9.リーサさんの家庭教師
私はまだ7歳になったばかり。
誰かに恋をしたこともなければ付き合ったこともない。特別に大好きなひとと言われれば浮かぶのはお兄ちゃんでそれもただの兄弟愛でしかない。
カスパルさんはリーサさんのどこを好きになったのだろう。
一貫しているところ、子どもたちへの対応、自己主張をはっきりとするところ、できないことも自分なりに精一杯に頑張るところ。
物心ついたときからずっと世話をしてくれているリーサさんについて私はたくさんの情報があるが、カスパルさんがこのお屋敷に来たのは去年の秋から。そんな短時間で恋とは芽生えるものなのだろうか。
部屋に戻った私はお兄ちゃんに相談する。悩んだとき、困ったとき、壁にぶち当たったときには、いつだってお兄ちゃんに一番に話すことにしている。
「リーサさんのこと、どう思う?」
「カスパル叔父上が使用人と遊びで付き合うような人間じゃないとは思ってるけど、身分的に迫られたら拒めないだろうしね」
「リーサさんがあぶない!?」
「さすがに叔母上もいるんだから無体なことはしないと信じてるよ」
カスパルさんは26歳、リーサさんは23歳。年齢的には釣り合うと思うのだが難しい単語も読めない状況でオースルンド家に嫁いでも周りの貴族たちに気後れしたり、苛められたりしないか心配でならない。何よりもずっと面倒を見てくれていたリーサさんがいなくなるのは私的にも寂しいし、ファンヌやヨアキムくん、それにエディトちゃんにはリーサさんが必要だ。
新しい乳母が来ても仲良くできるか分からない。幼い頃から育ててくれた乳母というのは子どもにとっては特別な存在なのだ。特に両親が育児を放棄した私やファンヌやヨアキムくんにとっては。
「リーサさんは『分からない』って言ったの。おてがみを読みたいかどうか分からないって」
「気持ちを知ってしまうのが怖いのかもしれないね」
「みぶんってそんなに大事なもの?」
ビョルンさんはサンドバリ家というアンネリ様の妹の嫁いだ貴族の家の息子でアンネリ様の従弟だった。ビョルンさんとカミラ先生との結婚話が持ち上がったときに、カミラ先生が「好きなひと以外とは結婚しない」と強固に言っていたのもあったが、ビョルンさんがカミラ先生に並んで劣らない家柄だというのも反対が出なかった理由である。
それに反してリーサさんは貴族の身分もない。普通の領民でこのお屋敷の使用人で12歳のときに売られるようにして来たから教育もきちんと受けていない。
「きぞくには教育が大事だよね」
「産まれた子どもが領主かその補佐になるかもしれないからね」
カスパルさんの気持ちが通じてリーサさんと結婚できたとする。そうなるとリーサさんが産んだ子どもはオースルンド家の子どもになって、魔術の才能次第では領主を継ぐ立場になるかもしれない。そうでなくてもカスパルさんはどこかの家に婿入りする予定はなくオースルンド領の領主の補佐として働くことが決まっているから、その子どももそれを継ぐ可能性が高い。
当然のように研究課程まで卒業しているカスパルさんとブレンダさん。それと幼年学校も碌に行けていないリーサさんとでは差がありすぎた。
「リーサさんに家庭教師をつけて、べんきょうを教えてもらうのはどうかな?」
「エディトの世話の合間に? 悪くないとは思うんだけど、誰が教えるかだよね」
ちょっと成績が良いとは言っても私は幼年学校の二年生、お兄ちゃんは魔術学校の五年生で私たちでは役不足なのは分かり切っていた。もっと優秀なひとが必要だ。
「お兄ちゃん、カミラ先生のところに行こう」
椅子から飛び降りる私が何か思い付いたことに言わずとも気付いてくれるお兄ちゃんは、頷いて手を繋いで廊下を当主代理の執務室まで歩いて行った。執務室の扉を叩くと話している声が聞こえた。
「カスパルったら、最近は気もそぞろじゃない?」
「そういうことを口にするブレンダこそ、仕事に集中できていないんじゃない?」
毎度のようにブレンダさんとカスパルさんは言い争いをしているようだ。
「オリヴェルとイデオンです。入ってもよろしいですか?」
「どうしました? 今は私たち以外誰もいませんよ。どうぞ」
お兄ちゃんが声をかけるとカミラ先生の声が返ってくる。扉を開けて中に入ると執務室にはカミラ先生、ビョルンさん、カスパルさん、ブレンダさんの四人がいた。結構広い部屋なのだが四人も大人がいて、私とお兄ちゃんも来ると狭く感じられる。
ビョルンさんが避けてくれて私とお兄ちゃんはカミラ先生の前に立った。
「リーサさんのことでお話があります」
「そろそろ来ると思いました。カスパルの件ですね。リーサさんは迷惑に思っているのでしょうか?」
「『分からない』と言っていました」
「分からない」、その言葉が決して否定的なものではないと私は考えていた。リーサさんの立場からして言えないこともたくさんある。それを踏まえて敢えて口にしない気持ちがあるのならば、むしろ希望がある答えなのではないだろうか。
「僕はリーサさんを困らせるつもりはないよ」
「使用人が主人にあたる貴族に迫られて困らないわけがないでしょ」
「僕は本気だ」
ブレンダさんに言われても表情を引き締めたカスパルさんに、私は一つの提案をしてみることにした。
「カミラ先生は私たちの家庭教師をかってでてくれたでしょう? カスパルさんはそれができませんか?」
「カスパルが、リーサさんに勉強を教えるの!?」
驚きの声を上げるブレンダさんに私は静かに「そうです」と答えた。
「カスパルさんは、リーサさんがどんなじょうきょうか、知った方がいいとおもうのです。ルンダールりょうのりょうみんの多くが今、そういうじょうきょうなのではないでしょうか」
当主代理としてカミラ先生がルンダール領を治め始めてから二年経つが、その前は私の父が当主代理としてアンネリ様が亡くなってから九年も治めていた。二年で取り戻せたものはあるけれど、九年間で失ったものは大きすぎる。
幼年学校にも碌に通えない貧しい家が増え、魔術学校の奨学金は打ち切られて貴族しか通えなくなって、学びの機会を得ることなく大人になってしまったリーサさんのようなひとがたくさんいたのではないだろうか。
その現状を知ることはルンダール領の当主代理の補佐として働いているカスパルさんにとっても勉強になるし、今後のルンダール領の再建の指針を立てるのに役立つに違いない。
私が説明すると、ブレンダさんが手を上げた。
「カスパルだけじゃ不安だわ。女性と二人きりにするなんて危ないし。私も同席する!」
「僕は紳士だよ」
「そういう意味だけじゃなくて、私も知りたい」
オースルンド領はとても豊かとは言えないが幼年学校も整備されていて、魔術学校や徒弟制度のある高等学校も整備されている。そういう場所から来たカスパルさんとブレンダさんにはルンダール領の現実を見てもらわなくてはいけない。
「叔母上、どうでしょう?」
「カスパルとブレンダの勉強にもなりますし、良いと思います。二人ともやりすぎないように気を付けるように」
どうしてもこの二人は競い合ってしまうことがあるから、教材にお金をかけすぎたり、リーサさんに教えるのを競ってリーサさんを置いてきぼりにしたりしないようにとカミラ先生は重々注意を促した。
リーサさんにはこれからエディトちゃんにお乳をあげに行くカミラ先生が説明するという。
「どうせきしてもいいですか?」
「イデオンくんの考えたことですから、同席してください」
「僕は……席を外しますね」
「オリヴェル、恥ずかしがることはないのですよ。あなたは私の甥なのですから」
エディトちゃんにお乳をあげるときにはお兄ちゃんはできるだけ席を外すようにしていた。女性の身体を見るのが失礼だということは私も分かっているが、カミラ先生は大らかに親になるということを教えてくれて、ファンヌやヨアキムくんが授乳しているところを見たがると見せてくれる。私もドキドキするけれどエディトちゃんが一生懸命お乳を飲んでいるところを見せてもらうと、赤ちゃんというのはこんなにも小さいのに必死に生きているのだというのがよく分かる。
子ども部屋に来ると泣いているエディトちゃんをリーサさんが抱っこしてあやしていた。足元ではファンヌとヨアキムくんが応援している。
「もうちょっとでおっぱいなの!」
「がんばって、エディトちゃん」
飲ませられるときには母乳で育てたいというカミラ先生の意志を尊重して、カミラ先生が抜けて来る時間にはエディトちゃんはミルクを我慢してカミラ先生がお乳をあげるまで待たされていた。
「リーサさん、カスパルのことですが」
「決して間違いを犯すようなことはしておりません」
「そうではなくて、カスパルとブレンダを家庭教師として受け入れてやってくれませんか? あの二人はルンダール領の現状をよく知りません。あなたに勉強を教えることで、あの二人を成長させてほしいのです」
お乳を飲ませながら視線はエディトちゃんに向けて、穏やかに紡がれるカミラ先生の言葉。
「わたくしが……」
戸惑っているようだが最終的にリーサさんは蚊の鳴くような声で「お受けします」と答えた。その顔が赤かったのは気のせいではない。
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