承・化野にて
「失礼する。どなたかおられぬか」
開け放たれていた門をくぐり、玄関先から声を掛ける。しばらくすると、奥の方から人の出てくる気配があった。
戸口に現れた思いがけぬ姿を見て、沼田のみならず、火浦までもが息をのむ。
それは、年の頃は火浦と同じくらいだろうか、地味な和服姿が良くなじむ、玲瓏な面立の青年だった。抜けるように白い肌、人とは思えぬほど端整な顔立ち。切りそろえられた見事な黒髪は、背の半ばまでもゆったりと流れている。いかにも着慣れていそうな袴姿には、威厳すら漂っていた。
その青年の目はなぜか、沼田の後ろに立つ火浦の姿を捉えた瞬間、異様な光を放った。だがそれは一瞬のことで、いにしえの公達の亡霊に出会ったような気がして立ちすくむ2人には、気がついた様子も無い。
その彼らに、何事も無かったかのごとく、青年は涼やかな声を掛けた。
「どちら様でしょうか」
我に返った沼田は、慌てて答える。
「東京から来た沼田と申します」
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
請じ入れられた家の中は、妙に淋しい印象が有った。案内されるままに、ガランとした薄暗い廊下を歩く。
その静けさに耐えられなくなったのか、沼田が口を開いた。
「ところで、無明斎先生は?」
「父は先年身罷りました。現在は私が、無明斎の名を継いでおります」
「そうでしたか・・・」
いかにもがっかりしたと言いたげな沼田の姿に、青年の口元が笑う。
「ご心配なく。どなたも気づかれませんでしたが、かなり以前より、私が父の名前で仕事をいたしておりました。お役には立てると思います。ともあれ、どうぞ書斎に。狭い部屋ではありますが」
足を踏み入れたそこは、いかにも年代の感じられる本に埋れていた。壁に沿っておかれた棚には、和綴本を収めた帙が無造作に積み重ねられ、時代を錯覚してしまいそうになる。
「ところで、そちらのお連れの方のお名前をお聞きしてませんでしたね」
座布団を勧めながらの青年の問いに、沼田は慌てた。
「これは失礼いたした。彼は火浦君と申しましてな、私の助手役として来て貰いました」
「火浦小次郎と申します」
火浦の挨拶に、男は会釈を返した。口元には再び、不思議な笑みが浮んでいる。
「火浦小次郎殿、良いお名前だ。私は秋津無明斎。以後よしなに」
一旦言葉を切り、秋津と名乗った青年は、沼田に向き直る。
「少々お待ち下さい。茶など入れてまいりましょう」
その姿が部屋から消えた途端、2人は呪縛から解放されたかのように、深い溜息をついた。
何かを振り払うように軽く首を振ってから、沼田がつぶやく。
「いやはや、無明斎殿が、いや、故人の方だが、それが人間離れして整った顔立ちをしている、ということは聞いておったが・・・。息子殿の方も、勝るとも劣らんようだな。ちと表情に乏しい気はするがの」
「苦手ですよ、ああいう何を考えているのか良くわからないタイプは」
「ま、今日一日の辛抱だ。それにしても、なんとも奇妙に殺風景な家だな。生活臭という物が、どこにも感じられん」
無言のまま、火浦は同意のうなずきを返す。
昼日中だというのに薄暗いそこは、幽霊屋敷の雰囲気すら漂わせている。
その暗さは、この家が竹林の中に立っていることや、日光を嫌う本の為にこの部屋が北向きだ、というせいばかりとは、到底思えない。
「古い家だ、というだけではありませんね。それにしても、電気はかろうじて来ているようですが・・・」
「電話は無かったぞ。メールアドレスや固定電話どころか、携帯やスマホすらもな。おかげでワシは、連絡を取るのにどれほど苦労したか」
「アンテナが立っている気配も無かったですから、テレビも怪しいですねぇ」
その文明との隔絶ぶりに、顔を見合わせてしまう。ここはまさに、時の流れに取残された異空間だった。
何事か言おうとした火浦が、人の気配を感じて、開き掛けた口を止める。と、音も無く襖が開き、盆を片手の青年が入ってきた。茶を勧める秋津の、作法に則った流れるような所作に、沼田達の背がピンと伸びる。
一口喫し終った茶碗が置かれたのを見計らって、青年は切出した。
「さて、本日のご用の向きの詳細をお聞かせ願えますか。いただいたお手紙では、為定卿の日記について、ということでしたが---」
「いやぁ、どうもありがとうございました」
「お役に立てましたか?」
「おかげさまで、長年の疑問が解けました」
「それはようございました。私も、楽しい時間を過させていただきました。今時、この手の物を『読める』方はまずいらっしゃいませんのに」
秋津はチラリと、火浦に視線を送る。
「良い後継者を持たれたようですな」
「いやいや、彼の専攻は理系、それも、なんと数学科でしてな。この数年来、ぜひ我が元にと望んでいるのですが、振られっぱなしなのですよ」
「それはまたもったいない話だ。なぜです?」
向けられた質問に、困ったように火浦は口ごもった。
「なぜと言われましても・・・。読物としての古典に興味はありますが、学問の対象としてのそれはどうも・・・。動詞や助動詞の活用がどうのとか、言葉の変遷がどうのとか言われても、俺にとっては頭が痛くなるだけです」
「そんな物は、国語学者や言語学者に任せておけば良いのです。文学を研究するとは、そのような空しい行為ばかりではありませんよ」
「わかってはいます。ただ、しょせん過去は過去。過ぎ去った物はあるがままを受取れば、それで良いじゃ無いかと思う物ですから」
「淋しいことをおっしゃる方だ。私のように過去に埋れて暮している人間とは、相容れませんかな?」
やんわりと言われたものではあったが、その言いつのり方には、何ともらしくないものがあった。
他の人間に対して執着を見せたことなど、これまでの人生の中で一度も無かったのではと思わせる物が、この、滅多に感情を表にのぼせぬ、玲瓏たる青年の中にはある。
既にこの青年の視界に沼田が入っていないのは、明白であった。秋津の注視を受け、火浦は思わず狼狽する。
「いえ、決してそんなことは」
「なら、是非ともまたおいで下さい。あなたのような、本の心を理解して下さる方と居ると、心が和みます」
その言葉に対する返事は、とうとう火浦の口からは出てこなかった。
いや、言葉が無かったのは火浦ばかりでは無い。沼田教授もまた、到底そんなことは言いそうに無い人間の口から出た仰天物の言葉に、唖然とするばかりである。
と、目をそらせてしまった火浦になおも、妖しげとすら言えそうな視線を送っていた秋津が、急に話を変えた。
「ところで、そろそろお出になられた方がよろしいでしょう。本来なら『夕餉でも』とお誘いするべきなのでしょうが、慣れぬ方にはあの山道、日が落ちてからではご無理でしょうから」
言われて沼田は、ハッと我に返る。
「おう、こりゃいかん。もうこんな時間ですか。いや、これは長居をいたしました」
言いながら、慌てて立上がる。
「汽車の時間は大丈夫じゃろうか」
まるで子供のようなその姿に笑いをこらえながら、火浦は答えた。
「今から出れば、十分間に合います」
「そりゃ良かった。明日は何としてでも、東京におらねばならんでの」
「ならばお急ぎになられた方がよろしいでしょう。この辺りの山道は、日が陰るのが早いですし、何が起るかわかりませんから」
「ごもっともです。いくぞ、火浦君」
案内を待つまでも無く沼田は、部屋の外へ飛出そうとする。
苦笑いと共にそれを制して、改めて秋津に対して挨拶をさせようとした火浦は、相手がいつの間にか廊下に出ていることに気がついた。
「どうぞこちらへ」
秋津の先導で、来た時と同じように無言のまま、薄暗い廊下を歩く。こうやって並んで歩くと、秋津という青年の背は長身の火浦より更に一回り高く、思いがけずがっしりとして見える。
周囲を囲む背の高い竹林のせいか、玄関先は既に薄暮に包まれていた。
「かなり暗いですから、足元に気をつけて下さい」
先を行く秋津がそう言った途端、火浦の口から低いうめき声が上がる。その場にそのまま崩れ落ちた火浦に、沼田は慌てて駆寄った。
「どうしたのかね、火浦君!?」
「飛石を踏外して足を捻られたようですね。これでは、しばらく歩けますまい」
屈み込んだ秋津の、抜けるように白く形の良い手が、いつのまにか火浦の足首に、触れるか触れないかの加減でそっと当てられている。
その言葉を聞いて沼田は、途方に暮れた。
「いや、だが、しかし・・・。その、何としてでも今日中に東京に帰り着かねばならぬ用事が・・・」
「とはいえ、歩かれるのは無理ですよ。山を下りねば車も使えませんし」
確かに、ここに来る途中の道は、車の入れるような道では無かった。頭を抱え込む沼田を見て、火浦がかすれた声を出す。
「俺は大丈夫です、行きましょう」
だが、蒼白になって脂汗を流しながら必死に起上がろうとするその姿は、素人目で見ても明らかに、歩ける状態では無かった。
「いや、無理をしちゃいかん」
必死で火浦の事を制する。それを見ていた秋津が、一つの提案をした。
「こうされてはいかがでしょうか。今からならまだ、日のあるうちに山を下りられます。火浦さんの方は、歩けるようになるまで2,3日私がお預りいたしましょう。別にこの方は、今日中に帰らなくてはならない用事はお有りにならないのではありませんか?」
「おう、そうしていただけますか」
沼田の顔がパッと輝く。
「ご迷惑をおかけして申し訳ないが、そうしていただけると助かります」
「では、少々お待ち下さい」
何事だろうかと首を傾げる沼田の目の前で、足を押えて倒れたままだった火浦のことを、その抗議をものともせずに軽々と抱え上げ、家の中へと消える。
しばらくして出てきた秋津は、何事も無かったかのような視線を、まだあっけにとられたままの沼田へと向けた。
「では、参りましょうか」
「はっ?」
訳がわからずに、気の抜けたような声を出してしまう。それを気にする風でも無く、秋津は言った。
「あなたをお一人で行かせては、あの方が心配なさるでしょうから。山の途中までではありますが、お送りいたしましょう」
言うだけ言ってさっさと先に立った秋津の背を見ながら、方向音痴を自認する沼田は胸をなで下ろしていた。