浅田計 前編
彼の名が突然日本中に知れ渡ったのは、もう二十年も昔の話だ。しかし、二十年経とうとも、その知名度に衰えはない。内閣総理大臣、有名スポーツ選手、大御所芸能人、そんな名前と同じで、今ではテレビをつければ見ないことのない名前となっている。
和泉義顕、国内で最も普及している携帯端末『マニフェスト』の開発者であり、株式会社イズミの経営者の名前だ。
マニフェストは、元はイタリア語だったか。選挙が近くなると政党がいつまでに何を実現します、何は絶対しませんと、国民の票を得るために具体的な約束をし始める。日本では政権公約とも呼ばれるそれ。
ではない。
名前の由来などはっきりと分かるわけではないが、この場合のマニフェストはまず間違いなく英語の方だろう。「顕現させる」という意味の動詞でもある''manifest''が元の言葉としてしっくりくる。
何故なら、それは個人の持っている主義主張をダイレクトに伝達する力を持っているからだ。
当然だが主義主張は人の数だけ存在する。それらをカテゴライズし、顕現させ、個人の主張を通すことを主目的にした端末が『マニフェスト』である。この二十年の間に日本が大きく成長できたのは、この端末の普及に拠るところが大きい。
それまでの日本がどうだか知らないが、今の日本は若者から老人まで、およそ全ての国民が何かしらの主義主張を持ち、それを大切にしている。
だから、彼の名は誰もが知っている。今の日本を作った男の一人として。
夏休みに入れば、楽しいイベントが待ってると思っていた。
「あっつぅ……」
実際はどうだ。俺は駅から高校までの急な上り坂約一キロをタオル片手にだらだら歩いていた。道の脇に並ぶ街路樹ではひっきりなしにセミが騒ぎ、少し日陰になっているところがあれば羽虫がゆらゆら飛び回る。これは楽しいイベントなのか。そんなわけがない。むしろ辛い。
真夏の日差しの下、ゆっくり歩けば歩くほど余計に辛いということには気づいているが、どうも頑張って登ろうという気になれない。夏休みの最中に学校に呼び出されれば、さもありなんというものだ。
「ワンゲル部なら余裕そうだな……」
どうでもいいつぶやきを漏らす。見るでもなく見ていた足元で、ダンゴムシがアリに運ばれていた。
補習に呼び出されたのは夏休みの始まる三日前、一学期の期末テストの結果が全て返ってきた日だ。テストの結果は悪くない。少なくとも俺にとっては。何せどの教科も平均点の前後で、赤点は一つもなかった。得意教科が無いという意味では悪い成績なのは確かだが、だからと言って補習に呼ばれる程ではない。
しかし、そんな平均野郎の俺の名を、担任教師榊原は補習対象者として呼んだのだった。
教室にはすでに一人女子が来ていて、中列窓際の席に座っていた。俺が扉を開けたのに反応して肩を震わせ、前髪で上半分隠れた顔をこちらに向ける。俺は暑さで溶けかけの顔を微妙に動かして笑みらしきものを作ってから手近な席に着いた。
顔は見た覚えがあるが、名前は分からない。他クラスの女子、それも見るからに目立たなそうな見た目なのだから、知らないのも無理ないだろう。きっと相手も俺のことなど知らないはずだ。
それにしても、ギリギリに到着したつもりだったのだが、まさか今回の補習は二人だけなのか。たかだか補習なので無理にフレンドリーに接する必要はないとしても、内向的な女子と二人で授業など気まずくないわけがない。今ある席の距離感が、気まずさを象徴しているかのようだった。
女子は窓の外、無駄に青い空を眺めている。初めに顔を合わせてからずっとだ。こちらに顔を向ける気はもう無いらしい。
「お、二人とも待たせたな。んじゃ補習始めるぞ……ってなんでそんなバラバラに座ってんの? 仲悪いのか?」
待たせたなと言う割に、分針も動かないうちに榊原が教室に入ってきた。補習開始予定の二分前である。榊原は流石教師と言うべきか、教師だから当たり前と言うべきか、時間にシビアな方らしかった。
尚、俺も女子も席を移ることはしなかった。悪いも何も、仲そのものが無い。
「……まいっか、席は関係無いし。補習の内容は、分かってると思うが端末の扱いについてな。毎年一年生は情報の授業でやることになってる。進路指導にも使うんで真面目にやるように」
つまりここに来ていない一年は皆授業内で成功したってことか。この学校は学年七クラスで三百人弱いたはずだ。割合的に百五十分の一。まあ、今や日本の社会で必須アイテムとされているマニフェストを、まともに扱えない方が恥ずかしいってことか。さながら昔のパソコンのようである。
「浅田、返事」
「いや、なんで俺だけなんすか」
「担任のクラスだから贔屓してるんだよ」
堂々と言うな。
女子の方を見ると、口元に手を当てて顔を気持ち俯かせていた。微妙に笑っているように見えなくもない。
「んじゃ端末渡すから起動、それから学籍番号でログインまで、はいやって」
そう言って榊原は二人の生徒に端末を一つずつ渡し、自分も一つ持って操作し始めた。
受け取った端末は学校の備品で、少し古い型だ。手に馴染む薄い長方形、表に大きな画面があり、裏は白の無地になっている。形だけなら一昔前のスマートフォンに近い。
まずは指示通りに起動、明るい画面光とともにイズミ社のマークが現れる。それから共有端末用に表示されるログインフォームにタッチ入力で学籍番号とパスワードを入れ、ログインボタンに触れる。
少しの間を置いて表示がホーム画面になり、ログインに成功したことが分かった。
「よし、ログインが済んだな。んじゃ早速実習。まずはイズムの『顕現』から。黒野、やってみろ」
榊原が女子の方を向き、名前を呼ぶ。女子の名前は黒野というらしい。見た目も苗字も魔女っぽいな。名前はまだ分からないけど。
呼ばれた女子は端末を机の上に落としそうになりながら反応し、丁寧に両手で持ち直して額に近づけた。俺の座っている席からでは髪が邪魔で顔が見えない。何か祈るみたいにぎゅっと目を閉じていそうではある。
ばさばさばさっ。
慌ただしい音がして、黒野の机の上にそれが現れた。見た目は、端的に表せば鎖を纏った鳩。鎖は鳩の羽に絡みつくのではなく、土星の輪のように二重三重に交わって鳩の周りをゆっくりと回転しながら漂っている。
なんとなく地球ゴマを思い出した。
っていうか。
「え、なんでそんなすぐ出せんの? 補習組だろ?」
つい口から漏れた言葉に、黒野と榊原が同時にこちらを向いた。問いには榊原が答える。
「何故って、黒野は授業を風邪で欠席しただけだからな。実質浅田だけだぞ、端末を扱えないのは」
訂正、三百分の一だ。逃げ出さなかったのは褒められても良かったと思う。
自分の意見を持つことがそんなに大切だろうか。流されるのはそんなに悪いことだろうか。
俺、浅田計はそう考えるタイプの子どもだ。
主張を通すことを目的とした端末、『マニフェスト』が日本中に普及したからといって、それを理由に個人の主義主張を持つようにするのは、むしろそれこそ流されているということじゃないのか? 流行りに乗っているだけじゃないのか?
日本は民主主義、資本主義の国だ。個人の意見が重みを持つ仕組みの国だからこそ、誰と対立することもなく迎合し続けることはこの国においては精神的な死に近い。きっとかつての日本では「どうせ俺が言っても通らない」と主張を通すことを諦める人が多くいたのだろう。端末が瞬く間に普及した事実から考えると、それは実際簡単に想像できる。
とはいえ、その素晴らしいアイテムも、誰もが上手く使えるというわけじゃないだろう。今の『マニフェスト』はスマートフォンのような多機能携帯端末としても使うことができるが、それ以外の点では決して便利アイテムではない。ハサミやモノサシのような誰でも扱える道具ではないのだ。
理由は簡単だ。通常、主義主張は独り言ではない。もちろん誰に語るつもりもない主張も世の中にはあるだろうが、端末は自らの主張を効果的に相手に伝えることを目的としたものである。
相手に伝える主張なのだから、話し手と聞き手の両方が存在しなければ成り立たない。ローカル通信対戦のみ遊べるゲームのようなもの、と言えば伝わるだろうか。端末を持つ者同士でしか効果をなさないのである。
なぜなら、イズムを顕現できるのが端末を持つ者だけであるように、他人のイズムを認識できるのもまた、端末を持つ者だけなのだ。
まあ、普及率の面で言えば、その問題はとっくに解消されているようなものだが。
イズムは、現実に干渉するものではない。と言うと一部語弊があるものの、概ねそうだ。それも当然、イズムには形はあっても実体がない。無から有を作り出すことができないのは俺でも知っている。黒野が出したものが鳩の形をしていたのは、端末を起動して所持している者には少しの違いもなく同じに見える。
しかし、実際にそこに鳩がいるわけではない。端末が持ち主に「そこに鳩の形をした黒野のイズムがいる」という幻覚……いや、正確には共通幻想だったか、それを抱かせるのだ。やっていることは集団催眠に近いと思う。
ちなみに、共通幻想という言葉は俺の頭では意味が取れなかったため調べたところ、国や紙幣のように「そこに実際にあるわけじゃないのに誰もがあると認識することで成り立たせるもの」のことらしい。確かに国も都道府県市区町村も人間が勝手に区切ったものだし、紙幣は凝った印刷のただの紙に人間が勝手につけた価値だ。
だから、ただの幻覚、イメージであるイズムに現実のものを動かすといったようなことは出来ない。現実で音を立てることもできないし、光をさえぎることも反射することもできない。そこに存在しないからだ。
しかし、端末を持つ者にはそれが見える。音も聞こえる。触れることこそできないが、それを除けばそこにイズムが存在するとしっかり認識できる。
イズムの姿形は個人によって異なる。そりゃ主義主張は人によって違うのだから、それの顕現であるイズムが皆同じ形なわけがない。
多くは伝えるという意図のため生き物の形を取る。が、それでもバリエーションは様々で、鳩や猫のように現実にある生き物を模すこともあれば、空想上の生き物や全く見たことのない生き物が出てくることもある。中には自分の姿のイズムを出す変わった者もいるらしい。
ただ、適性の問題なのか、確固とした主義主張を持っていてもイズムを出すことができない者は、ネットを見る限りいないわけではないようだ。
「……時間か。浅田」
「終わりっすか」
「今日はな」
続くのかよ。
心中でぼやいて、端末を下ろす。
結局、黒野が出したようなイズムは俺の前には一向に現れず、九十分を無為に過ごした。ちなみに黒野は成功した時点で帰ったため、教室に残っていたのは俺と榊原の二人だけだ。
カバンを掴んで立ち上がり、端末を手渡しで返却する。窓の外を見ると、来る時より強い日差しが道路を熱していた。どこか寄って涼むか。こんな日くらい図書館に寄ってみてもいい。そんなことを思いながら教室を出ようとすると、真後ろから榊原に呼び止められた。
「浅田、待った」
「…………」
「露骨に嫌な顔するな。ま、ちょっと話そうや」
「……わかりましたよ」
返事をして、座っていた席に戻る。
「何の話っすか」
「いや、もうちょい前来いよ」
めんどくせえ。