10話 鈴音の一週間
今回はかなり長めです。
さかのぼること一週間ほど前。
5月20日。
「ただいま~」
鈴音は扉を開けた。
最近、家に入るたびに足取りが少し重くなる。
みんなと話しているから、いくらかまし、な気がするが。
「……今いないのかな」
リビングからは何も聞こえてこない。
普段ならばこの時間には家にいるのだが。
仕方なく二階に上がり、ピアノのある部屋へと向かう。
鈴音の母は、この場所でピアノ教室をやっている。
その影響で鈴音も物心ついたときからピアノに触れてきた。
それから十年以上、ほぼ毎日鈴音は練習を続けていた。
いつものように椅子に座り、ふたを開ける。
鈴音の家で長い間使われているグランドピアノだ。
人差し指で一つの鍵盤を押す。
わずかに鍵盤同士がこすれる音がした後、少し遅れて「ド」の音が響く。
指を放しても、その音はまだ少しだけ響いていた。
その音が聞こえなくなると、いよいよ、手を構える。
軽く息を吸ってから、その曲を弾き始めた。
今練習している曲はテンポが速く、さらに手の動かす量も多い。
最初の一分ほどは大丈夫なのだが、それ以降は急に難易度が上がる。
そして鈴音は、ここ数日、毎回そこで失敗していた。
ダンッ!
「……あぁ、またやっちゃった!」
これで一体何度目か。
最近はどうもうまくいかない。
だが諦めずにもう一度、失敗。
もう一度、失敗。
半ばヤケになりながらピアノをたたき続ける。
「もう、なんで! なんでできないの!」
ストレスが溜まっているせいで、テンポを落とすなどといった基本的な練習をすること自体、鈴音は忘れかけていた。
もう一度始めようとしたときだ。
「鈴音! ちょっと降りてきなさい!」
すると、下から母の呼ぶ声がした。
もはや練習とすら呼べないようなそれを中断すると、ドアから顔だけを出した。
「……なに?」
「いいから、ちょっと降りてきて!」
部屋の明かりも消さず、鈴音は部屋を出た。
「鈴音、さっきの音は何?」
「別に、練習してただけだけど……」
「あれのどこが練習よ! あんなの、ただ適当に鍵盤を叩いてるだけじゃない!」
「そ、そんな言い方ないでしょ!」
ついカッとなって言い返す。
だが、母の言葉は図星だった。
「じゃあ、なんであんなに力んでたの?」
「そ、それは……」
不意に、母の声に別の感情が含まれる。
「あなた、最近何かあった?」
「……」
それも図星だった。
後輩がまったく指示を聞いてくれないこと、ピアノの曲が思い通りにいかないことに、鈴音は悔しがり、そしてイラついていた。
「それはママには関係ないでしょ! ほっといてよ!」
だからつい、声を張り上げてしまった。
母は一瞬目を見開いたように見えたが、すぐに元に戻る。
そこに、先ほどまであった心配するような感情は見て取れなくなっていた。
「……分かったわ。じゃあ何にも触れない」
母はため息交じりにそう言ってきた。
それで話は終わりだと思った鈴音は席を立つ。
「ピアノ、当分弾かなくてもいいわ」
「……え?」
鈴音の足が止まる。
一瞬、母の言っていることが理解できなかった。
「だから、ピアノ弾かなくてもいいから。あなた、ほっといてほしいんでしょ。ならいいわよ。でもその代わり、ピアノには触らせないわ」
その言葉で、ようやく鈴音は母の言葉を理解した。
きっと母のことだ。隠れて弾いていても見つかるだろう。
ということは、ここからしばらく、ピアノに触ることはできない。
それに鈴音は、ここまで怒った母を鈴音は一度も見たことがなかった。
そう思った途端、目元が熱くなる。
「そ……そこまですることないじゃんかぁ……」
先ほどまでの威勢は鈴音の中で消えてしまう。
その代わり、胸に穴が開いてしまったかのような気分にさせられた。
そんな鈴音の言葉に母は目もくれず、キッチンへと向かう。
鈴音はさらに重くなった足取りで、自分の部屋へと向かい、夕食も食べず、そのまま眠りについた。
翌日、気づけば昨日のことをずっと思い返していた。
(はぁ……あんな言い方しなければ……)
「鈴音、集中して!」
同学年の人に言われて我に返る。
「あ、ごめん」
今日の部活はずっとこんな調子だった。
ここ一カ月ほど、先輩は自分たちの練習が中心になっていた。
当然、質問すれば答えてくれるのだが、先輩たちの顔を見ていると、そんな気も失せてしまう。
それに対して後輩たちはいつもいつもろくに練習もしない。
注意しても返事すらしない。
今も、基礎練習中に雑談してばかりだ。
「ほら、みんなちゃんと集中して」
「「「……はい」」」
こんな風に、鈴音が何か言ってもダルそうな返事しかしない。
吹奏楽部では「返事」などの当たり前のことを徹底しているはずなのに。
基礎練習も終わり、一年生たちは自主練習になる。
最初の一週間は教えていたが、今は一年生同士で教えあいながら練習している。
三人は教室を出て、となりの準備室まで歩いて行った。
「鈴音、一年の様子見てくる」
しばらくしてから、鈴音はそう言って教室を出た。
そして、準備室の扉に手をかけた時だった。
「今日の鈴音先輩、ちょっとムカつく」
「分かる! だっていきなり『ちゃんと集中して』って、集中してなかったのは自分じゃん」
「それに、いっつも『返事して』って言ってるけど、あんなに声出すの恥ずかしいし」
「そもそも練習が面倒だって」
その後聞こえてくる笑い声。
ガラッ。
突然、目の前で扉が開いた。
「あ、先輩……」
扉を開けた後輩が気まずそうな顔をする。
「ど、どうしたの? 鈴音、練習見に来ただけだから、戻るね」
「ちょ、ちょっと、先輩……」
後輩の言葉も聞かずに、鈴音は足早に教室に戻った。
その後も、後輩たちの態度が戻ることはなかった。
日に日に鈴音の顔には暗い色がにじむようになった。
今は、誰かと話すことも億劫になっていた。
毎日重い足取りで歩き、その足取りのまま家に帰る。
ここ数日はあまり食事ものどを通らない。
みんなで帰ることすら、今はしんどい。
それでも、鈴音は必死で笑顔を作っていた。
きっと、心配させてしまうから。
自分が笑顔でいれば、きっとごまかせると思っていたから。