6.ダンくん、9歳の悩み
マンドラゴラ品評会でマンドラゴラがいい値で売れてからダンくんの家に借金はなくなった。ご両親は内職をすることもなくなって畑の収入だけで暮らせるようになってきたという。
その矢先の出来事だった。
お屋敷に訪ねて来たダンくんがミカルくんを子ども部屋に預けて私とお兄ちゃんに相談してきたのだ。
「赤ちゃんができたみたいなんだ」
「ダンくんのお母さんに?」
「おれとミカルが寝てる間に両親が話してるのを聞いちゃって」
夜中に目が覚めてお手洗いに行った帰りに両親の部屋で二人が深刻な表情で話し合っていた。話の内容は赤ちゃんのことだった。
「母ちゃん、お腹に赤ちゃんができたけど、ミカルのときに出産であぶなかったし、父ちゃんはすごく心配してて、それでもおろしたくないって言ってたんだ。おろすってなんだ?」
「赤ちゃんを産まないでお腹の中で殺してしまうことだよ」
「なんだって!? そんなの絶対に嫌だ!」
ダンくんも堕ろすという言葉を知らなかった。堕胎について以前にカミラ先生が妊娠していた時期に決闘を挑んできたコーレ・ニリアンのおかげで知ってはいたけれど、言葉を聞くだけでぞっとして私は指先が冷たくなるような気がする。
冷静に説明しているお兄ちゃんの表情も厳しいものだった。
「うちは裕福じゃないから、もう一人子どもが産まれたら大変かもしれないけど、でもおれの妹か弟かもしれないんだ。殺すなんて嫌だよ」
「お母さんの体調はどうなの?」
「悪くはないみたいなんだ。ミカルのときみたいな寝込んだりすることは今のところない」
それならば安全に産めるのではないだろうかと思ってしまうのは8歳の浅はかな考えなのだろうか。安全に産める赤ちゃんならばルンダールの未来のためにも、ダンくんとミカルくんのためにも産んで欲しいと思ってしまう。
しかし、事態はそれほど簡単ではないようだった。
「もう一人産まれたら、家計はきびしくなるだろ。やっぱりおれは魔術学校には進まずに働いた方がいいだろうな」
「そんな……魔術学校に進んだ方が後々いい仕事に就けるんだよ?」
「妹か弟のためなんだよ」
真剣に言うダンくんだってまだ9歳なのだ。10歳にもなっていない。それなのに今から幼年学校を卒業したら働くことを考えている。
私が説得しても無駄かもしれないとお兄ちゃんの方を見ればダンくんと視線を合わせてゆっくりと穏やかに話しかけてくれる。
「魔術学校への進学資金はルンダール家から援助するつもりだったよ。ダンくんはイデオンの学友として通えば良い」
「魔術学校に行く金がいらなくなっても、それ以上におれが稼ぐ金が必要かもしれないんだ」
「魔術学校には働きながら通ってる子もいっぱいいるよ。授業は午後の早い時間に終わるから、その後で働きに出ればいいし」
「でも……母ちゃんが赤ちゃん産むときにまたあぶなくなったらどうしよう」
ダンくんの黄色っぽい目が潤んで来た。
一番ダンくんが心配していたことはそれなのではないだろうか。そのことを最後まで口に出せずにいた。
「うちにはビョルンさんっていう優秀なお医者さんもいるし、街医者のエレンさんもいるし、できる限りのことはルンダールでもお手伝いするよ」
「イデオン……おれ、金も地位もないけど、イデオンしか頼れる奴がいなくて」
「頼ってくれて嬉しいよ。ダンくん、お母さんとお父さんにちゃんとお話ししよう?」
「オリヴェル様もついてきてくれるか?」
「僕でよければ、なんでも力になるよ。ダンくんはイデオンの大事な親友だもの」
私とお兄ちゃんに言われてダンくんはぼろぼろと涙を零していた。こんな風にダンくんが泣くのを見たことがない。初めて見たダンくんの涙にどうやって慰めれば良いのか分からずに狼狽える私に、お兄ちゃんが綺麗に洗濯されたハンカチを渡してくれる。
ハンカチをダンくんに渡すと顔を拭いて洟をかんでいた。
なんとか泣き顔を治めてダンくんとミカルくんとご両親の待つ家に馬車で行く。不審者ではなかったがボリスさんに声をかけられたときに物凄く怖かったので、カスパルさんに護衛としてついてきてもらった。
「にーちゃん、ないたの?」
「大事な話だったんだよ」
「おれもききたい」
「これから聞かせてやる」
馬車の中で赤い目のダンくんをミカルくんが心配していた。冬を越して春になった畑の中の道には野の花が咲いている。そこを飛び交うミツバチを見ながら、私とお兄ちゃんとダンくんとミカルくんは、カスパルさんに手を貸して貰って馬車から降りた。お兄ちゃんはカスパルさんよりも大きいのだけれど、カスパルさんはお兄ちゃんを甥として大事にしたいようで馬車を降りるのを見守っていた。
「父ちゃん、母ちゃん、おれの話を聞いてくれよ」
「どうしたの、ダン?」
「今日はお屋敷で勉強してくるんじゃなかったのかい?」
畑仕事をしていたダンくんのお母さんとお父さんは手を止めて、手を洗って私たちを家の中に招いてくれた。温かいお茶を淹れてもらって欠けたカップで飲みながら、ダンくんがご両親に話すのを聞いている。
「おれ、聞いちゃったんだ。母ちゃんに赤ちゃんができたって」
「あかちゃん!? おれ、おにいちゃんになるの!?」
嬉しそうに椅子から飛び上がりそうになるミカルくんを素早くお兄ちゃんが押さえた。喜ぶのはもう少し後にしなければいけない。
「聞いていたのか……」
「うちは貧しいでしょう。もう一人子どもが増えたら、ダンは魔術学校に行けなくなるかもしれないし、出産で私が働けなくなるかもしれないからねぇ」
「赤ちゃんが産まれてこないなんておれは嫌だからな! 魔術学校の学費はイデオンの家が援助してくれるって言ってるし、ビョルン様や街医者のエレンさんが母ちゃんを診てくれるって言ってる!」
「学費を出していただくなんてそんな申し訳ないこと……」
「魔術学校は午後の早い時間に終わるから、おれも働きに行けるって教えてもらったし」
必死で言うダンくんを加勢するようにお兄ちゃんが言葉を添えた。
「魔術師はルンダール領にとっての財産です。ダンくんが良い魔術師になればルンダール領はそれだけ豊かになって、ルンダール家が援助したよりももっと大きな利益を生み出します。学費の援助についてはルンダール家も考えのあってのことなので遠慮なさらないでください」
穏やかに諭されてご両親はぽつりぽつりと語り始めた。
「最初の借金はミカルを産むときの医療費でした。私たちが学がないから酷い悪徳業者から契約書が読めないままにお金を借りてしまって、その利息が膨れ上がってどうにもならない状態でした」
「ダンとミカルには私たちのような人生は歩ませたくない。できる限りの教育をさせてあげたいと思っています」
ご両親がダンくんとミカルくんを深く愛しているのは理解できた。しかし、そのためにお腹の赤ちゃんを諦めてしまうのは違う気がするのだ。
私はカミラ先生に言われたことを思い出していた。
「領地を育てるということは、ひとを育てるということだとカミラ先生は言っていました。ダンくんの学費も……ミカルくんがこれからどんな進路を選ぶか分からないですが、ミカルくんの学費も、ルンダールから援助させてください」
絶対にこの話をしてもカミラ先生もビョルンさんも断らない。信頼があるからこそ口に出して言えることだった。
私の言葉、そしてお兄ちゃんの言葉をよくよく吟味してミカルくんのお母さんは私たちに頭を下げた。
「どうか、ビョルン様の診察を受けさせてください」
「妻が赤ん坊を健康に産めるように手助けをお願いします」
どれだけ助けの手を差し伸べてもその手を取ってくれなければどうにもならない。ダンくんとミカルくんのご両親はルンダール家からの全面的な援助を受け入れることにしたらしい。
安堵していると横に座っていたダンくんにぎゅっと抱き締められる。
「イデオン、ありがとう! この恩はいつか絶対に返す」
「ううん、もうダンくんからはいっぱいもらってるよ」
「いや、おれはイデオンとオリヴェル様の役に立つ人材になる!」
魔術学校に私が一人で行くのが心細いからダンくんとフレヤちゃんには援助をしてくれるようにお願いしていたなんて言える場面ではなかった。
ダンくんのお母さんは赤ちゃんを諦めずに済んだし、お父さんも全面的にルンダール家の援助を受け入れる体勢になって、この話は一件落着したように思えたのだが、このことがまた後で持ち上がるとはこのときの私は思ってもいなかった。
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