6.イデオン14歳、思春期男子の悩み
初めはお兄ちゃんの唇が気になった。
――お付き合いって、どんなことをするんだろう
――手を繋いだり、一緒にお出かけをしたり、お互いの家に遊びに行ったり、旅行に行ったり?
――それ、今までと変わらないんだけど
――キスをしたり?
フレヤちゃんとお付き合いについて話していたときのこと。
キスという単語が出てから、私はお兄ちゃんの唇を物凄く気にするようになった。
あの唇が乾いていて意外と柔らかいことを、私は知っている。額に何度も落とされたキス。けれど唇同士でキスをしたことは当然ない。
次に気になったのはお兄ちゃんの身体。
バスルームでうっかりと見てしまったお兄ちゃんの上半身裸の姿に、これまで一緒にお風呂に入ったこともあったし、去年の夏休みには温泉にも行ったのに、これまでにない熱を感じてしまった。
お兄ちゃんの肌に触れたい。
抱き締められたことは何度もある。お風呂の中で裸で抱き締められたこともある。それでも意識するとしないとでは全く違うものだ。
キスをして、肌に触れて、その後どうするかなんて全く見当もつかないのだけれど、とにかくキスをしたいし、お兄ちゃんに触れたい。
こんな私は物凄くエッチで最低な汚い欲望に踊らされている子どもなのではないだろうか。
自分の欲を目の当たりにして私は大いに落ち込んだ。
もうお兄ちゃんと同じ部屋で生活しない方がいいのかもしれない。
私の身体は小さくて華奢で、お兄ちゃんに腕力で適うわけがないのだけれど、お兄ちゃんに望まないことをしてしまったらどうしよう。拒絶されるのも怖いし、お兄ちゃんを傷付けてしまうのも怖い。
執務室でも元々前よりも距離を空けておかれていた椅子を、私はずらしてデスクの端っこに教科書を乗せて勉強をするようになった。間違えてお兄ちゃんに手が触れないように、できるだけ距離を取る。
「イデオン……」
「オリヴェル、何かあったのですか?」
「分かりません……」
「思春期なのです。そういう時期なのかもしれませんよ」
心配してくれるカミラ先生と、お兄ちゃんを宥めるビョルンさんの声が筒抜けで聞こえてくる。これが思春期というものなのだろうか。
私は大いに悩んでいたが、このことはビョルンさんにも相談できないと口を塞いでいた。
おやつの時間もこれまでずっとお兄ちゃんの隣りの席に座っていたのに、ヨアキムくんとファンヌの隣りの一番端っこの椅子に座る。エディトちゃんもコンラードくんも、ヨアキムくんもファンヌも私の異変にすぐに気付いていた。
「兄様、オリヴェル兄様と喧嘩したのかしら?」
「ファンヌちゃん、口出ししない方がいいかもしれない。二人の問題だから」
ファンヌとヨアキムくんはそうやって私をそっとしておいてくれる。
「イデオンにぃに、オリヴェルにぃにとなかよしして?」
「けんかはよくないとおもいますの。どっちがおこってるんですの?」
コンラードくんとエディトちゃんに遠慮という言葉はない。
こういう日が何日も続くと、エディトちゃんもコンラードくんも遂に何も言わなくなった。
喧嘩をしたわけではない。
私が一方的にお兄ちゃんを避けて気まずくなっているだけなのだ。
お兄ちゃんと前のように仲良くしたいけれど、私はお兄ちゃんに抱いてはいけない欲望を抱いてしまった。そのことが申し訳なくて、苦しくて、誰にも言えないでいる私を、心配してくれたのはヨアキムくんだった。
「イデオン兄様、デシレア叔母上のお家に行きたいのです。お花を見せて欲しくて。一緒に来てくれませんか?」
ファンヌと一緒に行動するのが当然だと思っていたヨアキムくんが、一人で私を誘いに来た。コンラードくんやエディトちゃんが来たがらないように、ベルマン家に行っている週末のこと。ファンヌは「行ってらっしゃい」と私たちを送り出す気でいるようだった。
ヨアキムくんと二人で馬車に乗ってデシレア叔母上のお屋敷に行く。
何度か訪ねていたが、デシレア叔母上の領地は花に囲まれた美しい場所だった。
「アバランチェという薔薇が国王陛下の結婚式の晩餐会のテーブルで飾られると聞きました」
「苗木をお分けすると言っておりましたが、忙しくてお渡しできていませんでしたね。すぐに準備致しますわ」
「アバランチェの薔薇園を見せていただけませんか?」
お屋敷に着くとヨアキムくんがデシレア叔母上にお願いするので、私は当然ヨアキムくんに同行するものだと思っていた。けれどヨアキムくんは一人でデシレア叔母上と行って来ると言う。
「イデオン兄様はクラース叔父上とお茶でも飲んでいてください」
行ってしまったヨアキムくんとデシレア叔母上を見送って、応接室に通されるとクラース叔父上が花茶とカレー煎餅を用意して待っていてくれた。
「悩んでいることがあるんですか?」
あぁ、ヨアキムくんにはお見通しだったのだ。
小さい頃から一緒にいて賢かったヨアキムくん。でしゃばる方ではないが、状況をじっと見定めているところがあった。私が自分の悩みを誰にも言えないでいることに気付いて、ルンダール家と縁が深くないクラース叔父上にならば打ち明けられるかもしれないと時間と場所を用意してくれた。
優しいヨアキムくんに私は既に涙が出そうになっていた。
「誰にも言わないでください」
「言いませんよ」
約束をしてから私はクラース叔父上に話し始めた。
「私は、お兄ちゃんのことが好きなんです」
「5歳のときにオリヴェル様を助けてから、イデオンくんはオリヴェル様と幼年学校に登校して来ていたし、特別な相手でしたよね」
「そうなんです。いつからか分からないけど、はっきりと自覚したのは去年からです。私はお兄ちゃんのことが恋愛対象として、好きなんです」
クラース叔父上ならば信頼できる。
やっと口に出せた気持に涙が零れて花茶の水面に波紋を広げた。
「好きになっちゃいけないひとなのに」
「イデオンくん、好きになってはいけないひとなんて、いないんですよ」
苦しさを吐き出すと、クラース叔父上は穏やかに答える。幼年学校の五年生と六年生の担任だった頃から、クラース先生はいつも穏やかで安心して話ができた。
「私もデシレア様を好きになって、ボールク家のドロテーアの妹などと非難されました。それでも、好きという気持ちは変えられなかった。好きになってはいけない相手なんていないのです。心は誰もが自由なのです」
「でも、私はお兄ちゃんにいけない思いを抱いてしまいました!」
話すのは恥ずかしいし勇気が必要だった。
けれど、このことを話さなければ私はずっと悩んだままだ。
勇気を出して口を開く。唇がわなないて涙が出そうになった。
「お兄ちゃんの唇が気になったり、肌に、触りたいと思ったり……私は汚い欲望でお兄ちゃんを汚してしまいそうで……」
「好きなひとに触れたいと思うのは、いけないことではないですよ」
「いけないことではない?」
お兄ちゃんに触れたい、キスをしたいと思うのがいけないことではないとクラース叔父上は言う。
「好きなひとに触れたいと思うのは普通のことです。イデオンくんが大人になりかけている証拠です」
「触れたいと思ってもいいんですか?」
「相手が嫌がることをしなければ、思うことは普通だし、相手の許可があれば触れてもいいんですよ」
私がお兄ちゃんに触りたいと言ったら、お兄ちゃんは優しいので許可してくれるだろう。しかし、それはお兄ちゃんを汚すことにならないのか。
「嫌がる相手に無理やり触るのは絶対にいけません。でもお互いに望んでいる相手なら、触れてもいいんですよ。まずは、好きと告白するところからでしょうけど」
「好きって言ったら、お兄ちゃんとの関係が壊れてしまいそうで嫌なんです。私はこんな欲望を持ちたくないし、お兄ちゃんの可愛い弟でいたい」
泣き出してしまった私にハンカチを貸してくれてクラース叔父上が背中を撫でて宥めてくれる。
「欲望が、自分の気持ちを裏切っているようで嫌なんですね」
「そ、そうです……」
「好きな相手に触れたいという気持ちは男女問わず、誰にもあるものです。恋愛感情で相手を好きなら尚更です」
「誰でも……? クラース叔父上もそんな気持ちがありますか?」
「ありますよ。なければデシレア様との間に赤ちゃんはできていません。これは大事な感情なのです。まずは、自分の欲望を否定しないで見つめ直すところから始めましょう」
クラース叔父上にも同じような欲望があると聞いて私は安心して涙と洟がどっと出てしまった。
元は幼年学校の先生で、今は高等学校の先生をしているクラース叔父上。順序だてて言われて私も涙を拭いて息を整える。
「キスをしたい、肌に触れたいと思うのと、実行するのとは違いますからね。イデオンくんはすぐにでも実行したいのですか?」
「そ、そんな! 万が一……億が一にでも、お兄ちゃんと両想いになれたらで、無理やりそんなことをしようとは思いません」
「それじゃあ、頭で考えただけなんですね」
「そうです」
「頭で考えたら、誰かに迷惑をかけますか?」
私がお兄ちゃんにキスをしたい、肌に触れたいと思っていることは、口に出したり実行したりしなければ、誰かに知られることはない。
頭で考えている以上は、誰にも迷惑はかからない。
「かかりません」
目から鱗が落ちる思いだった。
私はお兄ちゃんを好きと思っていても心は自由だし、キスをしたいとか肌に触れたいと考えていても、考えているだけならば誰も傷付けることはない。
「実行に移したいと思ったときに、相手の気持ちを確かめる。それが一番大事です。それまでは心の中でどれだけどんなことを考えていても、誰にも迷惑はかけないのですよ」
私が一人で悩んでいたことは、お兄ちゃんを汚したりしないし、害したりもしない。実行に移さない限りは誰にも知られることはない。
「いつか、きちんと告白できるといいですね。それまでは、何度でも私のところに相談に来て良いですよ。可愛い甥に頼られるのは嬉しいです」
「クラース叔父上、ありがとうございます」
悩んでいたことがクラース叔父上のおかげで霧が晴れたようにすっきりとした。戻って来たヨアキムくんは私の顔を見てにっこりと笑っただけで、何も聞かずに手を繋いで馬車に乗ってルンダール家に一緒に帰ってくれた。
「ヨアキムくん、ありがとう」
「アバランチェの苗木をいただきました。植えたらお礼に行きましょうね」
何も聞かないでいてくれること、クラース叔父上のところに連れて行ってくれたこと。
私はヨアキムくんに何回お礼を言っても足りない気分だった。
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