3.私の悩みとベルマン家からの朗報
家に帰って着替えてお兄ちゃんの隣りの椅子に座ってから、私はずっとお兄ちゃんの横顔をちらちら盗み見ていた。表情が柔らかいのでいつもは気付かないのだがお兄ちゃんは結構鋭角的な顔立ちをしている。真剣に書類を見ている表情は端正でありながら精悍でもあって、私は胸が騒がしくなってきていた。
お兄ちゃんの淡い色の唇。
何度も眠る前に額にキスをされた。小さな頃から自然にしていたのでそれをヨアキムくんやファンヌにしていなかったことにかなり大きくなるまで気付かなかったくらいなのだ。
お兄ちゃんの手が優しく私の額にかかるふわふわの薄茶色の猫毛の前髪を掻き上げて、露わになった額に唇が寄せられる。
考えただけで熱が出てきそうだった。
お兄ちゃんにとって私はこんなにも特別だった。
ずっとお兄ちゃんの方ばかり見ていて私は広げた宿題が全く進んでいないことになど気付いていない。
「イデオン、何か悩み事があるのかな?」
おやつの時間に隣りに座ったお兄ちゃんに問いかけられて、私は「ふぇ?」と妙な声を出してしまった。驚いている私を他所にお兄ちゃんは真剣だ。
「宿題も全然進んでないみたいだったし、僕に話したいことがあるんじゃないかと思って」
「は、話したいこと?」
「恩赦のこととか、セシーリア殿下の婚約のこととか、イデオン、一人で悩んでない?」
忘れていたわけではないがそういう問題があったことを私は頭から外していた。恩赦のことも事件が起きてからでしか結局対応はできないのだし、セシーリア殿下もどれだけ説得しても本人が納得しないと婚約解消に頷いてはくれないだろう。婚約自体、法案の改正に伴ってなくなったも同然なのをセシーリア殿下がなぜこだわるのか分からないが、まだ私は結婚できる年になっていないし、気にすることはないと思っていた。
「その辺は大丈夫」
「本当? 一人で悩まないで、僕に相談してよね。僕はイデオンの兄で保護者なんだからね」
誕生日で23歳になっているお兄ちゃんはルンダール家の唯一の大人だった。私にとっては年齢が何歳であろうとお兄ちゃんはお兄ちゃんなのだが、成人して結婚もしていないお兄ちゃんには色んな悩みがあるのではないのだろうか。
「お兄ちゃんこそ、困ってることはない?」
「僕が困っていること?」
「お兄ちゃんの悩みを私が聞いてあげる!」
お兄ちゃんは私に聞こえるくらいの大きさの声でしか話していなかったし、ファンヌもヨアキムくんもエディトちゃんもコンラードくんもおやつに夢中だった。つい私が大きな声を出してしまったがために私に注目が集まる。
「わたくし、知ってましてよ、兄様の悩み」
「え? ファンヌ、私の悩みを知ってるの?」
私も知らない私の悩みをファンヌが知っている。驚いてファンヌを見ていると、お兄ちゃんもファンヌに注目していた。クッキーのバターサンドの最後の一口を口に入れて咀嚼して飲み込んでから、ファンヌはおもむろに口を開いた。
「攻撃の魔術と防御の魔術が使えなくて、わたくしとヨアキムくんが使えてしまったことに悩んでいるのでしょう?」
攻撃の魔術と防御の魔術をファンヌとヨアキムくんの目の前で練習していた私の姿は、そんな風に見えていたらしい。
お兄ちゃんのことが好きで、キスに興味があってお兄ちゃんの横顔、特に唇をじっと見ていた。そんなこと言えるはずがない。
誤魔化すために私はファンヌの勘違いに乗ることにした。
「そうなんだよね。攻撃の魔術はそよ風くらいしか吹かせられないし、防御の魔術は手の平くらいの盾しか編めないし、私には才能がないって先生も困ってた」
「イデオンは戦うタイプの魔術師じゃないんだよ」
「まな板を見せたら、術式を理解できるようになったら試験は合格させてくれるって言われたんだけど、まな板に負けた気分だったんだよ」
「そうだったんだ。イデオンも勉強で躓くことがあるんだね」
私の嘘ではないが深刻でもない悩みをお兄ちゃんは真面目に聞いてくれた。
今度は私がお兄ちゃんに聞く方だ。
「お兄ちゃんは悩んでいることはないの?」
「僕は……クッキーのバターサンドをお代わりしようか悩んでいる」
「なやましいわね! わたくしもなやんじゃう!」
「わたしもなやむ!」
エディトちゃんとコンラードくんが同意しておやつのお皿に手を伸ばす。
「オリヴェル兄様もエディトちゃんもコンラードくんも、まだ残っているから気にせず食べたら良いと思います」
「わたくしもいただくわ」
ヨアキムくんの言葉にファンヌも手を伸ばした。
次々とお皿の上のクッキーのバターサンドが手に取られていく。
お兄ちゃんは私が答えを誤魔化したことに気付いたのではないだろうか。それで自分も答えを誤魔化すことにしたのではないだろうか。
懐疑的になっている私もクッキーのバターサンドの最後の一つを手に取った。食べているとカミラ先生とビョルンさんがヨアキムくんに話していた。
「ヨアキムくんのアシェル家の元両親が牢獄から出てくるかもしれません」
「なんでですか!?」
「国王陛下の結婚式で恩赦が出る可能性があるのです」
「……出て来ても、僕の父上と母上はカミラ先生とビョルンさんだけです」
関係ないというヨアキムくんにカミラ先生とビョルンさんは恩赦の説明をしていた。エディトちゃんとコンラードくんがぎゅっとヨアキムくんに近寄ってくっ付く。
「よーにぃに、わたしのにぃに」
「ヨアキム兄様は、わたくしの兄上よ」
エディトちゃんにとってもコンラードくんにとっても、一緒に育ったヨアキムくんの家名がかつてはアシェルで、血の繋がりのない養子だということを理解してもいないだろう。当然のようにヨアキムくんはエディトちゃんとコンラードくんの兄で三人は兄弟だった。
「僕はコンラードくんとエディトちゃんのお兄ちゃん。それ以外の何でもないよ」
「わたくしの婚約者よ!」
「そうだった。ファンヌちゃんの婚約者でもありました」
訂正するファンヌにヨアキムくんは照れ臭そうに笑った。
今年の冬でヨアキムくんは12歳になる。約十年間もファンヌと婚約者という位置を変えずに、気持ちも変わっていないのだから二人は将来結婚するのだろうと私は思っていた。そのときには私もカミラ先生もビョルンさんも感動で泣いてしまいそうな気しかしないのだが。
「イデオン、通信が入ってるみたいだよ」
首から下げた魔術具が光っているのに気付いたお兄ちゃんに指摘されて、私は姿勢を正した。最近セシーリア殿下と通信することが多いので、セシーリア殿下かと思ったのだ。
手の平の上に置いたプレート型の魔術具から映し出されたのは、ミカルくんとダンくんだった。
「どうしたの、ダンくん、ミカルくん?」
『ヨアキムくんもそこにいるか?』
「いるよ。ヨアキムくん、ダンくんとミカルくんから通信だよ」
立ち上がってヨアキムくんの方に行くと、ヨアキムくんも立体映像が見える位置に移動してくる。興奮した様子の二人に何かあったのかと私とヨアキムくんは顔を見合わせた。
『ミカンちゃんのお腹が大きかったからお医者さんに診てもらったんだ』
『ミカンちゃん、赤ちゃんがお腹にいるんだって!』
去年の夏休みにオースルンド領に行くときにリンゴちゃんをベルマン家に預けてから、リンゴちゃんは自由にベルマン家とルンダール家を行き来していた。
「最近はずっとベルマン家にいると思ったら、そうだったんですね」
『来月には生まれるって話なんだよ』
『ヨアキムくん、イデオンくん、ミカンちゃんとリンゴちゃんに会いに来て』
リンゴちゃんはミカンちゃんが大きくなるのを待っていたようだし、ミカンちゃんもリンゴちゃんが渡すキャベツなどを受け取っていた。体もリンゴちゃんほどではないがミカンちゃんは大きくなっていたので、二匹の間に赤ちゃんが産まれてもおかしくはない状態だった。
「ウサギの赤ちゃんって、どうやってお世話すればいいんでしょう?」
「お世話はミカンちゃんとリンゴちゃんがするんじゃないかな」
「何匹も生まれたら、ルンダール家とベルマン家で飼えるでしょうか」
期待に目を輝かせるヨアキムくんにコンラードくんがとてとてと近寄って行く。
「わたし、ウサギちゃん、ほしい」
「コンラードくん、ウサギの赤ちゃん欲しいの?」
「ははうえ、ちちうえ、いいでしょう?」
お願いされてカミラ先生とビョルンさんは相談していた。
「リンゴちゃんのように大きく育てて長生きさせるには、ルンダール家のマンドラゴラの葉っぱが必要ですね」
「大きくする必要はないのですが、長生きさせるにはその方法しかないのだったら」
二人の言葉を聞いてコンラードくんが私に縋り付いた。
「イデオンにぃに、はっぱ、ください!」
「もちろんいいけど、何匹生まれるかは分からないからね」
「はい!」
「ミカンちゃんも自分の赤ちゃんを育てたいだろうし、リンゴちゃんも傍に置きたいだろうから、それを考えて、それ以上の数が生まれたらだからね」
「わかりました。わたし、なきません」
もらえなくても泣かないという約束をしたコンラードくんに、密やかにエディトちゃんがガッツポーズをしていたのが見えた。エディトちゃんも欲しかったのだろうが、コンラードくんが一匹もらえばオースルンドで一緒にウサギを飼うことができる。
ヨアキムくんが2歳のときに動物園から貰って来たウサギのリンゴちゃんがお父さんになる。年月を感じずにはいられなかった。
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