消えてくれと言われてももう遅い。大丈夫、ずっと貴方の傍に居させて……
嵐の海での王子との出会いは、嵐に負けないくらい衝撃的だった。うねる大海原よりも激しく私の心をゆさぶり、冷たい海水では決して冷めない熱い恋心を、私のハートに植え付けた。
船が沈み、私は慌てて海に投げ出された王子を救い出した。しかし、王子を岸辺へ運んでいる間に、船は海底の闇に姿をくらませてしまった。
船が沈む報せを受けた大臣が慌てて王子を迎えに来て、私はそっと静かに海へと姿をかくした。こっそり手を振る王子に、私は尾ビレを水面から少し出して、そっと振り返した。
王子が度々お城を抜け出して、私に会いに来てくれた。王子は色んな土地の話を私に聞かせてくれた。私も色んな海の話を王子に聞かせてあげた。二人は話をする度に笑い合い、言葉が重なる度に見つめ合った。しかし私は人魚……あなたと手を重ねても、あなたを暖めることは出来ないのね…………
暗闇にひそむ魔法使いの家を見つけるのに、そう時間は掛からなかった。魔法使いは私が口を開くより早く、不思議な紫色の薬を取り出した。
「恋をした人魚の顔だね……なら願いはこいつが叶えてくれるだろうよ」
私はその薬を見つめた。怪しげな色に引き込まれてしまいそうになるのを、慌てて目を閉じてグッとこらえた。
「ただし、人間の姿になると声を失う。そして……もう戻れない」
薬さじで薬を一口すくう魔法使い。そのまま手渡され、私は最後の判断を委ねられた。
「言葉はなくとも…………」
私は王子の笑顔を思い浮かべながら、その薬を口に含んだ。
「みな、そう言うのじゃ……ケヒヒ」
そんな言葉には惑わされない。私は王子と人間として結ばれるのだから……!!
夕日に照らされた王子を見つけたときは、感動で涙が出そうだった。しかし、何処か様子が変だった。
「…………」
手を振り、笑顔で隣に並ぶ。
しかし、彼は魂の抜けた顔で私に「初めまして」とあいさつをした…………
彼は認知症に掛かっていた。
王子として不適合の烙印を押され、お城を追い出され、そして海辺でひたすら夕日を眺める姿をさらすだけ。私はいたたまれず彼の手を引き、家を借りて暮らし始めた。
「見ず知らずの方にそこまでしていただくなんて……申し訳ない」
『いいんです。私がそうしたいんですから』と、筆談すると、彼は一つ頭を下げた。
私の作った手料理を申し訳なさそうに食べる彼。けれども全部食べてしまったその食べっぷりは、見ていて嬉しいものがあった。
その日、一つの布団に並んで寝た。特に何かは無かったが、彼の温もりを感じて、彼も私の温もりを感じてくれた瞬間は、得も言えぬ絶頂を感じ、一人身もだえた。
しかし、彼は翌日の朝に「初めまして」と私にあいさつをした。
周囲の目は優しく、彼が追放された王子であることはすでに周知されていた。王子の人徳だろうか、時より食材をくれる方が現れ、とても助かっている。
「あなたは?」
『あなたのお付きになります。口がきけぬので、これで会話するのを許してください』
何度使ったか分からないノートのページは、既に海風でふやけて波を打っていた。
常に彼に寄り添い、行動を共にし、草木にふれ、動物をいたわる。平和を愛し心より他人をいつくしむ姿は、かつてのままであった。決して覚えた物ではなく、心からにじみ出る本質なのだと、私は嬉しく思った。
「あ、おはよう」
ある日、いつもと挨拶が違った。
「今日はいい天気だね。何をしようか?」
もはや自分が何者なのか、その役割すら忘れてしまった彼が、私を忘れずに朝を迎えてくれた。
私はとっさに後ろを向いて……泣いてしまった。
「だ、大丈夫かい?」
背中をさする暖かい手。もう、涙が止まらない。
その日、私は心から王子と結ばれた気がした。
「父上!!!!」
夜中、隣で寝ていた彼の口から、かつてのいまいましい記憶がよみがえった。
「どうか私を捨てないで下さい!!!!」
自分の寝言で飛び起きた彼は寝汗もひどく、呼吸も乱れていた。優しく背中をさするが、落ち着きが戻る気配が無い。
「何故君がココに!?」
私の方を見た彼はひどくおびえていた。
「私は捨てられたあわれな王子!! もう君と会うことすらも、おこがましいのさ!! 消えてくれ!!!! どうか私の全て捨ててくれ!!!!」
私の手を払いのけ、彼は家を飛び出した。騒ぎを聞き付けた周囲の人達が、彼の捜索を手伝ってくれたので、直ぐに彼を見つけることが出来た。彼は木の陰に座り込み呆けていた。泣きながらすがりつく私に、彼は「どちら様で?」とだけ言い、とぼとぼと家へ向かった。
最近肌の色が良くない。手の水かきも少しずつだが戻りつつある。
どうやら魔法使いの薬は、完全ではなかったらしい。私が人魚に戻れば、もう彼とはいられない。どうか……まだこのままで居させて下さい神様。
「あ、おはようございます。初めまして……ですよね?」
寝起きの彼は、私を見て笑顔であいさつをした。私はいつも通り波打つノートを広げ、笑顔を返した。
それからも徐々に水かきが深くなり、肌の感じが人間から離れてゆく。周囲の目も曇り始め、私は彼のお荷物となり始めた。
「……ココは? 誰か居ませんか?」
『おはようございます。ご飯は出来ていますので、ゆっくり食べて下さい。今日は森の動物たちが遊びに来ます。仲良くして下さいね?』
「……誰のメモだ?」
ねっとりとした暗闇の海の底。私はヘドロ色に変色した体を隠しながら、今日も彼が健やかであることを祈り続けた。
そして、夜に紛れて、彼の家で料理の支度をし、彼の寝顔で癒やされるのだ。決して見られることの無いよう、半魚人と化したその体を隠しながら…………