10.リーサさんの学びはカスパルさんとブレンダさんの学びでもある
エディトちゃんの寝ている時間にカスパルさんとブレンダさんが来て家庭教師をするのかと思っていたら、その時間は他の使用人さんが見ていてくれることになった。遠慮するリーサさんにカミラ先生はお乳をあげながら諭すように言う。
「カスパルとブレンダの勉強にリーサさんが付き合ってあげている形になるのです。あの二人に現状というものを教えてあげてください」
家庭教師として教えることによってカスパルさんとブレンダさんはルンダール領の現状を知ることができる。そういうことから考えるとリーサさんの立場は生徒でありながら、カスパルさんとブレンダさんの教師でもあるのだ。
「べんきょうしたら、カスパルさんのおてがみを読みますか?」
問いかけるとリーサさんは頬を染めて黙っていた。
席を外していたお兄ちゃんの部屋に戻るとお兄ちゃんは私を待っていてくれた。カミラ先生とリーサさんのやりとりを私は説明する。
「カスパルさんとブレンダさんは、リーサさんの家庭教師になったよ。べんきょうしている間は他のしようにんさんがエディトちゃんを見ててくれるって」
「イデオンはよく見てよく考えているよね」
「それはお兄ちゃんやカミラ先生が私の話をばかにせずに聞いてくれるからだよ」
幼い頃から私は色んなことを学んで色んな提案をしてきた。その中には幼くて拙いものもあっただろうけれど、それに手を加えたり助けてくれたりして、お兄ちゃんもカミラ先生も真剣に私の話を聞いてくれた。私だけではない。ファンヌの話もヨアキムくんの話も、カミラ先生とお兄ちゃんは真剣に聞く。
自分の言葉に耳を傾けてくれているという信頼感があるからこそ私も考えたことを素直にお兄ちゃんやカミラ先生には話せた。
特にお兄ちゃんの前では嘘を吐くことができないし、お兄ちゃんの前では涙もろくなってしまう。
「いい方向に向かうといいよね」
お兄ちゃんがそう言ってくれると素直にそう思えるから不思議だ。
「お兄ちゃん、こいってなんだろう」
カミラ先生はビョルンさんのことが好きで気になっていることは私がまだ5歳のときから気付いていた。カスパルさんがリーサさんを気にしていることも分かる。
きっとそれは素晴らしい感情なのだろうと想像するのだが、7歳の私には全然実感がわかないのだ。
「僕も恋をしたことがないからな」
「お兄ちゃんも?」
「恋、じゃないかもしれないけれど、一番僕のことを心配してくれてて、大事に思ってくれてるひとがいて、そのひとのことは気になっている」
お兄ちゃんの口から出た言葉に私は予想外のショックを受けていた。
女の子に呼び出されたときにも私についてきてくれるようにお願いするほど迷惑そうだったお兄ちゃん。そのお兄ちゃんに気になるひとがいたなんて。
あまりのことに言葉が紡げずにいるとお兄ちゃんは悪戯っぽく微笑む。
「叔母上には内緒にしてね」
「う、うん……」
お兄ちゃんは恋か分からないけれど、気になるひとはいる。その事実が私を打ちのめした。
ルンダール家で当主と補佐として離れずに暮らしていくのだと思っていた。しかし、薄っすらと私も気付き始めていたのだ。
結婚に良いイメージはないと言っていてもお兄ちゃんはルンダール家の次期当主様なのだ。ルンダール領を治める人物となる。結婚して跡継ぎを作らなければいけない立場だった。
好きなひと以外とは結婚しないというのを貫き通していたカミラ先生に、オースルンド領のお兄ちゃんのお祖父様とお祖母様は諦めていたようだが、カミラ先生にもビョルンさんという愛するひとができて今は可愛いエディトちゃんという赤ちゃんもいる。
お兄ちゃんが恋をして結婚しないという保証はないのだ。
目頭が熱くなって涙が零れるのを必死にこらえようとしても、嗚咽が漏れて来てしまう。
なんでこんなに悲しくてショックなのか分からないけれど、私はお兄ちゃんの前で泣き出していた。
「イデオン、どうしたの?」
「お、おにいちゃ……ひっく……わかんな、い」
胸が塞がるようなこの気持ちは何なんだろう。
お兄ちゃんの特別は自分だけだと信じていた。お兄ちゃんは私に隠しごとなんてしないし、他の同級生と遊ぶよりも私との時間を大事にしてくれているという絶対的な自信が私にはあったのだ。
それが全部突き崩されたような、足元から世界が崩れていくような絶望感に私は涙を止められなかった。
腕を伸ばしてお兄ちゃんが脇の下に手を入れて椅子に座ったまま膝の上に抱き上げてくれる。ぎゅっと抱き締められて背中をぽんぽんと叩いて宥められてもどうしても涙が止まってくれない。
「おにいちゃ、けっこん、するの?」
「結婚? する気はないよ」
「き、きに、なる、ひと……ふぇ……いるって」
「いつか話すよ。イデオンがもうちょっと大きくなったら。僕がどれだけ救われて、大事にされていると感動したか」
「いまじゃ、だめなの?」
「今は、まだ早いかな」
お兄ちゃんが私に秘密を持った。
その事実に涙が止まらなくてしばらく私はお兄ちゃんに抱っこされていた。
憧れのお兄ちゃんを誰かにとられてしまうのが悲しくて、つらくて、受け入れられなかったのかもしれない。
当時の私は自分の感情をそう結論付けていた。
その日から私はお兄ちゃんをよく観察するようになった。誰か他のひとの気配がしないか、いつもと違う様子じゃないか。
けれどお兄ちゃんはいつも通りに私と接してくれた。
週末にダンくんとミカルくんも来て、ハチドリイチゴの苗を植えることになった。子どもだけだと危ないのでビョルンさんが監督に来てくれたけれど、ビョルンさんからハチドリイチゴについて提案があった。
「畑の上に小屋を建てて、小屋の中での栽培にしてみるのはどうでしょう?」
小屋と畑を別々にするのではなく、熟したハチドリイチゴが飛んで行ってしまわないように畑の上に小屋を建てるというアイデアは私も思い付かないものだった。
以前に温室で季節の違う薬草などを育てられるとビョルンさんが言っていたが、そこからの着想のようだ。
畑の上に小屋を立てれば水やりは面倒になるけれど、ハチドリイチゴが逃げるのは防げるし土地も有効活用できる。
用意して来た小屋用の板や金網では足りないので買い足して、私の身長より少し大きいくらいの小屋を畑の上に立てることになった。ハチドリイチゴの育成環境としてはその高さで問題ないのだが、身体の大きなお兄ちゃんは出入りがしにくいし中での作業もしにくくなる。
「この畑、おれとイデオンにまかせてくれるか?」
そこで申し出てくれたのがダンくんだった。
「今年もダンくんは旅行に誘おうと思っていたし、たっぷり働いてもらおうかな」
「よし、しょうだん成立だな!」
お兄ちゃんとダンくんが握手をして、ハチドリイチゴの畑は私とダンくんを中心にファンヌとヨアキムくんとミカルくんとリンゴちゃんの子ども勢で面倒をみることになった。
お日様の光が入るように金網の屋根と壁を等間隔に立てた柱に固定して小屋を作っていく。
「わたくし、くい、うちます!」
「よー、おうえんする」
自分の背丈よりも高い杭を飛び上がって打って柱を固定するファンヌにヨアキムくんが次の柱をミカルくんとダンくんと運んできて応援している。リンゴちゃんは畑を見回って雑草を食べていた。
小屋が出来上がると中に苗を植えて水やりをする。
子どもばかりだけれど広くない畑なので十分に世話ができた。
作業が全部終わって子ども部屋に戻るとリーサさんがカスパルさんとブレンダさんに勉強を習っていた。
「辞書を引く習慣をつけないとダメですね」
「辞書はこれを使ってくださいね」
「こんな高いものを、良いのですか?」
そうなのだ。
カスパルさんは気軽に辞書をリーサさんに渡したが、辞書もだが本は手軽に貴族以外が手を出せる価格ではない。特にリーサさんは今まで貯めていたお給金を里帰りのときに兄弟たちのために全部あげてきてしまっていた。
「書庫も自由に使ってくださいね」
「書庫も!?」
リーサさんだけに注目していたけれど、もしかすると使用人さんの中には同じように教育を受けられずにいて今勉強したいひとがいるのかもしれない。
「としょかんができるまで、しようにんさんにしょこを開放するのはどうかな?」
「図書館ができても、使用人さんは気軽に外出できないよ」
「そうだよね……」
それにこの問題はこのお屋敷だけには留まらない気がする。
学ぶ場を得られなかったひとたちに救済を。
それもまた私たちの直面する問題だった。
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