16.閉じ込められたお兄ちゃん
薬草畑の世話は、一日でも手を抜くと収穫ができなくなってしまう。お兄ちゃんが部屋から出られなくなった今、裏庭の薬草畑の世話は私とファンヌの手にかかっていた。
早朝に起き出して、まだ眠たいファンヌの手を引いて、裏庭の畑に行く。水汲みのバケツを置いて、もう一つのお兄ちゃんが使っていたバケツを裏返しにしてその上によじ登り、蛇口をひねって水を出す。
「いれすぎたら、もてないの」
「も、ちょっちょ」
「よくばりさんは、だめなの」
お兄ちゃんが教えてくれたことをそのままファンヌに伝えて、半分くらいしか水の入っていないバケツを、二人で持ち上げる。畑までバケツを運んで、如雨露で水やりをして、バケツの水がなくなったら、また水を汲みに行く。
何度も繰り返すうちに、頭は熱さでくらくらしてくるし、お日様が登って来そうになって、私は涙目になっていた。
「イデオン様、ファンヌ様、勝手に出てはなりませんよ」
「おにいちゃんのやくそうばたけが……」
「わたくしにも、声をかけてくださいませ」
「リーサさん!?」
助けの手は求めれば現れるものだ。
私とファンヌの縫物や雑用で薬草畑には関われなかった乳母のリーサさんが、手伝ってくれようとしている。
「薬草畑のことはなにも分かりません。なんでも教えてください。わたくしができることなら致します」
「いーの?」
「アンネリ様から引き継がれた、オリヴェル様の大事な薬草畑ですもの」
袖捲りをしたリーサさんに、バケツで水を汲んでもらって、リーサさんは柄杓、私とファンヌは如雨露で畝に水をかけていく。日が昇るまでに終わらないかと泣きそうだった水やりは、なんとか間に合った。
水やりが終わると、次は収穫である。
「しんめは、とっちゃだめなのです」
「ちんめ、めっ!」
「ファンヌは、リーサさんにむしのことを、おしえてあげて」
「むち、こえ、めっ! こっち、いーの!」
きゃーきゃーと虫を怖がりながらも、軍手を付けたリーサさんは勇敢に害虫を駆除してくれた。私はお兄ちゃんに教えてもらった通りに、収穫する薬草を摘んでいく。
摘んだ薬草は干して乾かすものと、新鮮なうちに売りに出さなければいけないものがある。お兄ちゃんは魔術学校の通学の途中にしか売れなかったので、できるだけ干して乾かして保存が利くものを育てていたが、夏休み前で魔術学校に行く日がまだ数日あったので、新鮮な薬草も、少しだけ残っていた。
汗びっしょりになって部屋に帰ると、自分の着替えよりも先に、新鮮なうちに売らなければいけない薬草を、コップに水を入れて挿す。これで少しは長持ちするだろう。
干して乾かさなければいけない薬草は、紙を敷いて、ベッドの下に隠しておいた。
シャワーを浴びて着替えると、見知らぬ女性が部屋の中に入って来た。
「初めまして、イデオン様、ファンヌ様、家庭教師のマティルダと申します」
魔術学校に通わせる代わりにお兄ちゃんが私に魔術を教えるように言っていた両親は、今度は家庭教師を送り込んできたようだ。
私とファンヌは顔を見合わせる。
「わるいこになろう」
「わたくち、わりゅい!」
家庭教師の持っている教科書は、幼児用のもので、大きな絵に文字が書かれているものだったが、それの全部をもう私は読むことができた。読めると知られると家庭教師は更に難しい教科書を持ってくるに決まっている。
椅子に座らされたが、飛び降りて、私はファンヌを呼んだ。
「おいかけっこしよう」
「すゆー!」
部屋の中を走り回る私とファンヌを、家庭教師は追いかける。足の間を抜け、狭い場所に入り込み、徹底的に逃げていると、ファンヌが転んだ。打たれ強いファンヌは転んだくらいでは、すぐに起き上がるのだが、私はファンヌに「ないて!」と視線を送った。私の視線の意味を理解したファンヌは、起き上がりかけて、もう一度床の上に倒れて、「ぶええええええ!」と大声で泣き出す。
「これは大変、オムツが濡れてしまったかもしれません。ファンヌ様、お着換えに参りましょう」
すかさずリーサさんが助けを入れてくれて、ファンヌは家庭教師の前から連れ去られた。
「椅子に戻りなさい!」
「いやだよー! べんきょうなんか、だいきらいー!」
本当は本を読むのも、勉強をするのも大好きだが、それはお兄ちゃんと一緒のときだけ。逃げ出してテーブルの下に隠れた私を引きずり出そうと家庭教師が胴に腕を回して引っ張るが、私はテーブルの脚から手を放さない。
結果として、テーブルが傾いて、上に置かれていた花瓶が倒れ、教科書もノートもびしょ濡れになってしまった。
「明日はこうはいきませんからね」
4歳児を追い掛け回して息切れしている家庭教師は、その日はそれで退散していった。走り回って汗をかいた私に、リーサさんが冷たいお茶を飲ませてくれる。
「ちっち、ない」
「じょうずなうそなきだったよ。あしたもがんばろうね」
「あい!」
オムツは濡れていなかったと名誉のために主張するファンヌに、私は小さな薄茶色の頭をくしゃくしゃと撫でる。
お昼ご飯をお腹いっぱい食べて、これからすることは決まっていた。
「リーサさん、わたし、おひるねをします」
「イデオン様が? お珍しい」
「よるに、あにうえのところにいくつもりなのです」
早寝早起きで、4歳になってからはほとんどお昼寝をしなくなった私だが、これからは生活時間を変えなければいけない。夜は両親はどこかの家のパーティーに出ているし、使用人は両親がいないので自分たちの棟で休んでいる。動くとすれば、その時間が絶好のチャンスだった。
夜に起きておくためにお昼寝をして備えておく。説明すると、リーサさんは納得してくれた。
ファンヌと私が静かに眠れるように、子ども部屋から出て、隣りの自分の部屋で細々とした雑事をしておいてくれるリーサさん。私やファンヌの服や靴に、しっかりと私たちの名前が縫われているのも、リーサさんが気遣ってくれるおかげだ。
洗濯に出すと、メイドさんが洗ってくれるのだが、ときどき戻ってこないことがあるのだ。洗濯物が迷子にならないように、リーサさんが全てに名前を縫い付けてくれていたので、私は大人も自分のものに名前を書くのだと信じ込んでいた。
蒸し暑い部屋でも、窓を開けておくと風が入って少しは涼しい。お昼寝に慣れていないので、初日はあまり眠れなかったが、起きて来た私の汗を拭いて、リーサさんはおやつを準備してくれた。
遅れて起きて来たファンヌは着替えさせてもらって、おやつの席に着く。
おやつはいつもお兄ちゃんと一緒だったので、いないと思うと涙が出てきそうになる。
すんと洟を啜ると、ファンヌがマドレーヌを千切って、私の口に押し付けた。
「たべていいの?」
「ん!」
食いしん坊のファンヌなのに、私を慰めるためにおやつを分けてくれる。その優しさに、ぽろりと涙が出たが、同時に勇気付けられた。
夜を待って眠ってしまったファンヌに「いってくるね」と小声で挨拶して、私は薬草を持って部屋を出た。新鮮な薬草はコップに入っているので、水を零さないように、廊下を歩かなければいけない。
夜の廊下は灯りも消されて、真っ暗で、おしっこが漏れそうなくらい怖かったが、泣いて震えていては、お兄ちゃんを助けることはできない。
ぐすぐすと洟を啜りながら、私はゆっくり水を零さないようにお兄ちゃんの部屋まで歩いて行った。
扉の前に立って、薬草を床に置いてから、背伸びしてトントンとノックすると、お兄ちゃんが扉を開けてくれる。外に出てはいけないと言われているが、鍵をかけたりはしていないようだった。
「イデオン……来てくれたの?」
鍵をかけない理由は、お兄ちゃんの部屋が元は書庫で、お手洗いもバスルームもないからに違いなかった。お手洗いとバスルームを使うときだけ、お兄ちゃんは部屋から出ることを許される。
「やくそう、しゅうかくしないといけないの、してきたの」
どうすればいい?
聞く前に、私はお兄ちゃんにしっかりと抱き締められていた。
「突き放すようなことを言ってごめんね。イデオンともう二度と会えないかと思った」
寂しかったと涙を流すお兄ちゃんは、身体は大人のように大きいが、まだ13歳の少年だった。
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