落葉(らくよう)
ミャア
先生、お帰りなさい
妻の声が聞こえた。
マンションに帰ると玄関先に白いネコがいた。
そして僕に向かって鳴いたのだ。
どうせ、どこかに行くだろうと思い玄関のドアを開けると、ネコは僕の足下をすり抜け、家の中に入っていった。
リビングに行くとネコはソファの上で丸くなっていた。
そのクッションは奥さんのお気に入りなんだよ
ネコは知らんふりだ。
僕は岡田和広、市内の中規模病院で形成外科医として働いている。
妻の名前は真由美、僕より2つ年上だ。
3ヶ月前、交通事故で突然妻を亡くした。
まだその事実を受け入れかねている状態だ。
僕たちは晩婚だった。
妻が結婚せずにいた理由を聞いたことはない。
僕は何故か縁遠く45歳まで独身だった。
職場の環境、人にも恵まれ仕事が充実していたのもある。
僕が妻となる真由美と出会ったのは、僕の職場だった。
担当していた入院患者が彼女の友人で見舞いに来ていた時だった。
初めて会った時の事は忘れたことがない。
漫画みたいだが、何か稲光が走ったようだった。
つまり、一目で彼女に惹かれてしまった。
何度か病室で会うことがあり、彼女の名前が真由美であることを知った。
そのうち彼女の友人は無事に退院し、彼女とも会うことがなかった。
今までにこんなに人と会えないことが寂しいと思ったのも初めてだった。
あれは春の土曜日の夕方のことだったと思う。
早目に仕事を終え、病院を出て駐車場に向かう途中だった。
神様のいたずらとは、こういうことなのかと思った。
前から真由美が歩いて来たのだ。
僕に気付いた彼女は、にっこり微笑んだ。
先生、こんにちは
あの時の僕にはきっと何かの力が働いていたに違いない。
今、この機会を逃したら、もう彼女と会えない。
そう考えると同時に彼女の連絡先を聞き出した。
今までしたこともない自分の行動に自分でも驚いたくらいだ。
そして、彼女とデートを重ね、徐々に週末は僕の部屋で過ごすようになった。
プロポーズした時の彼女の顔は忘れない。
1年ほど付き合い、僕は彼女を知れば知るほどのめり込んでいっていた。
彼女も僕を受け入れてくれていたと信じている。
いつものように、僕の部屋で過ごし、愛し合った後のことだった。
彼女の左手を取り、指輪をはめた。
彼女の大きな目がさらに大きく見開き、みるみる間に涙が溢れ出た。
指輪に口づけし、泣いていたのを覚えている。
宝石より僕にキスした方がいいよ、と言ったら泣きながら笑っていた。
プロポーズから入籍までは早かった。
僕はすでに両親を亡くしていたし、兄弟もいない。
彼女も両親は他界し、身内は妹夫婦と甥っ子だけだった。
簡単な顔合わせをし、その後入籍した。
彼女は結婚式など、派手なものはいらないと言っていた。
でも、僕は何か形が残るものが欲しかった。
フォトウェディングで写真だけでも、と彼女を説得した。
今更ウェディングドレスなんてと彼女は渋っていたが、なんとか受け入れてもらえた。
その時の彼女の姿は最高に美しく幸せそうに見えた。
その姿は今でもリビングのフォトビジョンに映し出される。
ネコはいつのまにか一緒に過ごす存在になっていた。
ネコを飼ったことのない僕は、職場のネコを飼っている人の助言に従い、ペットショップで必要なものを揃えた。
ネコは妻のお気に入りのクッションでほとんどを過ごし、いつのまにか、夜はベッドの妻のスペースで寝るようになった。
一度、寝ているネコを撫でてみた。
どうやら僕は気に入らない撫でかたをしたらしく、珍しくネコが牙をむいた。
真由美も本気で僕に怒ったことがある。
結婚して間もなく、僕が専業主婦になって欲しいと言った時だ。
私を家に閉じ込めるの、と。
僕は仕事と家庭の両立はしんどいだろうと、気を遣ったつもりの発言だった。
それは間違いだったらしい。
妻が僕との結婚を受け入れた時、彼女の中では両立は覚悟の上だったようだ。
コトッ
誰もいないはずの妻の部屋から音が聞こえた。
部屋に入るとネコがドレッサーの上にいた。
脚元に妻の愛用していたフレグランス、j'a doreのボトルが倒れていた。
ダメだよ
そう言いながら、ボトルを手にした途端に妻の香りが甦った。
妻が言っていたことを思い出した。
j'a doreはユニセックスだから男性でも合うのよ、と。
妻はフレグランスが好きで集めていた。
フレグランスを作る教室にも通っていたくらいだ。
集められたフレグランスは、今もケースに綺麗に並べてある。
さて、これらをどうしようか。
僕が考え込んでいるうちにネコは部屋を出て行ったらしい。
姿が見えなくなっていた。
病院から家に戻ると、相変わらずネコはリビングのソファで丸くなっていた。
妻の部屋のドアが少し開いていることに気がついた。
僕のいない間にネコが入ったらしい。
部屋の中に入ると本棚の一角の本が落ちていた。
まったく…
落ちた本を手に取るとそれは、アガサ・クリスティのミステリだった。
妻はミステリが好きだった。
とりわけクリスティを好んで繰り返し読んでいた気がする。
オリエント急行殺人事件だったか、妻が得意気に、この小説はオリエント急行に乗り込む時の描写に犯人が誰なのかヒントが書いてあるのよ、とか言っていた。
妻の言葉が正しいかどうか、確かめてみるとしよう。
ガタガタッ
書斎で仕事をしていると、リビングの方から大きな音がした。
ネコが何かを壊したのかもしれないと思い、慌てた。
リビングにいくと、派手にCDが撒き散らかされていた。
ラックの倒れる音だったのか。
妻は音楽が好きだった。
これらのCDもほとんどが妻のものだ。
クラシック、ロック、ジャズ、なんでも聴いていた。
本人がピアノを弾くからか、ピアノがメインのものが好きだったように思う。
ジャズなら、オスカー・ピーターソンだ。
かき集めているうちにふと目にとまったのが、ディック・リーのシークレットアイランドだった。
これも好きでよく聴いていた気がする。
プレーヤーにディスクを入れ、プレイボタンを押した。
そうだ、このアルバムだ、と思った。
妻はこれを聴くと南国を気ままに旅している気分になると言っていた。
これをBGMに片付けよう。
ネコはソファでくつろいでいる。
珍しくネコが僕の足元にきて、丸まった。
事故のあった日の朝、いつも通り妻は微笑んで、
先生、いってらっしゃい
と手を振ってくれた。
それが僕が見た息をしている妻の最後の姿だった。
事故の連絡を受け、搬送先の病院に僕が到着した時には、妻は息をしていなかった。
その後の事はあまり覚えていない。
その時から僕の時間は止まってしまい、心にぽっかりと穴が空いたようだった。
妻の妹に連絡した事は微かに記憶がある。
きっと葬儀の手配もしたのだろう。
警察から事故の話を聞いたはずだ。
でも、何もかもよく覚えていない。
妻の死後、あの日の事を思い出すのは初めてだ。
ネコと過ごすようになって、僕の中で何か変わったのだろうか。
少しずつだが、時計の針が進み出したような気もする。
その日、遅くにベッドに入ると珍しくネコは起きていた。
ミャア
先生、もう大丈夫よね
妻の声が聞こえた。
そのまま眠ってしまったらしい。
翌朝、ベッドの隣にネコの姿はなかった。
リビングも他の部屋も探したが、どこにもネコはいなかった。
君は本当に逝ってしまったんだね。
初めて言葉にして言った。
涙が自然と溢れてきた。
真由美、君と出会えて僕は幸せだったよ。
僕は君を幸せにできたのかな?
今日は君の好きだったピーターソンの演奏を聴きながら過ごそう。