廊下
覚えていない。
そう凛香に断言された壮史は言葉を失った。
緑山家にて。
午前八時から午後七時までしか仕事をしないこと、家に仕事を持ち帰らないことを貫いていた神路が、初めて警護対象者を家に連れ帰った。
曰く。
警護対象者である淡野壮史が強請ったとのこと。
二週間預かることになった。
あらかじめ神路から電話で聞いていた珊瑚が、壮史とジイを玄関まで出迎えに来た時だった。
ちょうど帰ってきた凛香を見るや否や、壮史は胸を張って名乗ったのだが、凛香は誰だっけと首を傾げたのだ。
「ごめんな。覚えてないんだ」
覚えていない。
一度でも顔を合わせたならば必ず覚えられていただけに激しい衝撃を受けた壮史であったが、十五秒後には見事復活。
くわりと目を見開かせて、自身の艶やかなポニーテールを凛香に突き付けながらどんどん詰め寄った。
「俺のこの雄々しい紅の髪とつり上がった眉毛、凛々しい顔立ちに佇まいを覚えてないだと!?」
「ごめんな」
両肩にやわく手を置かれて落ち着くように促す凛香を見上げていた壮史は、再度謝られてしまい、それ以上何も言えずに口を噤んだ。
壮史の斜め後ろに控えていたジイは、壮史に並んで一礼をし、凛香に視線を合わせた。
「申し訳ございません。凛香さま。先日、公園でかたくりの花を摘みたいので退いてほしいと、ベンチに座っていた少年にお願いしていらっしゃいましたね。その少年が壮史さまだったのですよ」
「ああ!かたくりの花の!」
ぽんと拳を掌に叩いた凛香は、ジイに合わせていた視線を下げて腰を下ろし、壮史に視線を合わせた。
「ごめんな。かたくりの花しか目に入らなくて。うん。きれいだ」
ざっと壮史を上から下まで見た凛香はおおらかに笑った。
途端、髪と同じ色に染め上がってしまった身体全部をぶるぶると震わせながら、壮史は口をぱくぱくと開けては閉ざすを繰り返してのち。
「ばか!」
靴を乱暴に脱ぎ捨てて、廊下を一直線に駆けて行ったのであった。
(2022.1.11)




