10.音楽堂の補修工事
劇団の演劇とか、楽団の演奏会とか、話では聞いたことがある。読んだ本の中で主人公が行く場面も見た気がする。それでも、王都だけの特別なもののように感じていて、私はそれがルンダール領でも開催できるなんて考えたこともなかった。
アントン先生の話を聞いて、私は音楽室から飛び出して執務室に駆け込んでいた。エディトちゃんとコンラードくんとファンヌとヨアキムくんもついて来ている。
「お兄ちゃん、ルンダール領に音楽堂があるって知ってた?」
息を整えながら一気に早口で言った私に、お兄ちゃんが書類から私たちの方に目を向けた。
「音楽堂? あるんですか?」
「音楽には詳しくないので知りませんでしたね」
「誰に聞いたの、イデオン」
アントン先生だと答えようとする前にアントン先生が開け放された扉の向こうからゆっくりと歩いてきていた。
「ルンダール領にも音楽堂があります。今は寂れて誰も寄り付かなくなっていますが、素晴らしく響く天井の高いホール、客席、昔は私もあの音楽堂で歌うことを夢見たものです」
昔はということは、アントン先生の夢が叶う前に私の両親が領地を治めるようになって、音楽堂は存在すらも忘れられてしまったのだろう。アントン先生のコンサートを聞きたい。エリアス先生もコンサートを開けるかもしれない。私たちのルンダール合唱団も歌を聞いてもらえる舞台に立てるかもしれない。
「王都や他の領地から劇団や楽団を呼べるようになるかもしれないって。それにルンダール領でも劇団や楽団を立ち上げられるかもしれない」
「イデオンくんは、劇団の演劇を観たことがあるのですか?」
「ないんです。ないから、憧れていて」
本でしか読んだことのない劇団の演劇や楽団の演奏。それが生で聞ける機会がルンダール領であるだなんて、考えたこともなかった。
「国王陛下の御前で歌う前に舞台に立って練習をした方が良いかと思われます。そのためにも、音楽堂を補修工事していただけませんか?」
「音楽堂がルンダール領にもあったなんて知りませんでした。イデオンはこれから神聖魔術の使い手として歌を修める身です。イデオンのコンサートも将来開けるかもしれない。喜んで補修工事をさせてもらいます」
私のコンサート!?
お兄ちゃんの口から出るまで、私は自分が歌い手となることに自覚がなかった。声楽を習っているし、神聖魔術は歌で発動させるタイプの私は、コンサートを開けるくらいの声楽家になれるのかもしれない。
「アントン先生、私は先生みたいな声楽家になれますか?」
「練習すれば大成すると思いますよ」
声楽家になりたい。
コンラードくんの出産を見て医者になりたいと考えたけれど、どうしても私は血生臭いことが苦手で、医者になる未来は閉ざされてしまった。そんな私に新しく目標ができた瞬間だった。
「楽団の演奏に合わせて歌える日も来るかもしれません」
名前も知らないたくさんの楽器を奏でるひとたちと一緒に私は歌えるようになるかもしれない。アントン先生の言葉は私に希望を持たせた。
私のためにも、ルンダール合唱団のためにも、音楽堂の補修工事は大急ぎで進められた。
雨漏りはしていたが元の作りが確りしていて、それほど傷んでいなかったので、夏休み中には補修工事は終わりそうだとお兄ちゃんに報告が上がって来た。
夏休み前の魔術学校の試験は大変だけれど、それを乗り越えたら音楽堂でファンヌとヨアキムくんとエディトちゃんとコンラードくんと、アントン先生の伴奏で歌える。
「招待状を書こう」
「わたし、デシレアおばうえとあーちゃんにかく!」
「こーちゃんといっしょに書きます。ミカルくんにも書こうね」
「はい、えーねぇね」
コンラードくんとエディトちゃんの姉弟はデシレア叔母上とアイノちゃんとミカルくんに書くようだった。
「わたくし、リーサさんとディックくんとカスパルさんに書きます!」
「僕はブレンダ叔母上とイーリスさんと、お祖父様とお祖母様……オースルンド領のお二人と、お母さんの両親に書きます」
ファンヌもヨアキムくんも招待状を書く相手を決めたようだった。
私はクラース叔父上やエリアス先生、エリアス先生と結婚しているデニースさんと娘さん、それにビョルンさんの妹さんと弟さんと、招待状を書きたい相手はたくさんいた。
「お客様がたくさんいる方が盛り上がりますし、良い練習になりますからね」
国王陛下の結婚式では国の重鎮のひとたちの前で歌わなくてはいけない。緊張しないように練習するとなると、やはり観客は多い方が良かった。
アントン先生の勧め通りにたくさんのひとに招待状を書いた。
「ダンくん、フレヤちゃん、イェオリくん来てくれる?」
魔術学校の試験の最終日にダンくんとフレヤちゃんとイェオリくんには直接招待状を渡した。
「デシレア叔母上夫婦でしょう、ベルマン家のみんな、リーサさんとカスパルさん一家、ブレンダさんとイーリスさん、ヨアキムくんのお祖父様とお祖母様、オースルンド領の領主のお二人、ビョルンさんの妹さんと弟さん、エリアス先生一家……他にご招待していいひとがいるかな?」
「カリータ様は?」
「あ、カリータさんも!」
「貴族の集まりになりそうだな」
「色んなひとに見てもらった方が練習になるからね」
招待状に漏れがないかを何度確認しても、次々と招待したいひとが増える。音楽堂の客席は広いようなので、大勢招待しても平気だと分かっているが、逆に客席が埋まっていないと寂しい気がするのだ。
「音楽堂がルンダール領にもあったのね」
「私も知らなかったんだけど、アントン先生が若い頃には劇団や楽団が公演してたみたいなんだよ」
「俺たちは、ケントとドロテーアの治世の時期に生まれてるから、知らなくても仕方がないよな」
まだアンネリ様が生きていてルンダール領を治めていた頃には、きっと文化活動も盛んだったのだろう。その時期にアントン先生も音楽堂に通っていたのかもしれない。
それが私の両親のせいで廃れてしまって、音楽堂の存在すらほとんどのひとたちが知らないようになってしまった。
「領地が豊かでないと、音楽や演劇にまでは余裕ができないものね」
フレヤちゃんの言う通りだった。
領地が豊かで領民が潤っていないと音楽や演劇などの文化は発展しない。
カミラ先生が領地を立て直して、お兄ちゃんがそれを引き継いで合計九年、ようやくルンダール領はそこまで辿り着いたのだ。
「私、将来声楽家になって、楽団と合同でコンサートを開きたいって思ったんだ」
「それはすごいな!」
「イデオンくん、素敵だと思うよ」
「応援するわ」
ダンくんとイェオリくんとフレヤちゃんは私の話を馬鹿にせずに聞いてくれた。私が泣き虫でも、怖がりでも、お兄ちゃんに甘えていても、ダンくんとフレヤちゃんは昔から馬鹿にしたことがない。
友人にも恵まれていると感じた瞬間だった。
試験が終わって夏休みに入る前に、私はエリアス先生の講義室を訪ねた。ピアノのある講義室でエリアス先生は楽譜を見ていた。
「イデオンくん、音楽堂の補修工事が進んでいるんだって?」
「ご存じだったんですね」
エリアス先生も音楽堂のことは知っていた。
話を聞けば、エリアス先生は昔あの音楽堂で歌ったことがあるのだという。
「アンネリ様のご両親が招いた楽団と共演したことがありますよ。もう二度とそんなことはできないと思っていたら、音楽堂が補修工事をされると聞いて、驚きました」
「どうして音楽堂のことを私に教えてくださらなかったんですか?」
「知っていると思っていました」
賢いと噂の私だから音楽堂のことなど知っているけれど、他にしなければいけないことがたくさんあって、その補修工事までは口出しできないのだとエリアス先生は思っていたのだ。
「アントン先生に聞くまで知りませんでした。私は自分が無知で恥ずかしいです」
「イデオンくんがまだ14歳で知らないことが多いというのを私もアントン様も忘れてしまうのですね。イデオンくんは無知などではありませんよ、年相応です」
年相応になど扱われたことがない気がするので、そう言われると戸惑ってしまう。
「エリアス先生もアントン先生も、音楽堂でコンサートを開いてください」
「そうできたらいいですね。音楽堂の補修工事で、できそうな気になっていますよ」
ルンダール領に演劇や音楽の文化が戻ってくる。
それはルンダール領の発展の証のようで誇らしくもあった。
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