3.秘密の呼び名
庭に出ることが許されたお兄ちゃんが始めたことは、裏庭の薬草畑を蘇らせることだった。正面の広い庭は庭師を雇って、体面のために綺麗に整えているが、お兄ちゃんの母親のアンネリ様が亡くなってから、裏庭は完全に放置されていた。
私とファンヌのお散歩のついでに、雑草を抜いて、土を耕すお兄ちゃんを少しでも手伝いたくて、私も小さな手で雑草を引っ張ったが、ちぎれてしまって根っこまで抜けない。
「お手手が痛くなってしまうよ、イデオン」
「おにーたん、おてちゅだい、ちたいの」
「優しい子だね、イデオンは」
草で柔らかな幼児の手が切れるのを心配してくれるお兄ちゃんこそ、優しいのだが、それが小さな私には上手く言えない。足に抱き付くと、よちよちと歩いているファンヌも、ぷるぷると体を震わせて踏ん張って、雑草を握って抜こうとしていた。
お兄ちゃんの助けになりたい。まだ喋れないファンヌでも、思うこと。それを私ができないのが悔しくて、涙が出そうになると、お兄ちゃんは私に小さな袋を渡してくれた。
袋の中には丸い黒いものが入っている。それを摘んで、私はしげしげと観察した。
「この畝に穴を空けるから、その穴に一つずつ、その種を埋めてくれる?」
「おまめ?」
「豆じゃないよ」
「はなくちょ?」
「鼻くそでもないよ。これは種」
黒くて丸い種が、薬草に育つだなんて、その当時の私は知る由もない。お兄ちゃんの指示通りに、一粒一粒、大事に指で摘まんで、お兄ちゃんが作った畝に空けられた穴に、種を入れていく。種が入った穴は、埋められて、お兄ちゃんが汲んできた水をかけてその日は終わった。
毎日雑草を抜いて、種を植えられる場所を増やしているうちに、最初に植えた種から芽が生えて来た。
「おにーたん、こえ!」
指差して示すと、お兄ちゃんが近付いてきて、しゃがみ込んで教えてくれる。
「イデオンが植えてくれた種が芽吹いたね」
「こえ、なぁに?」
「これは薬草に育つ芽だよ」
「やくとう、なぁに?」
「病気を治したり、魔術薬の材料になったりするんだ」
どれだけ私が知りたがりの3歳児を発揮しても、お兄ちゃんはきっちりと答えをくれる。聡明さと誠実さに、3歳ながらに私はお兄ちゃんが好きで好きでたまらなかった。
お兄ちゃんのためならば、どんなことでもする。
洋服がびっしょり濡れてしまっても、大きな柄杓に振り回されながら薬草の芽に水をやるのを手伝ったし、ファンヌが間違って薬草の芽を抜いてしまわないように両手を広げて仁王立ちで止めたりした。
夏になって日差しが強くなってくると、乳母は私とファンヌとお兄ちゃんに帽子を用意してくれた。
「アンネリ様のいた頃のようです。あの頃は、たくさんの薬草が領地でも収穫できて、マンドラゴラもたくさん出荷されていたのに……」
「亡くなってもリーサさんに覚えていてもらえる母は幸せ者です」
「オリヴェル様が成人なさった暁には、必ず領地も建て直せます」
まだ12歳のお兄ちゃんは、後見人という名目で正当な血筋ではないのに家を取り仕切っている父を、追い出して家を継ぐことを求められている。乳母の望みは領民全ての希望でもあった。
「僕にできるのでしょうか……旦那様は僕を疎んでいらっしゃる」
「何を言われますか。どれだけ疎もうとも、正当なルンダールの血統はオリヴェル様だけ。それに、魔術の才能もオリヴェル様が跡継ぎと示しています」
「イデオンやファンヌが継いでもきっといい領地になるでしょうが」
それでは遅すぎる。
聡明なお兄ちゃんがそのことに気付いていないわけがなかった。領地の経営は両親の無茶苦茶な搾取と、贅沢で傾いている。私はお兄ちゃんよりも10歳も年下で、成人までにはまだ15年もかかるのだ。当時の私は理解できていないが、魔術の才能は兄弟の中で一番低く、跡継ぎになり得ないことを、お兄ちゃんは気付いていたはずだ。
それでも、お兄ちゃんは簡単に両親がルンダール家を譲るとは思っていないようだった。
「おにーたん、おおちくなったら、わたち、ばいばい?」
「そんなことはないよ。血が繋がってなくても、イデオンは僕の弟で、ファンヌは僕の妹だ」
「おにーたん、じゅっと、いっちょ?」
「一緒にいられると良いのだけれどね」
寂しそうなお兄ちゃんの表情に、嫌な予感がして、私はお兄ちゃんにぎゅっと抱き付いた。
開墾を続ける畑は、毎日広がっていく。育った薬草はお兄ちゃんがこっそりと部屋で乾かして、魔術学校の行き帰りの途中で売って、少しでもお金にしているようだった。思えば、このときからお兄ちゃんは、ルンダール家から追い出される気配をひしひしと感じていたのかもしれない。
「おにーたん、ねむたいの」
「ごめんね、薬草の処理をしていたら遅くなってしまった。ねんねしようか、イデオン」
毎晩お兄ちゃんに寝かしつけてもらうようになっていた私は、ファンヌと乳母が寝ても、お兄ちゃんが寝かせてくれるまで傍で待っていた。眠くて欠伸だらけになった私を、お兄ちゃんが抱き上げてくれる。
抱っこして私をベッドに連れて行きながら、お兄ちゃんが私に囁く。
「僕のこと、『お兄ちゃん』って慕ってくれるのは嬉しいけど、公の場じゃ『兄上』っていうのが正式なんだよ。可愛くて、ずっと訂正できなくてごめんね」
「おにーたん、だめなの? あにうえなの?」
ずっとお兄ちゃんと呼んでいたから、急に呼び方を変えるのは嫌だと泣いてしまうそうになる私を、お兄ちゃんは背中を叩いてあやしてくれる。お兄ちゃんから兄上になってしまったら、お兄ちゃんが遠くなるような気がして、私は嫌だった。
「それじゃ、二人きりのときだけ、『お兄ちゃん』って呼んで良いよ」
可愛いから。
そう言って笑ってくれるお兄ちゃんに安心する。
『お兄ちゃん』という呼び方は、その日から、私とお兄ちゃんの間で、大事な秘密の呼び名となった。
裏庭の薬草畑も、お兄ちゃんと私とファンヌの秘密の場所。雨の日は見に行けないが、それ以外の日は毎日薬草の世話に行っていた。
「栄養剤を調合するか、買えたら、マンドラゴラが高値で売れるようになるんだけどな」
「まんどあごあ?」
「旦那様が重税をかけたせいで、栽培できる農家が少なくて、街のひとたちも困ってるみたいなんだ」
様々なマンドラゴラがいて、薬効もそれぞれ違うし、薬としてもペットとしても需要が高いのだが、マンドラゴラを育てるには豊かな土と、栄養剤が必要で、税金で搾り取られている農家にはそんな余裕はない。自分で栄養剤を調合できるようになれば良いのだが、栄養剤の調合は魔術学校で習うのが主流なので、貧しい農家では魔術学校に進学することも難しく、マンドラゴラの栽培が滞っているのが現状だった。
難しい話をされても3歳児の私には分からなかったが、大好きなお兄ちゃんが困っていることだけは理解できた。お金があればいいのだろうが、3歳の私がお金を稼ぐ術がない。お金自体どんなものかも、よく理解できていない幼児なのだ。
「とーたま、わるいの」
「責めたくもなるよね……」
「ごめしゃい……」
「イデオンのせいじゃないよ。イデオンはこんなに泥だらけになって、僕を手伝ってくれてるじゃないか」
慰めてくれるが、私にとっては実の父親が大好きなお兄ちゃんを困らせているという現実が、許せなかった。
だが、3歳児になにができるわけでもない。父を糾弾しようとしても、理論的な思考ができないのだから、どうしようもない。
「くちゃ、ぬく」
できるのは目の前の雑草を抜くことくらい。
腰を入れて一生懸命引っ張ると、お兄ちゃんが土を耕してるおかげもあって、尻もちをついてしまったが、初めて、私の手でも根っこまで雑草が抜けた。
「できたー!」
「イデオン、できたね。凄い」
「こえから、いっぱいてちゅだうね」
もっとお兄ちゃんの力になりたい。
私の隣りで同じことを考えているファンヌが「んぬー! んぬー!」とふんばりながら、雑草を引っ張っていた。
感想、評価、ブクマ、レビュー等、歓迎しております。
応援よろしくお願いします。作者のやる気と励みになります。




