【2】WELCOM TO WORLD -異世界スターシア-
バケモノの鋭い牙がギラリと光った。
正面から飛び掛かってくると踏んでいた僕は、予想外の動きを前に反応が遅れる。
「(ダメだ、間に合わない……!)」
反撃、防御、回避――たった2~3秒間で次の行動へ移ることは不可能だ。
なぜ、僕はここにいる?
何のために生きている?
そもそも、僕は誰だ?
何も分からないまま終わるなんて、そんなのは嫌だ……!
バケモノの顔が目と鼻の先まで迫った時、これまた予想外の出来事が起こる。
「アォンッ!?」
鋭い牙で僕を噛み砕こうとしていたバケモノが、悲鳴と共に凄まじい勢いで右へ吹き飛ばされたのだ。
呆気に取られた僕はしばらく動くことができなかった。
心を落ち着かせるために深呼吸した後、木の枝を持ったまま状況確認を開始する。
「(これは……氷柱? しかし、いくら何でも大きすぎやしないか?)」
弱々しい呻き声を漏らしながら横たわるバケモノ。
その横腹には長く鋭利な氷柱が突き刺さり、鮮血で真っ赤に染まっていた。
さっきまで僕を食い殺そうとしていたけど、こんな姿を見せられたらさすがに可哀想に思えてくる。
「おーい、そこの君! 怪我は無いか!?」
力尽きつつあるバケモノを看取っていると、後ろの方から突然声を掛けられた。
それに驚いて振り返る僕。
「間一髪だったな……ボクがいなかったら食い殺されていたぞ! 気を付けろ!」
視線の先に立っていたのは、銀色の鎧を身に纏うボーイッシュな女性であった。
彼女が差し出してくれた左手を握ると、華奢な僕の身体は勢い良く引っ張り上げられる。
「君、地元の子ならこの辺りがヤバいこと、大人から散々教えられているだろう?」
この人が何を言っているのかはちゃんと理解できる……よかった。
もし、言葉さえ通じなかったらどうしようかと心配していたところだ。
「――なあ、聞いているのか!」
僕のポカンとした表情を見かねたのか、女性は少しだけ腰を落とし目を合わせてくる。
青緑色の瞳がとても美しく、それに見惚れていたせいで話の内容が入って来ない。
「……まあいい、『トトウルフ』の死骸に釣られて新たなモンスターが来るかもしれない。そうなる前に町へ戻ろう」
トトウルフ――それがあのバケモノの名前か。
どうやら、本当にオオカミの仲間だったらしい。
「歩けるな?」
そう言いながら「ついて来い」とジェスチャーを送る女性。
行く当てが無い以上、僕は彼女に従うカタチで「町」へ向かうべきだと判断した。
しばらく森の中を歩いていると、それまで無言だった女性が突然僕へ話し掛けてくる。
「そういえば……君の名前を聞いていなかったな」
名前……そうだ、僕は自分の名前を知らないんだ。
バケモノにさえ種名があるのに、僕はヒトであること以外何も分からない。
「えっと――」
「ああ、相手の名前を聞く前に自分から名乗るのがマナーだったな」
適当な名前をとにかく絞り出そうとしていると、女性がこちらへ向かって微笑む。
「ボクの名前はマーセディズ、王都のギルドに所属している騎士だ」
彼女――マーセディズが鎧を身に纏っているのは、正真正銘の女騎士だったからである。
鎧の左肩にあしらわれた「2本のサーベルと白いユリの花」がギルドとやらのマークなのだろう。
「僕は……」
ダメだ、名前だけ思い出せない。
それっぽい人名をでっち上げるんだ。
何か……何かないのか!?
ジェレミー――。
脳裏を掠める一つの言葉。
これが……僕の名前なのか?
「僕は……ジェレミーといいます……」
そう考えるよりも先に僕は声を発していた。
「ジェレミー? あまり聞き慣れない名前だな」
訝しげに僕の顔を覗き込むマーセディズ。
あ、これはマズったかもしれない。
彼女の名前も十分珍しいと思うが、「ジェレミー」のほうがそれよりもレアだったなんて。
しばらく首をかしげていたマーセディズだったが、彼女は笑いながら僕の肩をポンっと叩く。
そこそこ大きな剣を背負っているだけあり、色白な手は意外なほどガッシリしていた。
いや、むしろ僕の手が細すぎるというべきか。
「まあいい、珍しい名前のほうが逆に記憶に残るかもしれないな!」
どうやら、これで僕の名前は決まったようだ。
記憶が蘇らない限り、これからは「ジェレミー」として生きていくことになるだろう。
そして、最も重要な事実をマーセディズへ伝えなければならない。
「名前は覚えているんです。でも……それ以外の記憶が全く思い出せない」
僕はこの森の中で目覚める以前の記憶が無いこと、「ジェレミー」という名前さえ本名かは分からないことをマーセディズへ伝える。
「ふむ、俗に言う『記憶喪失』というやつか」
彼女の反応は意外なほど冷静だ。
「しかも、君の着ている服は『スターシア』の物ではないと見た」
マーセディズの指摘で初めて気付いたが、僕は自分の衣服をまだ一度も調べていなかった。
上は3本線をあしらう肩章が付いた、少しぶかぶかな白いドレスシャツ。
下もやはりサイズが合っていない黒色の長ズボン。
足元に目を向けると、真っ黒な革靴が陽の光を反射している。
そう、これが僕の服装だ。
マーセディズの服装と見比べてみる。
ヴァイタルパートを守りつつ身軽さを重視したと思われる銀色の鎧を着込んでおり、関節部以外の四肢はしっかりと防御されている。
ガントレットは腰回りにぶら下げているが、その代わりとして黒いオープンフィンガーグローブをはめているようだ。
そして、背中には騎士に相応しい立派な剣と盾が携えられていた。
一つ気になる点があるとすれば……モンスターを倒した氷柱はどこから出したのだろうか?
「さっきの氷柱か? あれは『マギア』だ、見れば分かるだろ――と言いたいが、記憶喪失なら知らないかもな」
マギア――。
極めて簡潔に説明するなら、マギアとは「スターシア」における「魔法」である。
マーセディズに限らず「スターシア」の住人にとっては生活に根差す存在らしいが、当然ながらジェレミーは全く分からない。
彼女曰く「スターシア人なら何かしらのマギアを扱えるはず」とのことだが……。
「(不自然な服装に重度の記憶喪失……もしかすると、だな)」
町へ戻るまでの間、マーセディズはジェレミーから可能な限り情報を聞き出した。
彼の服装と言動から導き出された結論――。
それが正解だとした場合、残念ながらマーセディズだけの力ではどうしようもない。
記憶だけでも復活すればありがたいが、自然回復には相当の時間を要することになるだろう。
……とにかく、今はジェレミーに「スターシア」で生きる術を叩き込む必要がある。
「見えるか、ジェレミー。あれが『チェックポイント』だ」
先行しているマーセディズが関所らしき場所を指差した。
彼女が指し示す先には2人の女性剣士が立っており、こちらへ向けて敬礼をしている。
どうやら、銀色の騎士は他の剣士からリスペクトされるほどの存在らしい。
「ようこそ、スターシア王国最南端の町『グッドランド』へ。とりあえず、君の身の振り方を決めなければならないな」
そう言いながらニッコリと笑うマーセディズ。
スターシア王国――。
それが、僕がいる世界の名前だった。