24.お兄ちゃんのいない日
お兄ちゃんが研修旅行に行ってしまう。
そのことは前日から私を憂鬱にさせた。お風呂に入っている間からどんよりとした空気を纏っている私の髪をお兄ちゃんが丁寧に洗ってくれる。
「一日だけですぐ帰って来るよ?」
「お兄ちゃんがいないのに夜眠れるかな……」
「お湯かけるよ?」
「ん」
シャワーでシャンプーを流してもらっている間、私はぎゅっと目を瞑る。泡を流してもらって綺麗になった私はバスタブに浸かった。お兄ちゃんも洗ってバスタブに入って来る。
ざぁっとお湯が溢れて零れてバスルームに湯気が立ち込めた。
「明日は一人でお風呂に入らなきゃいけないね」
「そうだった……お風呂も一人……」
どんよりとしてしまう私をお兄ちゃんは抱き締めてくれる。ぎゅっとされて私は泣きたいような、切ないような、複雑な気持ちになってしまう。
明日はお兄ちゃんはいない。一人でお風呂に入って一人で眠らなければいけない。それを考えるだけで気分が沈んでしまう。
「明後日には帰って来るから、待っててね」
前髪を上げられて額にキスをされて私は涙をぐっと堪えた。
バスタオルで身体を拭いてパジャマを着るとお兄ちゃんと一緒に部屋に戻る。ベッドに入るとお兄ちゃんもベッドに入って灯りを消した。温かいままで眠りたかったけれど目を閉じてもなかなか眠れなかった。
翌日はいつも通り早朝に起きて薬草畑の世話をしに行く。もう収穫時期に入っているので枯れた株からは種を収穫して抜いて束ねていった。乾かした種は小袋に入れて来年用に保管室に保管しておく。
「イデオンにぃさまだいじょうぶ?」
「私? 大丈夫だよ?」
「にぃさま、オリヴェルおにぃちゃんがいないとないちゃうの」
ヨアキムくんとファンヌにも心配されていた。
幼年学校に入るときにもファンヌとヨアキムくんに心配されていたが、お兄ちゃんが一日いないだけで泣いてしまう兄はちょっと情けないのではないだろうか。涙は堪えつつ私は作業を終えた。
ファンヌとヨアキムくんはエディトちゃんと保育所に行って、私とお兄ちゃんは移転の魔術で幼年学校に行く。幼年学校の敷地内に入ってお兄ちゃんとハグするとしっかりと抱き締め返された。
「行って来るね、イデオン。何かあったら、魔術具で通信できるからね」
「一日くらいは平気!」
強がっては見せたものの私は「行ってらっしゃい」を言う時点で泣きそうになっていた。奥歯を噛み締めて堪えて幼年学校に行ったが、私はその日一日憂鬱だった。浮かない顔の私をダンくんもフレヤちゃんも心配してくれた。
「イデオン、何かあったのか?」
「お兄ちゃんが研修旅行でいないんだ」
口から自然と漏れたため息にフレヤちゃんが驚きの声を出す。
「イデオンくんのお兄ちゃんが!? 一人で大丈夫なの?」
「だ、大丈夫だよ」
「本当に?」
「本当に……本当はちょっと……かなり、相当寂しい」
強がり切れなくてつい出てしまった本音にフレヤちゃんが周囲を見回す。
「来ちゃうんじゃない?」
「へ?」
「妹さんと弟さん」
はっ!
私が落ち込んでいると何で察するのかファンヌとヨアキムくんが来てしまうかもしれない。一年生のときに何度か幼年学校に乱入するファンヌとヨアキムくんをダンくんもフレヤちゃんも同級生たちも知っている。
最初のダンくんと喧嘩していたときにはあまりのことに言い争っていたダンくんですら同情して喧嘩が終わってしまったくらいだった。ダンくんはミカルくんのことがあるので弟や妹が幼年学校に来たがる気持ちに理解があったのだ。
あれをきっかけにダンくんとは仲良くなれた気がするので良かった気がするけれどそれにしてもファンヌとヨアキムくんの乱入は心臓に良くなかった。
「今日、眠れるといいな」
「ありがとう」
お兄ちゃんがいないだけで憂鬱になってしまう私を笑ったり馬鹿にしたりしないダンくんとフレヤちゃんは本当に良い友達だと感謝していた。
家に帰るときに馬車に乗るだけでお兄ちゃんがいないことを改めて実感してしまう。魔術学校の最高学年になってからお兄ちゃんはときどきしか迎えに来れなかったけれど、今日は確実にいないのだと感じながら、馬車に入って来る涼しい風に髪を吹かれながら保育所で乗り込んでくるファンヌとヨアキムくんとエディトちゃんとリーサさんを見ていた。小さな手でエディトちゃんがリーサさんに膝に抱っこされながら私の髪を撫でてくれる。
そんな酷い顔をしていただろうか。
お屋敷に戻って部屋に帰ってもお兄ちゃんは今日は帰って来ないのだと思うと宿題をする気になれなくて、子ども部屋に宿題一式を持って行った。
「いえおにぃ!」
「エディトちゃん、ここで勉強させてね」
「あい!」
マンドラゴラのダーちゃんとブーちゃんと遊んでいたエディトちゃんがお手手を上げて返事をしてくれる。部屋に上着を置いて着替えて来たファンヌとヨアキムくんも子ども部屋にやってきた。
「エディトちゃん、ようねんがっこうごっこにさんかする?」
「よー?」
「ぼくもするよ」
「あい!」
ファンヌに誘われてエディトちゃんは幼年学校ごっこに参加している。微笑ましい光景を見ながら私はテーブルで宿題をしていた。分からないところはなかったけれど、答え合わせをお兄ちゃんにしてもらえない。
カミラ先生に見てもらうのはちょっと申し訳ない気がするので、宿題はそのまま誰にも確認してもらわなくて、肩掛けのバッグに入れて部屋に戻ろうとすると肩掛けのバッグから大根マンドラゴラと蕪マンドラゴラと南瓜頭犬が出て来た。
「びょぎょえ?」
「ぎゃお?」
「心配してくれてるの?」
「びゃわん」
マンドラゴラや南瓜頭犬に心配されるくらい私は気落ちしているのが見えるようだ。
おやつの時間にカップを見てもお兄ちゃんを思い出してしまう。お兄ちゃんとお揃いの青い薔薇の描かれたカップ。今日はお兄ちゃんの分は使われてなくて、私の分だけだ。
「イデオンくん、零れてますよ」
「え!? わー!?」
気が付けば口に運ぶ前にカップを傾けていて私はテーブルの上に大きな水たまりを作ってしまっていた。側にいた使用人さんが素早く拭いてカップにお茶を注いでくれる。
「服が濡れませんでしたか?」
「大丈夫です。すみません、お行儀の悪いことをして」
謝る私にカミラ先生もビョルンさんも逆に心配してくれる。
「オリヴェルは明日には帰ってきますからね」
「夜眠れなくなったら、部屋に来ても構いませんよ」
8歳なのにこんなに甘えてしまっていいんだろうか。
それでもお兄ちゃんがいないのは寂しかったので慰めてくれるカミラ先生やビョルンさんはありがたかった。
「今日は僕とお風呂に入る?」
「いいえ、一人で入れます」
カスパルさんが言ってくれるが私はなんとなくお兄ちゃん以外とお風呂に入るのは恥ずかしい気がしてお断りした。
晩ご飯の後に私は早めにお風呂に入ることにした。日が落ちるのが早くなってくるとバスルームの中は薄暗くなってくる。暗くなると一人でお風呂に入るのはちょっと怖い気がする。
シャワーを浴びて頭を洗っていると後ろに気配を感じて私はびくりと肩を震わせた。一人のお風呂が怖いなんて8歳にもなっておかしいのかもしれないが、幽霊とか出てきたらどうしようと髪を洗っているときに気になってしまう。
お兄ちゃんとお風呂に入るまでは一人のときは髪を大急ぎで洗い流していたから、私は頭が臭かったのだと今更ながらに気付いた。
髪を流して震えながら振り向くと、そこには小さな三つの影があった。
「びぎゃ」
「びょえ」
「びゃわん」
「みんな……」
私が怖がっているのを察してくれたのだろうかそこには大根マンドラゴラと蕪マンドラゴラと南瓜頭犬がいた。ほっとして三匹を洗ってバスタブに入れる。お兄ちゃんがいないのは不安だったがこれで少しは安心した。
お風呂から出た後も三匹は一緒にベッドに入ってくれた。
エディトちゃんがマンドラゴラのダーちゃんとブーちゃんを手放せないことにこれで私も何も言えなくなってしまう。
お兄ちゃんが帰って来るまでマンドラゴラと南瓜頭犬はずっと側にいてくれた。翌日は幼年学校に行く馬車の中でも私の膝の上に乗って、幼年学校についたらハグをして私の肩掛けバッグに入って行った。
幼年学校が終わって帰ればお兄ちゃんに会える。
私はマンドラゴラと南瓜頭犬に感謝して登校して行った。
馬車で家に帰るとお兄ちゃんはもう帰って来ていた。
「お兄ちゃん、お帰りなさい!」
「イデオンもお帰りなさい。平気だった?」
「大根マンドラゴラと蕪マンドラゴラと南瓜頭犬と一緒にお風呂に入って寝たんだ」
「そうか、イデオンには心強い味方がいたね」
それでもお兄ちゃんには敵わない。
しっかりと抱き締められて私は安堵してぎゅっと目を瞑る。その目に涙が滲んだのは仕方がないことだった。
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