかった。

 父が興した会社は確かにかつて流行の波を掴んで急成長を遂げ健康食品業界の中ではある程度の地位は築いたが、やはり大手の食品会社と比べると知名度は低く、基盤も弱い。良くも悪くも強烈なリーダーシップを発揮して会社を軌道に乗せた父が急逝してからというもの、じりじりと売り上げが後退しているという情勢は否めない。母も父の後を継いで頑張ってはいるのだろうが、企業経営に特別の才覚があるわけでもなく、他企業の業界への参入や長引く不況などの影響で僕が思っている以上に会社の経営状態は悪化しているようだ。気がつけば今日の天気のように底冷えがして身動きのままならない状態なのかもしれない。

 今回の合併話が会社にとって良いことなのかどうかは僕には判断できない。しかし会社を他企業と合併させるという発想は母の意思ではないことは断言できる。あれだけ僕に社長就任を勧め、それがかなわぬと見るや自ら経営に乗り出した母だ。異常なまでに村石の名にこだわった母が吸収ともとれる合併話を持ち上げるとは考えられない。さしずめ母のことを良く思わない他の取締役達が勝手に合併相手を探し出してきて話題だけを先行させ母の一存ではどうにもならないところにまで既成事実を作ってしまおうとしているのではないだろうか。どうも今回の合併話には会社内部の権力争いが垣間見えてならない。

 先日久しぶりに会った妹の言葉が脳裏に浮かぶ。

 母が寂しがっている。

 押し寄せる不況の波、冷たい重役連中の目、吸収合併の風説。この重荷はもともと虚弱体質の母の小さな身体では背負いきれるものではない。心労が重なって母の身体に悪影響を及ぼすことがないと良いが。

 いっそ合併でも何でも進めて会社を他人に任せ母の身を自由にしてやりたいと僕は思う。しかしそんなことをすれば社長の座についてだけは妙に強情なあの母がひどく悲しむのは目に見えている。僕が母の代わりに社長に就任すれば母の背負う負担は軽くなるだろうが、僕の前にはまだ大学生活が二年残されていた。母にあと二年間耐える力が残っているだろうか。

 ふと足元から目を上げるといつの間にかマンションのそばまで来ていた。そして僕は目の前の光景に立ちつくした。

 マンションの脇にパトカーが2台と救急車が1台停まっている。一人の制服姿の警察官が難しい顔をして無線で何やらやり取りをしている。この寒い中一階の通路に人が集まっているのが見えた。人の輪は102号のドアを中心に出来ているようだった。

 何があったのだろうか。回転するパトカーの禍々しい赤色灯がただならぬ事態を予想させる。毎日寝起きするマンションで警察が出張ってくるような事件が起きたとは。こそ泥なら僕の部屋は何も取るものがないので安心だが。救急車が来ているということは人の命に関わることが起きているのだろう。野次馬根性というには若干臆病な気持ちで僕は人の輪に向かった。

 人だかりの中から先生が僕を見つけて寄ってきた。

「今日は帰りが早いね」

 この事態に関わらず、やはり先生は落ち着いている。この状況でまさか開口一番いつもより帰りが早いことを指摘されるとは思わなかった。

「教授が風邪をこじらせたみたいで午後からの授業が休講になったんです。それよりも何かあったんですか」

 恐る恐る聞いてみると先生は事の重大さを暗示するようにゆっくり一呼吸おいて口を開く。僕は先生の口の動きに意識を集中させ生唾を飲んだ。

「殺人事件だよ」

「まさか……」

 思わずそう口にしていたが、先生の顔を見れば冗談ではないことは明白だった。

 自分の住むマンションで人が殺された。しかも事件は僕の部屋の真下で起きている。誰が、誰を、何のために。聞きたいことはいくらでもあるのだが、あまりにありすぎて咽喉で渋滞して口まで出てこない。

「死んだのは102号の住人で酒井さん」

 再び僕は驚いた。102号で起こった事件なのだから102号の住人が被害者で当然なのだが、顔を知っている人が殺されたという事実に僕は目を見張った。僕は先日すれ違った水商売風の年齢不詳の女性を思い出していた。彼女が何者かによって殺されたのだ。もう二度と彼女に「お帰り」と声を掛けられることはない。そう思うと不意に心の中にひんやりとした空虚なものを感じた。

「どいて、どいて」

 部屋の中からドアを囲んでいた野次馬を煙たそうに睨みながら刑事らしき髪を短く刈り上げた男が出てきた。見るもの全てが鬱陶しいとでも言いたげに眉間に皺を寄せ、足元に唾を吐いた。まるでテレビドラマに出てくる刑事そのままのひと癖もふた癖もありそうな粘っこいいやらしい目つきをしている。

 僕はその中年の刑事にどこかで会っている気がした。どこでだろう。刑事と知り合ったことなど生まれて一度もないはずだが。

 彼の後ろから若干青ざめた様子の若い警察官二人が前後になって担架を持ちながらついてきた。すっぽりと全体に毛布を被せられた担架には酒井という名のあの女性が乗せられているのだろう。毛布の下で目を見開いてこちらを見つめているかもしれない。担架が僕の目の前を通り過ぎていくとき僕は毛布の下の青白い死体を想像して身震いした。

「大野さん、ちょっと」

 部屋の中から若い刑事が顔だけを出し担架を見送る短髪の中年刑事を風邪気味のような鼻にかかった声で呼んだ。「おう」と返事をして大野と呼ばれた刑事は僕の前を通って部屋に引き返していった。大野のくたびれたスーツからは強烈なタバコの臭いがした。

「このマンションの住人の方は後ほどお話を窺いに行きますので部屋に戻っていてください。関係ない野次馬はさっさと帰った、帰った」

 面倒くさそうにそう言い捨てると大野は僕の方に一瞥をくれ、寒い、寒い、とぶつぶつ言いながら102号のドアを思い切り閉めた。僕を見る大野の目に何か敵意のようなものが篭っていたようで僕は小首を傾げた。


「見つけたのはこのマンションの大家さんなんだって」

 寒そうにコタツに両手両足を突っ込んで先生が事件の説明をしてくれた。

 大家と言われても全然顔が思い浮かばない。それもそのはずで入居契約は斡旋会社が全てやってくれたし月々の家賃は銀行振込みなのでので大家とは一度も会ったことがないのだ。。

「酒井さんは二ヶ月間家賃を滞納していて、大家さんが今日催促に来て部屋の中で死んでる彼女を見つけたらしい。鍵が掛かっていないもんだから部屋の中に入ってみると奥の部屋で酒井さんが倒れていたと……」

 僕は思わず身をすくめ先生に負けないぐらいコタツに入り込んだ。マンション内の各部屋は同じつくりだから丁度僕と先生が座っているこの真下あたりで酒井さんが死んでいたことになる。ひんやりとした空気の流れが僕の首筋を通って行った。

 大家も大変だ。殺人事件など起こってしまったらマンションのイメージは最悪だ。気味悪がって新たな借り手などしばらく見つからないに違いない。僕も夜中になったら少し怖い気がする。102号はこれからどうなるのだろう。開かずの部屋として怪談話の一つでもできあがるのだろうか。

「誰が犯人なんでしょうか」

「部屋の中の詳しい様子は分からないけど、酒井さんは背中を何箇所も刺されて死んでたんだって。箪笥やら押入れやらは荒らされていたみたいだけど・・・」

「ということは」

「手口は強盗に見えるけど、顔見知りの犯行かもしれない。酒井さんの滞納は珍しいことじゃなかったみたいなんだ。家賃を滞納する人の家に泥棒に入っても何もないよね。部屋を荒らしたのは物取りに見せかけるためじゃないかな」

 先生は眉根をひそめいつにも増して舌の回転が良く、事件を冷静に分析していく。先生のようにいつも落ち着いて行動できる人は刑事に向いているのかもしれない。先生には人を見る目もあるし、まさにうってつけの職業のように思える。

「ここ2,3日で、下の階からの争い声や悲鳴なんかなかったよね」

「えっ?殺されたのは今日じゃないんですか?」

「警察官が喋ってるのを盗み聞きしたんだけど、死後2,3日経ってるんだって。この寒さのおかげで死体の腐敗はあまり進んでなかったみたい」

 つまり昨日、一昨日と僕は死体の上で生活していたことになる。僕は気が遠くなるような思いだった。先生が言うように殺人事件を連想させるような物音は聞こえなかったから気付かなくても仕方がないのだが、それにしてもこんな目と鼻の先で人が死んでいるのに何も知らずに暢気に暮らしていたとは、今さらながら気味が悪い。きっと酒井さんはもっと早く見つけて欲しかっただろうに。僕を恨まないでくださいよと思わず手を合わせた。

「運の良い方じゃない?大家さんが来なけりゃもっと発見が遅れてたよ」

 大家さんが発見しなかったら……。僕は102号で酒井さんが腐敗していく中、何も知らずに生活している自分を想像した。そのうち下の階から生ゴミの腐ったような臭いがしてくる。変に思って最初に102号を訪れるのは僕かもしれない。鍵の掛かっていないドアを恐る恐る開けると強烈な死臭と共に腐りきって白骨化し始めた死体とそれに群がる無数の蛆虫を見つけることになる。

 僕はそこまで想像して首を大きく横に振った。全身に鳥肌が立って酸っぱい不快感が食道を熱とともにせり上がってくる。口の中に唾液があふれてきた。

「村石さーん」

 部屋のドアを無造作にノックする音が聞こえた。玄関に向かうと「先ほどの刑事ですが」と投げやりな感じの声が飛んできた。ドアを開けると先ほどの大野という刑事と若い刑事のコンビが立っていた。大野が背広の内ポケットからチラッと黒いものを見せる。はっきりとは見えなかったが警察手帳のようだ。善意の第三者に事情を聞くのならもっとはっきりと手帳を示して身分を証明すべきだと僕は思った。どうも大野という人間に好意を覚えられない。

「お前がやってみろ」

 大野は後ろの刑事にそう言って僕と先生から顔を背けるように後じさりし向こうを向いてタバコに火をつけた。言われて若い刑事が手にした手帳に目を落としながら僕と先生に対面した。

「えーっと、203号、203号」

 真面目そうな刑事だと僕は思った。彼の真っ直ぐ太い眉やきりりと引き締まった口がそう思わせるのかもしれない。ただ、目が充血していて何となく顔色が悪い。鼻にかかった声は風邪のせいだろう。僕は思わず一歩身を退いた。治りかけの風邪がぶり返したらたまったものではない。

「あなたが村石さんですか。こちらは?」

「205号の住人です」

「ということは……榊原さんですね」

 先生はこくりと頷いた。ふんふんと刑事は何やらメモをとっている。その向こうで大野はこちらに背を向け西日に向かって煙を吐いていた。その後姿はやはりどこか見覚えがある気がした。

 風の向きで煙が若い刑事の顔にまとわりつき彼は二度咳をした。それでも大野は全く気にする素振りを見せない。メモを取っていた刑事が一瞬手を止めて目の端で大野を睨むのを僕は見逃さなかった。この二人はチームワークが良いとは言えそうにない。

「この二、三日で下の部屋から悲鳴とか言い争う声なんか聞きませんでしたか?」

「特に何も」

 僕はゆっくり首を振った。

「生前酒井さんとは面識がありましたか?」

「道ですれ違ったり、ゴミを出すときなんかに挨拶したりする程度です」

「榊原さんはいかがですか?」

「彼と同じです」

「特に親しくはなかった、と。他にこのマンションで酒井さんと親しかった人って知りませんか?」

 僕は水野君江が死んだ酒井さんと口論していたのを思い出していた。親しくはないがある種深い仲だとは言えるかもしれない。僕は口にはしていなかったが酒井さんが殺されたということを聞いてからずっとあの夫婦のことが気になって仕方がなかった。

「わかりません」

 僕が黙っていると先生がはっきりと答えた。先生はわざと水野夫婦のことを黙っているのだ。あれだけの騒ぎを起こしたのだから彼女達の仲を警察が知るのは時間の問題だとは思うが僕も先生に従って頷いた。自分の言葉で大野に水野さんと殺人事件が結びつくようなことは伝えたくない気がした。

「何箇所も刺されていたんですか?」

 先生が僕の前に身を乗り出すように出てきて刑事と向き合った。

「そうですね、背中に7箇所、腕にもちょっと」

「凶器は?」

「まだ見つかってないのではっきりとは言えませんが、どこの家庭にでもあるような果物ナイフじゃないですかね」

「おい、べらべら喋るな、横山」大野がタバコを足でもみ消しながら、からみつくような目で僕と先生を覗きこんできた。「おたくら本当に何も知らないんですね?何か思い出したらすぐに警察に連絡くださいよ。それじゃ、どうも」

 横山と呼ばれた若い刑事は小さな声で大野に謝り、僕と先生に向かって「ありがとうございました」と軽く頭を下げてドアを閉めた。

 僕はこれ以上大野という刑事に階を上がって欲しくないと思った。あの大野の毒々しい目に凝視され人の悪さの漂う口調で問いただされたら大人しい朋子さんは何も言えないだろう。やましいことがなくてもきっと後ろめたいような不快な気持ちにさせられてしまうに違いない。

 僕は大野と組んでいる風邪気味の横山という刑事が憐れな気がした。あの大野と組んでいてはストレスがたまって風邪の悪化は避けられそうにない。

「気になるのは101号の水野さん夫婦だね」

 刑事がいなくなると先生はボソッと言った。やはり先生はわざと伏せていたのだ。あの場面で水野君江の乱心振りを話せば彼女が犯人だと示すようなものだ。あの夫のことを思い出すととてもそんな真似はできない。会社ではリストラにあい、妻は気がふれて殺人を犯したとあっては我が身の不幸を呪わずにはいられないだろう。

「実は一昨日から水野さん夫婦を見かけないんだよな」

 先生は苦渋に満ちた顔でつぶやいた。先生も彼女の酒井さんに対するあの恐ろしいまでの嫉妬心が殺意に変わったとしてもおかしくはないと思っているようだった。仲直りを口実に酒井さんの部屋に上がり隙を見て酒井さんの背中にナイフを突き立てる。取り付かれたように何度もナイフを振り下ろす彼女を想像することは難くない。警察が水野君江に的を絞り捜索に掛かるのはそう遠くないだろう。

「そう言えば、あの大野って四角い顔の刑事、見覚えない?」

 先生も同じことを思っていたようだ。とすると、大野はこのマンションに関係がある人間ということになる。

「僕もそう思ったんですけど、どこで見たのか全然思い出せないんです」

 マンションの住人だったら顔ぐらいは分かっているし、この辺りで刑事の世話になるような事件が起きたこともない。テレビや雑誌に出ていたわけでもないだろうし。

「三階だよ」

 僕はハッとして手を叩いた。数日前306号から飛び出してきて先生と僕を突き飛ばして逃げた殺人未遂犯の姿が頭の中にひらめいたのだ。背格好、あの短く刈り揃えた四角い頭は確かにそっくりだ。刑事なら身体が引き締まっていて当然だ。「外回りの仕事」と見切った結の目も確かだったと僕は感心した。

「あの男!あの男、刑事なのに買春なんかして、挙句に殺人未遂まで……」

「刑事も人間だからね」

 人間という言葉で片付けてしまうには僕にはいささか抵抗があった。そんな理屈がまかり通ったらこの世に秩序など存在しなくなってしまう。しかし先生は「秩序が壊れるから面白いのだ」とでも言いたげに微笑を湛えている。

「法を守るべき刑事が欲に溺れて娼婦を買う、か。なかなかおもしろい」

 先生は遠い目線になって物思いに耽り出した。先生の妄想の中であの大野という中年の刑事はどんな世界に堕ちているのだろうか。

「今日は晩ご飯いらないよ」

 いきなり立ち上がったかと思うと先生は飛ぶように自分の部屋に戻っていった。

 先生はこれから何時間か妄想を文字に具現化する作業に没頭するのだろう。僕は完全に自分の世界に篭りきる先生を想像する。ペンは氷の上を滑るように滑らかに踊り、命を吹き込まれた無数の紙は羽を広げて舞い上がる。僕は一度先生の執筆中の様子を覗いてみたいと思った。その背中には神が降り立つ様子が見えるような気がするのだ。


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