25.形を変えた伝説の武器
リンゴちゃんにとって人参は憧れの食べ物である。
蕪や大根もだが、ファンヌが飼っているしマンドラゴラ畑に植えてあるので、基本的にリンゴちゃんに人参は与えていなかった。味を覚えて誘惑に負けて齧ってしまってからでは売り物にならなくなるからだ。
ルンダールのお屋敷の薬草畑のマンドラゴラは齧られる前に逃げ出すが、ダンくんの家のマンドラゴラのことで私も他のマンドラゴラは走って逃げ出さないのだと学んでいた。それまではどうしてカミラ先生やビョルンさんが厳しくリンゴちゃんに人参や大根や蕪を与えないように躾けているのを見て、「うちのマンドラゴラは平気なのに」と暢気に思っていたが、今になってみるとあれは大きな間違いだったのだ。
ダンくんの家やフレヤちゃんの家、その他農家に視察に行くときやリンゴちゃんが抜け出して保育所に行く途中にも農家の薬草畑はたくさんある。人参や蕪や大根の味を覚えたリンゴちゃんが齧りに入ってしまったら、最悪害獣として駆除されかねない。
特にウサギは肉としても売れるし、こんなに大きなウサギだから魔物に間違えられてもおかしくはなかった。
今更ながらにカミラ先生もビョルンさんもリンゴちゃんのことを守ってくれていたのだと実感したのは先日のこと。
オースルンド領の庭でリンゴちゃんは自由に散歩を楽しんでいる。近くにヨアキムくんとファンヌもいるが、今日は一緒に遊びたい気分ではないようだ。
脱走癖のあるリンゴちゃんが出て行ってしまわないように私も気を付けていたのだが、お兄ちゃんに話しかけられるとつい夢中になってしまう。
「歌い薔薇を植えてあるよ」
「うちのばらえんにも植えたいって言ってたやつだよね?」
「今年は苗木が間に合わなかったけどね」
夏の湿った熱い風が歌い薔薇を揺らし、歌う声は程よく眠気を誘う。ファンヌとヨアキムくんの頭がぐらぐらしだす前に連れて行こうと促すと、日差しに少し萎れだした薔薇の茂みでカスパルさんとリーサさんが話し込んでいるのが見えた。
「本当にわたくしなどを暖かく迎えてくださって」
「リーサさんは心配せずにオースルンドに来る日を待てばいいんです。僕があなたを命の限り守ります」
おおっと、すごくいい感じだ。
眠くなっているファンヌとヨアキムくんの手を引いてお兄ちゃんとそっとその場を離れると私たちは顔を見合わせた。
「もうとおまわりしてないみたい」
「カスパル叔父上もリーサさんに会って変わったみたいだね」
ひそひそと話している私は門の前の噴水を横切ろうとして、視界の端に灰色の毛皮を見た。リンゴちゃんだ。オースルンドのお屋敷は柵で囲んであるけれど、なぜかリンゴちゃんは柵の外に出ている。
お屋敷の結界は柵までしか張られていないので、結界の外に出てしまったということになる。
必死に落ちている人参の欠片を拾ってもぐもぐと食べているリンゴちゃんは、憧れの人参に釣られて柵から出てしまったのだろう。
「リンゴちゃん、いけないよ。もどってきて」
声をかけても人参に夢中のリンゴちゃんには聞こえていない。
私一人で行くのは心配だったので、ファンヌとヨアキムくんにその場で待っていてもらってお兄ちゃんと手を繋いで私は門の外に出た。
門から一歩足を踏み出した瞬間、私たちを包み込む空気が変わったことに気付いて罠にかけられたことに気付く。
これは結界だ。
「ようこそ、オリヴェル様、イデオン様。もう一度娘のヘッダとお見合いを考えていただけませんかね?」
目の前でにやにやといやらしい笑顔を浮かべている人物は灰色の髪に灰色の目で、ヘッダさんによく似ていた。それはつまりコーレ・ニリアンにもよく似ているということだ。
「イデオン、カスパル叔父上か叔母上を呼んできて」
「お兄ちゃん……どうしよう、逃げられない」
通信具にもなっている首からかけた魔術具は反応しないし、結界からは出られないようになっている。攻撃魔術が得意ではないお兄ちゃんには抵抗のしようがないし、7歳の小柄な私も全く役に立つ気配がない。
こういうときにどうすればいいのか。
迷っている間にお兄ちゃんが大きな声を出す。
「ファンヌ、ヨアキムくん、カスパル叔父上か、叔母上を呼んできて!」
結界に阻まれていると言っても私たちはまだお屋敷から一歩足を踏み出した程度。戻れないように結界が張られているが声くらいは近くの噴水の前でしゃがみ込んでいるファンヌとヨアキムくんには聞こえるはずだ。
「連れて行け!」
ベンノ・ニリアンが傍にいる男性たちに声をかけてお兄ちゃんと私を捕まえようとするけれど、勇ましく割って入ったのはリンゴちゃんだった。夢中で人参を食べていたことを恥じるように、大きな後ろ足で蹴って男性たちを吹っ飛ばして退ける。
「邪魔なウサギだ」
「リンゴちゃん!?」
細く編まれた網のような結界がリンゴちゃんの動きを封じる。もがきながらも必死に私とお兄ちゃんを助けようとするがぐるぐると魔術の糸に絡めとられてリンゴちゃんは完全に動けなくなってしまった。
簀巻き状態になって石畳の上で蠢くリンゴちゃん。もう助けてくれる相手は誰もいない。
「にぃさまー! リンゴちゃんー! オリヴェルおにぃちゃんー! いまいきますわー!」
「イデオンにぃたま、オリヴェルにぃたま、だいじょうぶー?」
この状態に気付いたファンヌが素早く伝説の武器である菜切り包丁を人参のポシェットから取り出して走って来る。ヨアキムくんも一緒に走って来るのだが、私たちが求めていることとそれは違う。
「違うよー! 二人ともカスパル叔父上か叔母上を呼んでー!」
「わたくしがたすけるのー!」
「ファンヌ、ヨアキムくん、おねがい、助けをよんで!」
ひとの話を聞かないのが5歳児と4歳児というものである。
助けを呼んで来て欲しかったのに私たちを直接助けようとファンヌは菜切り包丁を自分の背丈よりも長く伸ばして持ち上げている。
「邪魔な子どもだ」
結界の魔術が強くなるのを私は肌で感じていた。入ろうとするファンヌとヨアキムくんは壁にぶつかったような形で、手からすっぽ抜けた菜切り包丁だけが結界をすり抜けて入って来た。
さすが伝説の武器だがファンヌの手を離れた時点で菜切り包丁は子ども用のサイズに変わっていた。
「お兄ちゃん、あれ……」
「ダメだよ、イデオン。持ち主以外が触ったら電流が走るの、知ってるでしょう?」
ファンヌが菜切り包丁を手に入れた日にカミラ先生が触ってしまって電流が流れたのを私は見ていたが、今武器になって身を守れそうなものはあれしかない。
助けを呼びに行って欲しいファンヌとヨアキムくんは目に見えない壁のようになっている結界を叩いて必死に入ろうとしている。
「私が、これを使えたら」
「イデオン、ダメだよ」
止められて地面に刺さっている菜切り包丁に触れるのを止めたところで、ベンノ・ニリアンはお兄ちゃんの肩に触れて馬車に乗せようとしているのが見えた。
ベンノ・ニリアンの触れた手から妙な魔術を感じ取って、私はお兄ちゃんの目が虚ろになって馬車に自ら乗り込もうとするのを見てしまう。
「お兄ちゃん、行っちゃだめ!」
「行かなきゃ……僕は……ヘッダに会わなきゃ」
攫われたときに私が魅了の呪いで操られたように、お兄ちゃんもベンノ・ニリアンの呪いで操られている。
お兄ちゃんを助けなければいけない。
例え電流に身を焦がされようと私のお兄ちゃんへの思いは消えない。
菜切り包丁の柄に手をかけるとぎゅっと目を瞑って握って石畳に刺さっているのを引き抜いた。
菜切り包丁が何か平たいものに形を変えたのが分かる。
「お兄ちゃんにさわるなー!」
目を瞑ったまま私は手に持っている平たいものを思い切り投げ付けた。
ゴンッと鈍い打撃音が聞こえてひとが倒れる音がする。恐る恐る目を開けてみると、ベンノ・ニリアンは倒れていてお兄ちゃんはその手から逃れて私の方に走ってきていた。
頭から血を流したベンノ・ニリアンの足元に木の板が落ちている気がする。
「くっ……今日は退いてやる。だが、これ以上私たちのことを詮索しないことだな」
移転の魔術でベンノ・ニリアンが消えて行った後で私はベンノ・ニリアンが倒れていた場所に近付いてそこに落ちている木の板を拾った。
「まな板……!?」
「え? なんで、まな板!?」
よく分からない私たちに結界の魔術が消えたのでファンヌとヨアキムくんが飛び付いてくる。抱き締めてリンゴちゃんと共にお屋敷の敷地内に戻ったところで、もう一度私は手に持っている伝説の武器を見た。
確かにそれはまな板だった。
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