29.お兄ちゃんとのお風呂
夕食が終わった後の寛ぎの時間。
子ども部屋でファンヌとヨアキムくんはお風呂に入れてもらっていて、私とお兄ちゃんは隣りの自分たちの部屋にいた。そろそろお風呂に入らなければいけないと、パジャマと下着を準備していると、お兄ちゃんが椅子に座ったまま私を呼び寄せた。
お膝の上に抱っこされるのは、くすぐったいような照れくささがあるけれど、二人きりだと誰も見ていないので喜んで座る。大きなお兄ちゃんの身体、薬草畑の世話で鍛えた腕、優しい顔立ちに穏やかな青い目。さっぱりと切った黒髪は前髪以外短めで、前髪は撫でつけてある。
美女のカミラ先生に雰囲気は似ているが、お兄ちゃんの方が大らかで優しい感じがする。
お兄ちゃんの顔に見惚れていると、お兄ちゃんは深刻そうな表情をしていた。何か言いだそうとしているが、なかなか言えないでいる様子だ。
「おにいちゃん、どうしたの? なやみごと?」
「イデオン、僕はイデオンが大好きだし、絶対に嫌味や悪気があって言っているんじゃないっていうのは、理解して欲しい」
「うん、おにいちゃんがわたしに、いやなことをいうわけないって、しってる。いうときには、ちゅういしてほしいからだってわかってる」
「それなら言うけど、ショックを受けないでね?」
前置きをして、お兄ちゃんが言ったことは、私のお風呂についてだった。
「イデオン、髪がちゃんと洗えていないんじゃないかな? 前はどうしてたの?」
「リーサさんにてつだってもらってたけど、いまは、ヨアキムくんとファンヌとふたりいるから、たいへんでしょ?」
「気付かなくてごめんね、僕がもっと早く、言って上げられればよかった」
「もしかして……」
薄っすらと気付いた私に、お兄ちゃんは真面目な顔で頷いた。
「臭いんだ、頭が」
ショック!
自分なりにできると思って一人で洗っていたけれど、5歳の洗髪はやはり下手だったようだ。
ショックを受けないで欲しいと言われても、受けてしまうのは仕方がない。大好きなお兄ちゃんに、臭い頭を私は一人でお風呂に入り始めてから晒していたことになる。
何度も抱っこしてもらった。そのたびにお兄ちゃんは私の頭が臭いのを気にしながら、優しくて言えなかったのだろうか。臭い頭に我慢しながら抱っこしてくれていたのだろうか。
情けなくて涙ぐんでしまった私に、お兄ちゃんは慌てて言葉を添えてくれた。
「夏場はこまめにシャワーを浴びていたし、秋もそうだったよね。だから、気にならなかったんだけど……」
「ふゆになったら、きになるようになっちゃったんだ……」
どうしよう、私は臭い頭でオースルンド領のお兄ちゃんのお祖父様とお祖母様に会ったことになる。恥ずかしさで、頭を洗濯板に擦り付けてゴリゴリ洗いたいくらいだった。
「イデオン、すごくショックだったみたいだね。5歳で上手に頭は洗えないよ」
「おにいちゃん……わたし、くさいまま、いろんなひとにあってた……」
「大丈夫、イデオンは誰にでも抱っこされる子じゃないから、気付かれてないよ。僕も、子ども部屋を出されてから、臭いとか汚いとか、いっぱい言われたんだ」
今はファンヌとヨアキムくんが使っている子ども部屋には、かつてお兄ちゃんが住んでいた。子どもはお漏らしをしたり、オムツを汚したりするから、いつでも洗えるように、子ども部屋にはシャワーと小さなバスタブが付いている。そこで、ファンヌとヨアキムくんはお風呂に入れてもらっているし、私もお兄ちゃんも前はシャワーを浴びていた。
ヨアキムくんが来るまでは、リーサさんに洗ってもらっていたのだが、ヨアキムくんが来て、お兄ちゃんと同じ部屋になってからは、大人用のバスルームを使うようになって、私は一人でお風呂に入るようになった。それから、ちゃんと頭が洗えていなかったようなのだ。
夏や秋は薬草畑で汗をかくので、朝夕とシャワーを浴びて、昼間も外で遊ぶとシャワーを浴びたり頻繁に洗っていたので気付かれなかったが、冬になって、寒いので髪を一日に何度も洗うことがなくなると、私がちゃんと頭を洗えていなかったことがはっきりと分かってしまった。
落ち込む私を抱き締めて、お兄ちゃんは額をくっ付ける。
臭くて汚いと嫌がっているのならば、絶対にしない仕草に、私は救われたような気分になる。
「イデオンが嫌じゃないなら、僕とお風呂に入る?」
子ども部屋をお兄ちゃんが出されたのは、アンネリ様が亡くなった5歳のとき。それから、書庫に閉じ込められて、お風呂には週に一、二回しか入れなくて、幼年学校では汚い、臭いと言われていた。
「イデオンには僕みたいな思いはさせたくないんだ」
「おにいちゃん、たいへんじゃない?」
「全然。髪を洗ってるときって、ちょっと怖くない? 後ろに誰かいたらとか思ったら」
「きゃー!」
お兄ちゃんが怖いことを言うので、私は悲鳴を上げてしまった。そういうことを考えないようにして一人でお風呂に入っていたが、やっぱり私もまだ5歳なので、怖いものは怖い。できるだけ暗くならないうちに入るのだが、冬場は日が落ちるのが早くて、バスルームが暗くなってしまうので、怖くて大急ぎでお風呂を切り上げるのもよくなかったらしい。
パジャマと下着を用意したお兄ちゃんと手を繋いで、バスルームまで歩いていく。
バスタブにお湯を溜めている間に、お兄ちゃんが腰にタオルを巻いて、私の頭と体を洗ってくれた。お兄ちゃんの指は丁寧に私の頭皮を擦り、気持ちよくて私はうっとりする。
きれいに流してから先にバスタブに入って、お兄ちゃんが洗い終わるのを待っていた。
お兄ちゃんもバスタブに入ると、お湯がざぁっと溢れて零れる。
「もうくさくない?」
「いい匂いだよ、イデオン」
「よかった」
頭を嗅いでもらって、私はほっと胸を撫で下ろす。お風呂で温まっている間に、お兄ちゃんは話をしてくれた。タイルのバスルームにお兄ちゃんの穏やかな声が反響する。
「僕は母が死んでから、毎日のように、僕も父と母のところに連れて行ってくださいって祈ってた」
「つらかったんだね」
「でも、イデオンが廊下を歩いて来たときに、思ったんだ。『この子はまだ小さい。可愛がれば、僕の味方になってくれるかもしれない』って。軽蔑する?」
「そんなことない」
そのときのお兄ちゃんは12歳。周囲に味方は誰もいなかった。幼年学校に通う以外は、部屋を出ることも許されなくて、寂しくてつらい思いをしていた。
そんな中で私と出会って、お兄ちゃんが自分の命がいらないと思うような状態から変われたのだったら、私はあの日、子ども部屋から抜け出した自分を褒めてやりたいくらいだ。
「最初は、打算だったけど、イデオンは僕に懐いてくれて、可愛くて、すぐに大好きになった。僕にはイデオンが特別に可愛かった」
私の服を縫ってくれたことも、食事を改善してくれたことも、一緒に薬草畑を作り上げたことも、打算ならばできないと分かっている。お兄ちゃんが本当に私を大好きだということは、言葉にもされているし、お風呂に入ってくれているし、はっきりと伝わっていた。
「おにいちゃんがいたから、わたしは、りょうしんのつみをあばけた。そのあとも、おにいちゃんといっしょにいることができた。さいしょはださんだったかもしれないけど、おにいちゃんがいてくれてよかったと、おもってるの」
「イデオン、大好きだよ」
抱き締められて、私は胸が熱くなって、涙が出そうだった。
その日から、私はお兄ちゃんと一緒にお風呂に入るようになった。髪の洗い方も教えてもらって、手の力が弱いので、仕上げはお兄ちゃんにしてもらう。
歯磨きの仕上げもお兄ちゃんにしてもらって、してもらうばかりで申し訳ない気もするが、お兄ちゃんは全然気にしていなかった。
「イデオンが僕にしてくれたことに比べたら、こんなのお安い御用だよ」
「わたしが、したこと?」
「僕の心を救ってくれた。僕の地位を取り戻してくれた。僕とイデオンとファンヌが一緒に楽しく暮らせるようにしてくれた」
両親がいた頃の肩を寄せ合っていた時期も、お兄ちゃんがいたから、嫌ではなかった。けれど、今はもっと伸び伸びとお兄ちゃんと子どもらしく楽しく生活することができる。カミラ先生は、私たちが子どもであることを尊重してくれる。
「幼年学校に行くようになったら、イデオンの世界も広がるだろうけど、僕がどれだけイデオンを可愛いと思ってて大好きか、覚えていて」
お兄ちゃんの言葉に、私は幼年学校に行っても何も変わらないだろうとは思っていたが、口には出さず、お兄ちゃんにしっかりと抱き付いた。
「わたしも、おにいちゃんのおかげで、しあわせ」
お風呂上がりの身体はぽかぽかと暖かくて、布団に入って目を閉じると、幸福に涙が出てきそうだった。
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