17.コンラードくんとエディトちゃんの事情
お屋敷に帰ってコンラードくんは真っすぐにカミラ先生とビョルンさんのところに走って行って飛び付いた。
「こー、でちれあおばーえ、すち!」
「コンラードはデシレアさんが大好きですよね。優しくしていただいていますものね」
「こー、でちれあおばーえ、けこん、でちない」
「デシレアさんの結婚がどうかしたのかな?」
「こー、でちれあおばーえ、けこん、ちたかった」
ぽろぽろとコンラードくんのビョルンさんに似た緑の目から涙が零れる。デシレア叔母上への失恋を悟った後で号泣して暴れ回っていたコンラードくんは一度子ども部屋に戻されて落ち着くまで一人でクリスティーネさんに静かに見守られていた。
泣き止んで戻って来たコンラードくんはオムツが濡れたのだろう着替えをしていて、顔も泣き腫らしたままだったが、洟を啜ってデシレア叔母上に言った。
「けこん、おめでとごじゃます」
「コンラード様、ありがとうございます」
もうすぐ3歳なりに必死に泣いて暴れて考えて、きちんと納得ができたのだろう。納得はできても悲しかったことには変わりはない。
まだ2歳のコンラードくんが悲しみを訴えてお父さんとお母さんであるビョルンさんとカミラ先生に慰めを求めるのは普通のことだった。
こういう光景をエディトちゃんやコンラードくんで見せつけられるけれど、私は両親に甘えて慰めを求めた経験などない。お兄ちゃんには甘えることはあったが、リーサさんにもカミラ先生にもビョルンさんにもどこか遠慮があった。お兄ちゃんだけは私の特別だったのだ。
「お兄ちゃん……」
「なぁに、イデオン?」
見上げるとお兄ちゃんが優しく微笑んでいる。
私ですらお兄ちゃんにしか甘えられなかったのだ。お兄ちゃんはもっと甘えるひとがいなかっただろう。私が大人になって頼りになるようになれば、お兄ちゃんは私に甘えられるようになるのか。それは難しい問題だった。
お兄ちゃんはもう大人なのだから。
余程困った顔をしていたのだろう、私にお兄ちゃんが部屋で冷たい緑茶を持ってきてくれた。蜜柑の香りのする緑茶は爽やかで飲むと冷たく喉を潤して胃まで冷えるようだった。
二人きりの部屋で椅子に座ってお兄ちゃんが黙ってお茶を飲んでいる。机が隣り合っているので椅子をずらせば膝がくっ付くくらいまで私たちは密着して並んで座ることができた。
「コンラードが叔母上とビョルンさんに甘えてるのを見て、寂しかったの?」
「寂しい? 寂しいのかな?」
「うーん、どう言えばいいのかな。羨ましかった?」
「そうじゃないけど……」
カミラ先生とビョルンさんとコンラードくんの関係は見ていて微笑ましいし、抱き締められるコンラードくんやエディトちゃんを見るたびに私は何とも言えない気分になる。あれは私にはなかった過去で、お兄ちゃんにもなかったものだった。
「お兄ちゃんは、コンラードくんやエディトちゃんを見て、思うことがない?」
「僕? 従弟妹が可愛い、くらいかな」
「それだけ? お兄ちゃんももっと甘えたかったとか……」
「あぁ、そういうことか。僕はイデオンがたくさん甘えてくれたからなぁ」
「私が甘えたのが、お兄ちゃんの甘えられなかったのに、関係があるの?」
小さい頃から私は抱っこはほとんどお兄ちゃんだったし、お願いをするのも、甘えるのもお兄ちゃんが主だった。相談するときには一番にお兄ちゃんのところに行くのが普通で、カミラ先生すら後回しだった。
お兄ちゃんに関する相談についてはビョルンさんを頼ることもあったけれど、お兄ちゃんを頼る回数に比べれば物凄く少ないと言える。
「僕がして欲しかったことをイデオンにすることによって、僕も救われてたんだ」
「本当に?」
「うん。何より、イデオンが満たされてる顔を見てると、僕も幸せだった」
もっともっとイデオンの可愛い顔を見せて。
まるで口説き文句のようなセリフに私は膝をもじもじと擦り合わせる。お兄ちゃんは自分の笑顔と低くて穏やかな声で発せられる言葉がどれだけの破壊力を持っているか知らないのだ。
絶対にお兄ちゃんはモテると確信しているのに、不思議とお兄ちゃんの周囲に女性の影はない。
「お、にいちゃん、は……」
口に出しそうになって喉に詰まった言葉を、お兄ちゃんが背中を摩って出そうとしてくれる。これを口に出して良いのか、私にも分からなかった。
「お兄ちゃんは、セシーリア殿下が好きなの?」
「はぁ?」
あれ?
物凄くお兄ちゃんが変な顔をしている。
いつも優しくて穏やかな顔をしているのに、眉間に皺が寄って唇が歪んでいる気がする。
そんなにも苦悩するくらいセシーリア殿下が好きなのだろうか!?
「イデオン……それだけはないからね」
「セシーリア殿下と話すときだけ、お兄ちゃん、態度が違うから」
「それは、僕のイデオンを攫って行こうとするからだよ!」
珍しく声を荒げたお兄ちゃんに私は椅子から飛び上がりそうになった。
今、『僕のイデオン』って言った!?
もちろん、大事な弟のイデオンという意味なのだろうけれど、びっくりして胸がドキドキする。
お兄ちゃんにとって私はただの弟。
勘違いしないように頭の中で三回くらい繰り返して唱えた。
「イデオンこそ、セシーリア殿下と通信でお喋りするし、特別な関係なんじゃないの?」
「それこそ、ないよ。私とセシーリア殿下は共犯者なんだってば」
キスだって見せかけだけで本当はしていない。
そのことはまだお兄ちゃんには言えないのだが、心の中で付け加えておく。
「信じて良いのかなぁ」
「私はずっとルンダール領にいて、お兄ちゃんの補佐になるよ。王都へは行かない」
王都へ婿入りする気はさらさらない私にお兄ちゃんは疑惑の目を向けていた。
晩ご飯の時間になってみんなで揃ってリビングの食卓に着く。たくさん泣いたせいか、食べ終わる頃にはコンラードくんは眠くて頭がぐらぐらしていた。
眠ってしまいそうなコンラードくんを小さな拳を握り締めてエディトちゃんが応援する。
「こーちゃん、がんばっておきてて!」
「うー……ねんねぇ……」
「はみがきしなきゃ! むしばになったら、ちちうえがおくちガリガリするのよ!」
「むちば!?」
ぱっとコンラードくんの目が開く。口を開けさせられて歯を削られたことがエディトちゃんには物凄い恐ろしい思い出として残っているらしい。コンラードくんも必死に涙目で寝ないように頑張ってビョルンさんに歯磨きをしてもらう。
「ガリガリ、いやぁー!」
「虫歯になっていなければしませんから」
「こあーい!」
また泣いてしまったコンラードくんは歯磨きの後ソファに突っ伏して眠ってしまって、クリスティーネさんが子ども部屋に寝かせに行ってくれていた。
残った私とお兄ちゃんとファンヌとヨアキムくんとエディトちゃんとビョルンさんとカミラ先生とブレンダさんで食後のお茶を飲む。今日は暖かなミルクティーだった。
「コンラードの3歳のお誕生日お祝いに肩掛けのバッグを上げたいのですが、エディトも来年から幼年学校に入学します、一緒に注文に行きませんか?」
「わたくしもかたかけバッグがもらえるの?」
エディトちゃんがヨアキムくんからもらったウサギのポーチを握り締めて目を輝かせる。
「エディトにも必要な時期ですから。ヨアキムくんから譲られたポーチはポーチで使っていて良いのですよ」
「ダーちゃんとブーちゃんのししゅうがいれられる?」
「職人さんに相談してみましょうね」
来年からエディトちゃんは幼年学校に行くのだが気になるのはどこで幼年学校に行くかだった。
来年まではカミラ先生がルンダール領の当主の補佐をするとしても、いずれはエディトちゃんとコンラードくんはオースルンド領に帰らなければいけない。
「エディトちゃんはルンダールの幼年学校に行くのですか? それともオースルンドの幼年学校に行くのですか?」
私の問いかけにカミラ先生は迷っているようだった。
「六年間通う学校ですから、入学から同じ学校が良いのではないかと思っているのです」
「エディトちゃんはわたくしとは同じ幼年学校に通えないのね」
「僕とも別々ですか」
「わたくし、オースルンドにいくの?」
驚いた様子のエディトちゃんにカミラ先生が優しく膝の上に抱き上げる。
「私は元々オースルンドの出身で、オースルンド領の次期領主です。エディトは恐らく私の次の領主になるでしょう。オースルンドで学んでください」
「ファンヌねえさまとヨアキムにいさまとべつのがっこう……」
うるうるとエディトちゃんの青い瞳が潤んでくる。
いつかはカミラ先生がオースルンド領に帰ることは分かっていたが、エディトちゃんと一緒の幼年学校にファンヌとヨアキムくんが行けないことは、やはりエディトちゃんもファンヌもヨアキムくんもショックだったようだ。
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