承・化野に棲む・・・
「どうですか、具合は」
桶を手に入ってきた秋津は、のべられた布団に横たわる火浦に尋ねた。
それに首を向け、恐縮したそぶりで火浦は答える。
「おかげで大分楽になりました」
「それは良かった。残念ながら湿布薬などと言う気の利いた物はありませんが、井戸のおかげで冷たい水だけは事欠きませんので」
言いながら、火浦の足首に巻いた濡れ手ぬぐいを替える。確かに、その腫れは先ほどよりかなり引いていた。
借物の浴衣からのぞくスラリと伸びた足は、華奢とはほど遠いにもかかわらず、男の脚とは思えぬほどに、不思議となまめかしい。
「ご迷惑をおかけします」
「気になさらないで下さい。たまには、他の方と居るのも良い物です。何のお構いも出来ませんが、足がよくなられるまで、ゆうるりとして行かれて下さい」
なんとはなく、会話が途切れる。無言のまま秋津は、冷たい水で手ぬぐいを絞っては、温かくなった物と替えていた。
それは火浦にとって、奇妙に心地よい時間だった。二人とも無言のまま、時だけが過ぎていく。
何度目かに水を替えに立った秋津が、桶と一緒に大ぶりの湯飲み茶碗を持ってきた。枕元に座り、声を掛ける。
「これを」
声に首を傾げてみせる火浦の背に手を回して抱え起し、手にその湯飲みを持たせる。
「薬湯です。痛みが軽くなってぐっすりと眠れますよ」
言われるままに火浦は、それを飲干した。立上る香ばしい薫りが、苦みを決して嫌な物と感じさせない。
と、火浦から空いた湯飲みを受取りながら、秋津が尋ねかけた。
肩を抱く手をそのままに、顔をのぞき込んでくる。
「不思議です。あなたとは、初めてお会いしたという気がしません。以前どこかでお会いしたことがありますか?」
その漆黒の闇を映す瞳に吸込まれそうになった火浦は、思わず目をそらせた。
なぜか心臓は高鳴り、ほおは上気している。
「勘違いではありませんか」
たとえ一目なりとも見たことがあったなら、決して忘れることなどあり得ない相手であった。その印象的な容姿は、記憶の底に沈み去ることは愚か、他の何者とであろうとも、見まごうことすら完全に拒絶している。
「ではきっと、前世ででもお会いしたのでしょう。もしかしたら、親しい友人だったのかもしれませんね」
浮べられた妖艶とすら言えそうな笑みに、返す言葉を失ってしまう。
そのうち、薬が効いてきたのか、火浦のまぶたは今にもくっつきそうになってくる。そんな火浦を見ながら、秋津は耳元でささやいた。
「そういえば、私自身の名をお教えしておりませんでしたね。私の名は、タケル。尊敬の尊と書きます」
眠りの淵に落ちかけながら、礼を失せぬよう火浦は必死で復唱する。
「秋津尊・・・」
「ええ、そうです。覚えておいて下さい」
「ん・・・」
返事半ばにして、腕の中で吸込まれるように眠り込んでしまった秋津を、そっと布団に横たえる。
目を閉じた火浦からは目つきのきつさが消え、秋津に劣らぬほど整った、彫りの深い印象的な顔立ちが際立ってくる。
捻った足に掛らぬよう上掛けを掛けてやりながら、秋津は再び手拭を替える作業に戻った。
手拭を絞っては替え、替えては絞る。極めて単純な作業の繰返し。だがなぜか、水を替えに立った訳でも無いのに、桶の中が温くなっているようでも無い。
と、無心にそれを繰返した居るかに見えたその手が、ピタリと止った。そのまま彼の手は、男性的だが形の良い脛を、そっと撫で上げる。
「火浦さん」
魂の底から絞り出すような声。
火浦の脚をかき抱いた秋津は、その膝に頬擦りをした。
愛しい、哀しい、淋しい。部屋の空気までもが、その色に染まる。
「火浦さん、火浦さん」
顔を上げ、火浦の横顔に思い詰めたような視線を送っていた秋津は、つと立上がり枕辺に座り直した。
汗で額に張付いた髪の毛を払ってやりながら、その寝顔をじっと見つめる。
「なぜ思い出しては下さらないのですか。私はこんなにもはっきりと覚えているというのに」
唇の形を、そっと指先でなぞる。
「私は変ってしまったというのに、あなたは昔のままだ。思い出して下さい、火浦さん・・・」
つぶやきは、そのまま闇へと呑まれていった。
「長らくお世話になりました」
深々と頭を下げる火浦に、秋津が柔らかな笑みを向ける。
あの夜の思い詰めたような姿が、まるで嘘だったかのように感じられる笑顔。だがそんなことなど、秋津には知るよしも無い。
「いえいえ、このような不便な所ゆえ、色々と御不自由をさせてしまいました。申し訳なく思っています」
門をくぐる手前で、名残を惜しむかのように話が続けられる。会話らしい会話の無かったこの二日間は、だが、確実に火浦と秋津の間を縮めていた。
「では」
「お気を付けて」
軽い会釈を交し合うと、ついに火浦は秋津に背を向けた。時々振返りながら、足元の悪い山道を慎重に拾っていく。
火浦の後ろ姿を見送っていた秋津は、その背が完全に消えたのを見て、固く握りしめていた手を開いた。爪が食込んだのか、手のひらは血にまみれている。
「火浦さん・・・」
突如として踵を返した秋津は、山の奥、いずくへともなく走り去る。穏やかだった風貌は、妖しく血の匂いを漂わせ始めていた。