春風に揺れる
春の日差しは緩やかに、風は頬を撫でていく。
俺は今年も、この喜ばしい季節を迎えることができた。
あの時死んでいてもおかしくなかったんだ。やはり彼には感謝してもしきれない。
★
まだどこかに冬の空気を残しているようなブナ林に暖かな風が吹いていた。木々の葉と共に俺の羽を揺らす。こんな日は何もせずにのんびりしていたいな。
「キツツキのくせに木を突かなくていいの?」
窓枠に留まった俺を見てユキが言った。
俺は平凡なクマゲラである。弱っちいアカゲラの世話をしながら暮らしているが、こうして人と暮らすインコとも交流がある。
「別に毎日毎日突いてるわけじゃない。おまえだって毎日毎日人の言葉の真似……してるか」
「言葉を話せばお姉ちゃんが喜んでくれるんだもの」
ユキは飼い主の日和のことをお姉ちゃんと呼んで慕っている。だから俺も彼女のことをお姉さんと呼んでいる。向こうにはただの鳴き声にしか聞こえていないのだろうけれど。いつもと同じように鳥籠の外にいるユキと他愛もない会話を弾ませる。こうして窓枠に留まって彼女と話をするのは俺の日課であるし、家の外に出ることのできないユキにとっては外の世界を知ることのできる会話なのだ。
日和の家の隣には一人暮らしのおじいさんがいる。彼こそが俺の命の恩人であり、このブナ林に住む動物皆が尊敬する存在であり俗にブナ林のボスとも呼ばれている。件のじいさん、陽一郎さんの真偽不明な武勇伝は掘り出せば掘り出すほど出てくるので語りつくすことはできないだろう。
じいさんの家の前に置かれた小鳥の餌台では、俺の同居人である白露が「ことりのえさ」を食べていた。今日はワシやクマは来ていないみたいだし、あいつの気が済むまで放っておいて大丈夫だろう。
「時雨さん、ユキさん、おはようございます」
大きな羽音と共に耳に心地よい低音が挨拶する。俺の隣に並んで留まったのは黒い影。
「オハヨ! 夕さん! 今日も格好いい!」
「おはよう、夕さん」
艶やかな黒が木漏れ日に光る。今まで色々なカラスを見て来たけれど、夕さんほど綺麗なカラスは見たことがない。異様なほど美しいと人間達に評されているのを聞いたこともあるが、妖しい雰囲気を纏う彼には謎が多い。
「お姉様も受験生ですね。我々が騒ぐのはよろしくないのでは」
「平気平気。お姉ちゃんにとって鳥の囀りなんて心地よいBGMだからね。あたし達はガンガン鳴いちゃって大丈夫」
へらりへらりと笑いながら言うユキを見て夕さんは苦笑した。ユキはこう言っているけれど、お姉さんの邪魔はしない方がいいよな。
「あ! 夕立さんも来てたんですね。おはようございます」
餌台から白露が飛んできて、俺と夕さんの間に留まる。
「今日は何か面白いことはあるんですか?」
「いえ、特にありませんね。私も面白い話を集めているわけではないので」
「そうですか」
「白露さんはまだお若いのですから、貴方の人生これからきっと面白いことがたくさんありますよ」
「夕立さんおじいさんみたいなこと言いますねえ」
はっとして夕さんが翼をうごめかす。この美形カラス、時々こういう感じになるんだよな。まだ青年って言って全然大丈夫な年だと思うけれど、何年も生きてきたみたいな……。
「ああ、あああああ、陽一郎さんと一緒にいることが多くて考え方が移ったのかもしれませんねええええ。あははははははは」
変な夕さん……。
劈くような鳴き声が聞こえたのはその時だった。振り返った俺達の目の前を小さな白と黒が横切る。
「何だ今のは」
「ハシブトガラですね」
漆黒の瞳を周囲の景色を吸い込むかのように深くして夕さんが言う。今の一瞬で見えたのだろうか。そして、先程の何かを追い駆けるようにしてヒヨドリが飛んで行った。ヒヨドリがハシブトガラを食べるなんて聞いたことがないから、何か理由があって追いかけっこをしているのだろう。気にすることはないか。
談笑に戻ろうとした俺達だったが、今度は鳥のものではない鳴き声が聞こえてきた。それも複数。動物として本能的に感じる恐怖がそこにあった。元々青いユキが更に青褪める。この辺りに飼ってる人はいないというのに、どこからかやってきたのだろうか。やつらの行動範囲は広い。
「逃げられたか」
茂みの奥から現れたのは数匹の猫だ。どうやら先程の鳥達を追い回していたようだ。
「あ、あそこにも鳥が」
「ちっちゃい方のキツツキとか簡単に捕まえられそうじゃない?」
「あーあ、お腹すいた」
ユキに続いて白露が青くなった。インコとアカゲラでは猫と戦うなんて無理だ。逃げるのが一番だが、ユキは家から出られない。窓枠まで上ってこられると厄介だな。
思案する俺の横で夕さんは涼やかな顔を保っている。よく言えば冷静さを保っているようだが、悪く言えば対処法を考えているようには見えない。
「あわ、あばば、どうしよう時雨さん。僕は逃げた方がいいですか」
「時雨! あんたどうにかしなさいよ!」
白露が窓枠から飛び上がったのを合図に、猫達がこちらに向かって走って来た。
「きゃー! どうにかして!」
ここで女の子を守ってやらなきゃ男が廃るってもんだ。
俺は窓枠から足を離して羽撃く。駆けてくる猫の頭や背中に蹴りを入れてやるが、あまりダメージを与えられている気がしない。この自慢の嘴で突いてやってもいいが口を血で汚したくない。これでもかともう一度蹴りを入れるが、別の猫に猫パンチされてしまった。しかし、この程度で揺らぐ俺ではない。クマゲラは日本に住む最大のキツツキであり、その大きさはカラスに匹敵する。腹を空かせた猫のパンチなどどうってことないのだ。
羽撃いて体勢を立て直し、猫を蹴飛ばす。仕方ない、嘴も使うか。
「時雨さんっ!」
白露の声に振り向くと、背後で猫がジャンプをしていた。このままだと上から押さえつけられて動けなくなる。そうなればさすがに俺でも対抗できない。しかし、今から動いたのでは間に合わない。
ああ、俺、ここで猫に殺されるのか。ユキのことも白露のことも守れないで……。
じいさんと出会ったのは車道だった。車に撥ねられて倒れていた俺を助けてくれたのがじいさんだ。あの人に出会えなければ俺はあの時死んでいた。あの人が救ってくれたこの命、こんなことで失うことになるなんて。
「ぼさっとするな! 時雨!」
体にものすごい衝撃を受けた。だが、これは猫の攻撃ではない。飛んで来たのは美しく黒い弾丸。少しだけ宙を舞って、俺達は折り重なるようにして地面に転がった。草の上に落ちた桜の花びらが飛び散る。
「夕さ……」
「馬鹿時雨っ! あれくらい躱しなさい!」
先程まで俺がぼんやり飛んでいたところに着地した猫が不服そうにこちらを睨む。
すぐに起き上がった夕さんが飛び上がり、猫達に蹴りを入れていく。普段の穏やかな様子からは想像できない足さばきだった。色々な街を見て来たと言っているから、意外と修羅場をくぐってきた人物なのかもしれない。
俺も体勢を立て直して加勢する。
猫と鳥の戦いが繰り広げられているところへ大きな影がかかった。人間だ。
「おい、何やってるんだ!」
人間は鞄を振り回して俺達と猫の間に割って入って来た。驚いた猫達が逃げていく。
「時雨と、し……夕立まで? 何があったんだ」
こいつは確かユキの飼い主であるお姉さんの同級生だ。名前は、何だったっけ。男が二人いるからどっちか分からないや。
「晃一さん」
夕さんが後退りながら呟いた。そうか、こっちは晃一か。
「見苦しいところを見せてしまい申し訳ありません……」
通じるはずがないのに夕さんは謝罪している。猫がいなくなったのを確認して戻ってきた白露が窓枠に留まると、それを合図にユキが口を開いて人の真似をした。
「ネコ、ネコ。コワイー! コワイー! ネコ! イヤー! タースーケーテー!」
鞄を肩に掛け直し、晃一は首を傾げる。
「淡雪が襲われそうになったのを守ろうとした、ってところか」
「ええ、そうです」
とりあえず一件落着だろうか。俺は乱れた羽を整える。
お姉さんは留守だが、晃一は何か用事でもあったんだろうか。しかし、それなら携帯電話でメールなり何なりすればいい話だ。わざわざ家までやって来てどうするんだ。
俺は窓枠に飛び上がって白露の隣に陣取ったが、夕さんは地面にとどまって羽繕いもせずに晃一を見上げている。
「あー、えーと、呼んでも来ないから何かあったのかなあって……」
なるほど、電話を掛けたがお姉さんと連絡が取れず、心配になってここまで来たのか。なんて優しいやつなんだ。
ちらちらと周囲を見回してから晃一は慌てた様子でその場を立ち去った。いいやつだと思ったがこいつやっぱり変だ。前に見た時も挙動不審だった。俺とユキと白露は呆然として後ろ姿を見送っていたのだが、手早く羽を整えた夕さんがまるで後を追うようにして飛んで行ってしまった。夕さんも何か用事かな。
残された俺達は談笑へ戻った。結局夕さんは戻ってこなくて、次に会ったのは日付が変わってからだった。このカラスは俺達といない時どこで何をしているのだろう。
★
桜が散り、地面をピンク色に染める。ゆるりと風に舞う花びら。
俺は長い長い冬を越えた春が好きだ。
あんたが呼べば、一人暮らしの窓辺にだってすぐに駆け付けてやろう。あんたのおかげで俺はまたこの季節を迎えることができたのだと報告するために。