22.イェオリくんの涙
お兄ちゃんは歌を歌わない。
私は神聖魔術の授業で魔術の一環として歌を歌うし、魔術学校に入る前からアントン先生に個人的にレッスンを受けていた。アントン先生のレッスンに混じっていたファンヌやヨアキムくんやエディトちゃんも歌は歌う。コンラードくんも真似をして歌うことがある。
けれど、頑なにお兄ちゃんは歌を歌わないのだ。
「お兄ちゃんは歌を歌わないけど、どうして?」
「習ったことがないからかな」
魔術学校で勉強するときにお兄ちゃんはできる限り実用的な授業を選択していた。美術や音楽はその範疇ではなく、将来当主になれるか分からないけれど、なったときに困らない授業ばかりを選んできたのだという。
結果としてお兄ちゃんの生活に歌や美術はなかった。
「わたくし、魔術学校に入ったら美術を勉強したいの」
お絵描き大好きなファンヌは幼年学校でも絵で褒められたらしい。誇らしげに言っていた。
「僕はイデオン兄様みたいに歌えるようになりたいです」
ヨアキムくんは私がアントン先生の個人レッスンを卒業した後に、カミラ先生にお願いしてアントン先生の声楽のレッスンを受けるようになった。
魔術学校に入学した12歳の年にお兄ちゃんと私は出会ったのだが、お兄ちゃんにはそんなことをしている余裕はなかった。薬草学や医学や政治学などを選択してしまえば、音楽や美術の入る隙間はない。
音楽や美術は貴族の嗜む余裕あるものだけの授業のようになってしまっているのが魔術学校の現実だった。
「私が毎晩、お兄ちゃんに歌ってあげる」
「イデオンが歌ってくれるの? 嬉しいな。リクエストは聞いてくれる?」
「いいよ、何が良い?」
夜に二人きりの部屋で隣り合ったベッドに横になってお兄ちゃんに言えば、お兄ちゃんは少し考えた後でリクエストをした。
「母上がリーサさんに教えた歌を」
「分かった、歌うね」
お兄ちゃんが歌えなくても私が歌えばいい。幸い私の歌声はフレヤちゃんに褒められたときのまま、ずっと変わらないようだったし、エリアス先生もアントン先生も私の歌声を評価してくれていた。
歌い終わるとお兄ちゃんは目を閉じて静かにしていた。眠っているのかと思って私も目を閉じる。
それから毎晩お兄ちゃんに歌うようになったのだが、何度も同じ歌を歌っているとお兄ちゃんもその歌を覚えて来る。そのうちにお兄ちゃんもハミングするようになって、お兄ちゃんと私は一緒にその歌を歌うようになった。
茶畑の世話のときに鼻歌で歌っているとお兄ちゃんも無意識に歌っている。それにファンヌとヨアキムくんとエディトちゃんも加わって、コンラードくんも分からないながらに歌ってくれる。
ルンダール家の大合唱に農家の若夫婦も目を細めて聞いてくれていた。
少しずつ秋も深まりかけて来た頃に、私は移動教室で魔術学校の廊下を歩いているときにイェオリくんの姿を見かけた。取り巻きがいるタイプではないイェオリくんは一人で廊下の端で小さくなっていた。目元が濡れている気がして放っておけなくて傍に行く。
「どうしたの?」
「……君には僕の気持ちは分からないよ」
悲劇のヒーローにでもなった気分なのだろうが、ハンカチを手渡しながら私はあっさりと答えた。
「誰かに自分の気持ちを分かってもらおうなんて言うのが傲慢なんだよ。誰も他人の気持ちは分からない。だから言葉があるんでしょ」
「ひ、酷いな! 泣いてる僕に向かって!」
「ほら、話してみたら?」
促すと涙を拭いたイェオリくんはぼそぼそと話し始めた。
「両親が僕のことを理解してくれない……僕は女のひとは好きになれないって言っているのに、絶対に跡継ぎを作らないといけないって結婚を迫るんだ」
「おにいちゃ……私の兄上が好きなの?」
「……分からないけど、憧れてはいるよ。オリヴェル様は同性同士の法案に賛成だし、僕の気持ちが分かってくれるかもしれないと思ったんだよ」
別にイェオリくんは特別にお兄ちゃんのことが好きなわけではないようだった。同性しか愛せないのに異性と婚約させられそうになって、お兄ちゃんが同性同士の法案に賛成派だから仲間かもしれないと近寄ったようだ。
貴族なのに取り巻きもおらず、友達らしい人物も周りにおらず、一人きりで泣いていたのもイェオリくんが自分の性的なことに関して孤独だからなのかもしれない。
「イェオリくん、署名、しない?」
「僕が?」
「うん、貴族ならだれでも署名を募ってるから、イェオリくんの名前を結婚の法案の改正を訴える書面に載せるんだよ」
そうすれば両親もイェオリくんの主張を無視することができなくなる。それと同時に貴族の票が一票増えて、イェオリくんが自由な結婚をできる可能性が広がる。
説明をするとイェオリくんはこくりと頷いた。
「ありがとう、イデオンくん……君はいいひとだね」
「今度、ルンダール家のお屋敷に来たら良いよ。私がお招きする」
「うん、ありがとう」
署名をするためにイェオリくんはルンダール家のお屋敷に来てくれればいい。そう思ってお招きしたことが大ごとになるなんて私は全く考えていなかった。
数日後にイェオリくんは馬車でルンダール家のお屋敷にやってきた。
カミラ先生に挨拶をする。
「イェオリ・ハーポヤです。両親は理解してくれませんが、僕は新しい結婚の法案ができれば良いと思うので、署名に来ました」
「来てくださってありがとうございます。イデオンくんの同級生なのですね」
「そうです。イデオンくんが誘ってくれました」
白い頬を赤く染めて言うイェオリくんは緊張しているのだろうか。カミラ先生が用意した署名用紙にさらさらとサインをしていた。
「あの子、前に僕に声をかけて来た子だよね?」
「両親が自分のことを理解してくれないって悩んでたみたいだから、署名に誘ってみたんだ」
「イデオンが、直に?」
じっとお兄ちゃんに見つめられて私は首を傾げる。署名することによってイェオリくんの気持ちは証明できるし、両親にも伝えられるのではないかと思ったのだがいけなかっただろうか。
イェオリくんが署名したことはすぐにハーポヤ家に伝わって、馬車でご両親が迎えに来た。
「どうして同性と結婚したがるのですか!」
「あなたはハーポヤ家の跡継ぎなのですよ! 後継者を残す義務があるのです!」
「嫌です! 僕は僕の愛したひとと結婚したい!」
「愛したなんて、恋愛もしたことがないくせに!」
大喧嘩になりそうな気配にカミラ先生が割って入る。
「イェオリくんはお人形でもあなたたちの所有物でもありません。一人の人格を持った人間です。同性だから、異性だからというのではなく、イェオリくんの幸せを考えてあげてはくれませんか?」
「カミラ様はお子様も小さくてまだ恋愛なんて言わないから分からないのです」
「イェオリは一時期の気の迷いで男性に憧れているだけです。この時期が過ぎれば正常に戻ります」
正常?
イェオリくんのご両親の言葉に引っかかりを覚えたのは私だけではなかったようだった。
「どうして同性に恋をするのを異常と思うのですか? ひとがひとを愛することに同性も異性も関係ありません。気の迷いではなく、生まれたときから同性を愛する性質のものもいます」
「イェオリくんを異常だなんて、お母様とお父様が言わないでください……イェオリくんは魔術学校の廊下で泣いていたんですよ」
お兄ちゃんと私の言葉にイェオリくんの両親の表情が暗くなる。
ぼそぼそと告げられたのは衝撃の事実だった。
「イェオリはイデオン様を好きと言っております。セシーリア殿下と婚約なさっているから諦めなさいと言っているのに」
「父上、それは言わないで!」
「言わずにいられますか! 身分違いで実ることのない恋など、諦めさせた方が良いに決まっています!」
イェオリくんのご両親の言葉に一瞬喉が詰まって声が出なくなったが、すぐに私は気を取り直して口を開いた。
「イェオリくんのことは好きとは思っていないので結婚はできません。でも、今は私のことが好きでも、将来は違うひとに恋をするかもしれない。そのときの可能性を今から摘んでしまうことはないと思うのです!」
私を好きと言われても気持ちは受け取れないが、イェオリくんには幸せになって欲しい。誰もいない魔術学校の廊下で一人で泣いているなんてことがないようにしてほしかった。
きっと友達がいなかったお兄ちゃんも魔術学校で孤独だったに違いないから。
「……イェオリは、本当に幸せになれるのでしょうか」
「未来は誰にも分かりません」
「理解することはできませんが、親としてイェオリの幸せは願いたい」
最終的にイェオリくんのご両親も署名をしてハーポヤ家に帰って行った。
イェオリくんの恋の相手に私がなるだなんて思わなかった。
驚きが胸に渦巻いて私は呆然と立ち尽くしていた。
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