10.春先の開墾
雪の中を歩いていくと、靴の中に溶けた雪が入って、靴下が濡れて、じんじんと指先が痛む。防水の良い靴など、私もお兄ちゃんも与えられていなかった。手袋をしているから平気だと思った指先も、濡れて痛くて堪らない。
洟を垂らして、涙を堪える私を、お兄ちゃんは心配して、何度も部屋に戻るように促してくれた。
「僕だけで行って来るから、イデオンはお部屋で暖かくしていなさい」
「やぁの。おにーたんといっしょが、いいの」
寒さで鼻も耳も痛くて涙が出るが、それでも、私は絶対に譲らなかった。薬草畑も一面の雪に覆われて、先端だけ顔を出しているマンドラゴラの葉っぱが凍えているように見えた。
大きなスコップを持ってきて、お兄ちゃんが雪を掻き分けて、マンドラゴラを救い出す。黒い土が見えるようになると、静かだったマンドラゴラたちも騒ぎだした。
「びょええ」
「びぎょ」
「ぎゃぎゃぎゃ」
寒いことに文句を言っているようだったが、どうしてやることもできない。葉っぱが変色しているマンドラゴラもあって、お兄ちゃんは葉っぱに手を添えて意気消沈しているようだった。
「ぬいたら、だめなの?」
「収穫できるくらいまで、育ってないんだ。栄養剤がないから」
「ごはん、ないの……」
「それに、防御の魔術もイデオンにかけられない」
魔術学校に通い始めて一年目のお兄ちゃんでは、まだ栄養剤を作ることはできない。それぞれの魔術の特性に合わせて、一般教養として全魔術は教えるが、お兄ちゃんは特に薬草学を詳しく教えてもらっているはずだった。それでも、まだ一年生でお兄ちゃんは13歳。私にとっては大人のように大きく思えるが、まだまだ子どもと呼ばれる年だった。
「おにーたん、とうしゅさまに、いつなれるの?」
「本来なら、僕が成人したら……18歳になったら、この国では成人年齢になるんだけどね。その頃には魔術学校も卒業してるし、当主になれるはずなんだけど……」
私の父親が簡単に当主を譲るかどうか分からない。そのことはお兄ちゃんも感じていたようだった。父親は嘘を吐いてお兄ちゃんの存在をないものとしようとしている。
結果として夢に見た恐ろしい光景が、未来として確定してしまうのが、私にはとても怖かった。
「イデオン、内緒だよ」
「あい、ないしょ」
「僕は当主にならなくてもいいから、魔術学校の研究課程まで進んで、薬草学を修めて、この領地がまた薬草畑で潤うようにしたいんだ」
ルンダール家の当主になることを、お兄ちゃんは望んでいなかった。
当主になれば、私の父親に理不尽な目に遭わされることもないのに、どうしてと私は驚いてしまう。
「とうしゅさま、なりたくないの?」
「当主になると、母のように望まない再婚を迫られたり、貴族社会の煩雑なルールや因習に捉われて、自由に行動できなくなる」
「おにーたん……」
貴族社会の嫌な面は、3歳の誕生日でも、新年のお祝いでも、私は嫌というほど見せつけられた。両親がその中で、よく思われていないこともしっかりと気付いていた。
ルンダール家を立て直せるのはお兄ちゃんしかいないはずなのに、そのお兄ちゃんが当主になりたくないと言っている。
「当主にさせてもらえるか分からないし、研究課程には絶対進ませてもらえないだろうけどね」
悲し気なお兄ちゃんは、全てを諦めているようだった。
「わたち、とうしゅさまに、なれる?」
「ダメだよ、イデオン。なってしまったら、イデオンに非難が集中する……旦那様はそんなこと、気にしもしないだろうけれどね」
魔術を早く私に教えろという両親。
お兄ちゃんは病弱で、公の場に出られないという嘘。
血統的にも、魔術の才能でも、絶対に当主になれるはずのない私を、当主にしようとしているのではないか。
私の中で両親への疑いが生まれた瞬間だった。
社交界で嘲笑われて、白い目で見られて、それでも、ルンダール家の領地と収益を手放す気のない両親は、私に当主の座を押し付けて、自分たちの私腹を肥やそうと企んでいる。
「ちちうえ、わたちを、とうしゅさまに……」
「そうじゃないと思いたいけれど……」
「おにーたんは? おにーたんは、どうなるの?」
私が当主になってしまえば、お兄ちゃんはいらなくなってしまう。
その結果があの悪夢なのだとしたら、お兄ちゃんを殺すのは私の存在ということになる。
「いやー! おにーたん、しなないでー! やだー!」
「イデオン、落ち着いて」
「やぁー! おにーたんー!」
気付いてしまった事実があまりにも恐ろしくて、私は泣き喚いていた。ひっくり返って泣き喚く私を、抱き締めて部屋に戻ったお兄ちゃんは、温かなお湯で私の手足を洗ってくれた。タオルで拭いて、新しい靴下を履くと、冷たかった足が、少しはマシになる。
すんすんと洟を啜る私に、ファンヌが近寄って、頬を撫でてくれた。
「にぃに、じょぶ?」
「わたちは、へーき……あにうえが……」
「僕も平気だよ。体がすっかり冷えてしまったね。温かいお茶でも飲もうか」
甘いお茶を淹れてくれるお兄ちゃんに、私の洟と涙は止まらなかった。
雪が溶けて、暖かくなってくると、薬草畑の開墾からまた始める。去年取っておいた種も、お兄ちゃんは出してきた。
「たね! ……まえのたね、どうしたの?」
「去年の種は、魔術学校の授業で余ったのをもらったんだよ」
「せんせー、やさしい?」
「うん、僕の境遇を知っていて下さるから、優しくしてもらってるよ。今年からは、僕が収穫した種を植えられるね」
お屋敷では冷遇されているお兄ちゃんだが、魔術学校では成績も優秀で、先生たちはお兄ちゃんの境遇に同情して優しくしてくれていると聞いて安心した。
去年の要領で、畝に指で穴を掘って、そこに種を入れていく。種を入れた後は埋めて、そっと如雨露で水をかける。
「凄いね、イデオン、去年のことをちゃんと覚えてるんだ」
「おぼえてるよ。おにいちゃんがおしえてくれたから」
もうすぐ4歳の誕生日が近くなって、私はかなりはっきりと喋れるようになってきていた。
「にぃに、ふぁー、すゆ」
2歳の誕生日が近いファンヌも、語彙が増えて来た。お兄ちゃんが土を耕して畝を作って、私が種を撒いて、ファンヌが如雨露で水をやる。三人の息がぴったりで、作業は早く進んだ。
「イデオンもファンヌも、素晴らしい働き手だね」
「おにいちゃんも、ちからがつよくて、かっこいいの」
「すばらち」
兄弟で言い合って笑って和やかに部屋に帰ると、そこにいた人物に、私たちは凍り付いた。
ずっと顔を出さなかった両親が、乳母に説教をしている。
「イデオンとファンヌの面倒も見ずに何をやっているの!」
「二人はどこに行ったんだ」
「オリヴェル様と、朝の散歩でございます」
「オリヴェルに任せて、二人に何かあったらどうするのだ!」
大きな声で怒鳴り散らす父親の顔は赤い。息が酒臭い気がして、私は顔を顰めた。私とファンヌとお兄ちゃんが戻って来たことに気付いて、母親が私に近寄って来る。
「イデオン、魔術は教えてもらっているの?」
「やぁー! まじゅつ、きらい! ぜったい、しないー!」
「なんて聞き分けのない子でしょう。オリヴェル、お前が傍にいるからじゃないの?」
「ははうえ、きらいー! ちちうえも、きらいー!」
あっちが大声で怒鳴り散らしているのだから、どこかに行けという思いを込めて、私も精一杯の金切声を出して、両親を威嚇する。
「いやー! やー!」
ファンヌもそれに加わって、子ども部屋は大騒ぎになった。
「オリヴェル、魔術学校の学費を出しているのが誰か、ちゃんと覚えておくんだな!」
煩さに耐えかねたのか、捨て台詞を吐いて両親が出て行ってしまうのに、私はぜいぜいと肩で息をしていた。こんなに大声を出したのは、初めてのことで、心臓がどくどくと脈打って、息が整わない。
「守ってくれたんだね、イデオン、ファンヌ」
はぁはぁと息を切らせているファンヌと私を、お兄ちゃんが纏めて抱き締めてくれる。
これで両親の私に対する心証が悪くなったとしても、それも思う壺だとしか考えられなかった。
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