32.ルンダール領の新しい当主
研究課程の卒業が決まってからお兄ちゃんはとても忙しくなった。もう研究課程にはほとんど通わなくて良くなったのだが、朝は薬草畑の世話をした後に私を送って行ってくれる。
「忙しいんだから、クリスティーネさんと行くよ?」
「正式に当主を継いだら送っていけなくなるから、最後まで送らせて」
「お兄ちゃん……大好き!」
卒業するまでの期間はお兄ちゃんは研究課程に行く必要がなくても私を魔術学校まで送って行ってくれるつもりだった。校門から中に入ってハグをしてお兄ちゃんと別れる。
魔術学校に私が行っている間、お兄ちゃんはルンダール家のお屋敷に戻ってカミラ先生とビョルンさんから仕事の引き継ぎをしてもらって、当主としての執務を覚えていた。
お昼ご飯の時間になると中庭で待ち合わせをして、お兄ちゃんはわざわざ移転の魔術で飛んできて、お弁当を一緒に食べる。
「僕が当主になれるのはイデオンのおかげだから、イデオンと過ごせる時間は大事にしたいんだ」
春が近付いて暖かくなってきたので中庭のベンチに二人で並んで座ってお弁当を食べた。一緒にお弁当を食べる日もあと少しと考えるだけで涙が出てきそうな私は、鼻の奥がつんとして食べながら洟が垂れそうになって窒息しそうになるのもしばしばだった。
午後の授業が終わって通信具で連絡するとお兄ちゃんは迎えに来てくれた。本当は申し訳ないからクリスティーネさんに頼むか馬車を呼べばいいのだが、これも私と過ごす大事な時間だとお兄ちゃんは譲らなかった。
繋いだ手が大きくて暖かい。
これが来年度にはなくなるのだと思うと切なくて胸が痛くなる。
存分に甘やかされて私は三学期を過ごした。
お兄ちゃんの研究課程の卒業式の日、私はデシレア叔母上にお願いしてブーケを作ってもらった。美しく咲く青いネモフィラの小ぶりなブーケ。それを持ってお兄ちゃんの研究課程の卒業式に行くことにしたのだが。
「こー、いっくぅー!」
「わたくしもいきます」
「オリヴェル兄様をお祝いします」
「わたくしも行くわ」
当然のことながら、コンラードくんを筆頭にエディトちゃんもヨアキムくんもファンヌも行きたがらないわけがない。カミラ先生とビョルンさんも参加して、全員でお兄ちゃんの卒業式に出席することになった。
研究課程を卒業するのは若くても22歳。充分大人といえる年齢だ。その年齢の生徒の卒業式に保護者が参加するのは珍しいというのは、入学式にもほとんど保護者が来ていなかったことでも分かっていた。それなのにお兄ちゃんにはカミラ先生とビョルンさんという保護者、私とファンヌという弟妹、ヨアキムくんとエディトちゃんとコンラードくんという従弟妹まで来るのだ。
これもお兄ちゃんが愛されているのだから仕方がない。
卒業証書を受け取るお兄ちゃんはみんなの視線を受けて照れ臭そうだった。
卒業式が終わって春の花の咲き誇る庭で全員で記念の立体映像を近くを通っていた教授に撮ってもらった。
「オリヴェル様は非常に優秀な生徒でした。これからルンダール領を立派に統治してくださるでしょう」
「お世話になりました」
立体映像を撮ってくれた教授が魔術具を返しながら言うのに、お兄ちゃんは深々と頭を下げていた。
「お兄ちゃん、卒業おめでとうございます」
「ありがとう、イデオン。とても綺麗な花だね」
「ネモフィラだよ。お兄ちゃんのお目目と同じ色……」
ブーケを手渡した瞬間、ぼろりと私の目から涙が零れた。泣く気はなかったのに涙は止まらずぼろぼろと流れ続ける。
「イデオン?」
「う、嬉しいんだ……お兄ちゃんがすごく格好良くて、立派で……」
小さな私と出会ったときには汚れた服を着て、お風呂も碌に入れていなくて、書庫に閉じ込められていたお兄ちゃん。服が小さくなっても新しいものがもらえずに破れてしまったこともあった。私たちの世話をする代わりに庭に出られるようになって、子ども部屋のシャワーも使えるようになって、厨房にも食事のことを言いに行けるようになったが、お兄ちゃんの待遇が良くなったわけではない。私が4歳の冬には閉じ込められて、5歳になったら下町に捨てられてお兄ちゃんは死んだのだと発表された。
カミラ先生がオースルンド領から救いに来てくれなければお兄ちゃんは今頃生きていなかったかもしれない。
壮絶な時期を経てお兄ちゃんは遂にルンダール領の当主様になろうとしている。
嬉しいはずなのに、お兄ちゃんと過ごせる魔術学校の日々が終わって、お兄ちゃんが遠くなってしまうようで、胸が痛い。喜びと寂しさが複雑に入り混じって私は号泣していた。
止まらない涙をお兄ちゃんがハンカチで拭いてくれて、抱き締めてくれる。
「イデオンにとっても大変な七年間だったもんね」
「お、にい、ちゃん……」
「イデオンのおかげで、僕はこんなに幸せに研究課程を卒業できる。ありがとう。何度言っても足りないよ。感謝してる」
「おにい、ちゃん……」
もうすぐ13歳の誕生日が来るのに抱き上げられて慰められる私は情けなかっただろうが、ファンヌもヨアキムくんもエディトちゃんもコンラードくんも私を馬鹿にしたりしなかった。カミラ先生とビョルンさんも涙ぐんでハンカチで目元を押さえている。
「これからも、ずっと一緒だよ」
「うん、お兄ちゃん」
ずずっと洟を啜って私はお兄ちゃんの胸に顔を埋めて泣き止むまでじっとしていた。
お兄ちゃんの卒業式が終わると、ディックくんの1歳のお誕生日が来る。それから私のお誕生日が来て、ファンヌのお誕生日が来る。
カミラ先生一家はオースルンド領に帰るための準備を始めていた。
「ファンヌちゃんのお誕生日まではルンダール領にいましょうね」
「オリヴェル様、部屋はどうされますか?」
当主の部屋としてカミラ先生とビョルンさんが使っていた部屋が空くが、お兄ちゃんはその部屋に移ることを望まなかった。
「執務室は使うつもりですが、寝起きする部屋はイデオンと一緒のままでいいです」
「もう子どもではないのですよ。当主になるというのに」
「イデオンと一緒がいいんです」
ファンヌとヨアキムくんの部屋の間に窓をつけたように、お兄ちゃんも私と離れたくないと思ってくれていることが嬉しかった。生活時間は変わってしまうかもしれないが、朝は同じ部屋で起きることができる。
これから変わっていくお兄ちゃんの生活を私が少しでも支えられたら良いと思わずにはいられなかった。
慌ただしく日々は過ぎて、魔術学校も幼年学校も保育所も春休みになって、私の誕生日が近付いてくる。
ディックくんの誕生日にはお兄ちゃんと私で誕生日ケーキを作った。
私のお誕生日にはお兄ちゃんとファンヌとヨアキムくんがケーキを作ってくれた。
日にちが近いのに別々に作ったので、数日の間にケーキを二回も食べられてエディトちゃんもコンラードくんもディックくんも喜んでいた。
新年度に入ってすぐのファンヌのお誕生日の日に、音楽室にカミラ先生とビョルンさんとブレンダさんとカスパルさんとリーサさんとディックくんをお招きした。
お兄ちゃんとヨアキムくんとファンヌで並んで、ついでにエディトちゃんとコンラードくんも参加して、私がピアノで伴奏を弾いて、アンネリ様の思い出の歌を歌う。
「この歌は母が僕に歌ってくれた歌です。それをリーサさんが覚えていてくれて、イデオンに教えてくれました」
「カミラ先生、ビョルンさん、カスパルさん、ブレンダさん、今までありがとうございました」
「エディト、コンラード、別々に暮らすのは寂しいけれど、これからも遊びに来てね」
「リーサさん、たくさんわたくしたちを可愛がってくれてありがとう」
「父上、母上、みんな……僕はルンダール領に残りますが、ずっとずっと大好きです」
歌っている間にお兄ちゃんも涙ぐんでいるし、ファンヌとヨアキムくんはぽろぽろと涙を零していた。カミラ先生もビョルンさんもリーサさんも泣いている。
「永遠のお別れじゃないですからね。明日からも私もビョルンさんも来ますから」
「コンラードもエディトも来ます。これからもよろしくお願いします」
カミラ先生とビョルンさんが言い終わると、リーサさんがディックくんをカスパルさんに預けて、ヨアキムくんとファンヌと私を順番に抱き締めた。
「皆様を育てられたことがわたくしの誇りです。本当にお世話になりました」
「オースルンド領でも幸せになってください」
泣いてしまってもう喋れないファンヌとヨアキムくんの代わりに、私が鼻をかんでお礼を言った。
新しい年度が始まる。
お兄ちゃんがルンダール領を治める年が。
これで九章は終わりです。
イデオンたちの成長と恋はいかがでしたでしょうか。
引き続き番外編を挟んで、十章もよろしくお願いします。
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