7.悪夢
セバスティアンさんからもらった服は、今のお兄ちゃんには少し大きかったが、清潔で生地もしっかりしていて、長く着られそうだった。夏服だけでなく、春や秋に着る服も、冬服もあったので、お兄ちゃんはしばらく着るものに困りそうにない。
洋服を探して知ったのは、屋敷の中には両親のことをよく思っていなくて、お兄ちゃんがいるから我慢して仕え続けている、味方がまだいるということだった。着ている服を洗濯に出すと、メイドさんが洗濯してくれるのだが、お兄ちゃんがセバスティアンさんからもらった洋服を着ていることを、誰も両親に告げ口したりしなかった。それだけではなく、乳母はメイドさんから「これ、うちの子のお下がりで申し訳ないのですが」と私やファンヌの洋服を貰うようになった。
縫物が苦手な乳母は、お兄ちゃんに縫わせるのも申し訳なく思っていたので、その洋服をありがたく貰って、私もファンヌと一緒に頭を下げてお礼を言った。
お兄ちゃんの手作り服でなくなるのは寂しいが、お兄ちゃんと乳母の仕事が減るのは嬉しい。
セバスティアンさんのことについて、お兄ちゃんは話してくれた。
「母が生きていた頃から、支えてくれた立派な執事さんだよ。父が亡くなってから、母はセバスティアンさんにたくさん助けてもらった」
「アンネリたま、なくなった……おにーたんのおとーたまも?」
「僕がイデオンくらいの頃だから、父のことはほとんど覚えていないのだけれどね」
お兄ちゃんの本当のお父さんが亡くなったのは、私くらいのときだから3歳の頃だろう。その後で私の父親とアンネリ様が再婚して、アンネリ様が亡くなったのは、お兄ちゃんが5歳のとき。それからすぐに父親は手のひらを返して、私とファンヌの母と再婚して、お兄ちゃんを書庫だった部屋に閉じ込めた。
「何度、父上と母上のところに行ってしまいたいと願ったか分からない。僕は寂しくて悲しくて、死んでしまいたかった……」
「おにーたん、いなくなったら、やぁの」
「にぃ、にぃ」
ファンヌと二人で兄を慰めると、にっこりと微笑んで兄が私たちを抱き締めてくれた。
「イデオンが僕のところに来てくれたとき、僕は本当に嬉しかったんだ。ファンヌとも仲良くなれて、今は幸せだよ」
こんな境遇でも、お兄ちゃんは自分が幸せという。
3歳で父親を亡くし、5歳で母親を亡くし、母親の再婚相手に黴臭い部屋に世話もされずに閉じ込められた。それまでの待遇が悪すぎたのだが、今だってとても待遇が良いとは言えない。それでも、お兄ちゃんは私とファンヌがいるのが嬉しいと言ってくれる。
両親は一度でも、私とファンヌが存在するのが嬉しいなどと言ってくれたことがあっただろうか。態度に表してくれたことがあっただろうか。
お漏らしをすれば「汚い」と乳母に押し付け、泣けば「煩い」と近寄らせない。両親よりもお兄ちゃんの方がずっと私たちを愛してくれていると、私もファンヌも感じていた。
そんな話をしたせいか、夜に私は奇妙な夢を見た。
大人びたお兄ちゃんが、痩せて窶れてベッドに寝ている。そのベッドは屋敷の書庫を改造したお兄ちゃんの部屋のものでも、私とファンヌの子ども部屋のものでもなかった。
周囲を見回すと、部屋が狭くて壁にひびが入っていて、屋根も雨漏りがしそうで、とてもみすぼらしいことが分かる。お屋敷ではない場所だと理解できたが、どこかは分からない。
お兄ちゃんが震える手を私の方に伸ばしてくる。視線が今よりも高いから、私はもう少し成長しているのだろう。
――お兄ちゃん、死なないで
祈るように、泣くように私は喉から声を絞り出していた。
お兄ちゃんの手が一瞬だけ強く私の手を握り、力が抜けていく。ずるりとベッドの上に落ちたお兄ちゃんの手から温もりが消えていくのを、私はどうすることもできない。
涙が溢れて止まらなくて、視界が歪む。
お兄ちゃんは死んでしまった。
その事実を突き付けられて、私は泣き喚きながら立ち尽くしていた。
目を開けた瞬間、お兄ちゃんも同じように目を開けて、起きていた。部屋は真っ暗で時刻はまだ深夜だと分かる。ぺちぺちとお兄ちゃんのほっぺたを触り、ぎゅっと抱き付いて、私はお兄ちゃんの無事を確かめた。
あまりのことにぽろぽろと涙が零れて来て、止まらなくなってしまう。
「どうしたの、イデオン? 怖い夢を見たの?」
そう言うお兄ちゃんも、冷や汗で身体がぐっしょりと濡れていた。
「おにーたん、いなくなっちゃうの。おにーたん、ちんじゃう……」
「僕が、死ぬ夢を見たの?」
「おやちきじゃないところで、おにーたん、ねてて、くるちとうで、わたちのてをぎゅってちて……」
「もしかして、僕と同じ夢を見ていた?」
「おんなじ?」
話を聞けば、お兄ちゃんも同じ夢を見ていたようだった。
みすぼらしい部屋で栄養失調で病気にかかって、死にかけていたところで、私が飛び込んでくる。最期に私に会えたことを神に感謝して、お兄ちゃんは死んでいく。
同じ夢を二人が同時に見たことは、決して偶然ではないような気がして、私は必死にお兄ちゃんに問いかけていた。
「アンネリたまと、おにーたんのおとーたま、ちんだの。ち、って、なぁに?」
「『死』は誰にでも訪れるものだよ。人生の終わり。死んでしまったひとには、二度と会えないし、話すこともできない」
「ちんだら、どうなるの?」
「死後の世界があるっていうひともいるし、天国や地獄があるっていうひともいるけど、本当のことは分からない。ただ、もう二度と生きているひとと会えないのだけは確実だね」
3歳児には難しい「死」の概念を、お兄ちゃんは真剣に教えてくれた。
いなくなって二度と会えない。そんなことが起きるなんて嫌だ。
止まらない涙を拭いてくれて抱き締めてくれるお兄ちゃんの胸に耳を当てると、ドッドッドッと少し早い心臓の音が聞こえる。お兄ちゃんも怖いのだと分かった。
あれがこれから来る光景ならば、どうにかしてああならないようにしないといけない。
「おにーたん、ちんじゃ、やぁの」
「僕も死にたくはないけれど……父と母が亡くなった後に、二人のところに連れて行ってくださいって、何度もお願いしたせいかなぁ」
「おにーたん、わたちがいるの。おにーたん、ちなてない」
「イデオン、一緒にいてくれてありがとう。ずっとずっと寂しかったんだ。弟が生まれたって聞いても会わせてもらえないし、妹も生まれたのに、挨拶もできなかった……」
大きくて強くて賢くて優しいお兄ちゃんが、私の前で初めて弱音を吐いた。誰か頼るひとが欲しかったのだろうが、ずっと閉じ込められて、最低限の世話しかされなくて、ひととの触れ合いに飢えていたお兄ちゃん。
2歳の私がぽてぽてと歩いてくるのを見たとき、嬉しかったのだと教えてくれる。自分は孤独ではなくなったのだと感じたのだと。
「わたち、おにーたんと、ずっといっちょにいる」
「ありがとう、イデオン。そうできるといいんだけどね」
「いっちょに、いる!」
どんなことをしてでもお兄ちゃんが死なないようにしないといけない。
そのためには、お兄ちゃんが私から離れないようにしないといけない。ずっと見ておけば、お兄ちゃんを守ることもできるし、お兄ちゃんも私がいれば自分を粗末にするようなことはない。
熱が出そうなくらい一生懸命考えた結論はそれだった。
お兄ちゃんの傍を離れないこと。
どこかにお兄ちゃんが連れて行かれたら、必ず私の元に取り返すこと。
私がお兄ちゃんを守ろうと、心に決めた日だった。
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