第3話
すっかり日が落ちて人通りも少なくなった頃、小岩井屋の灯りがそっと消えました。それでもお店の奥にはまだ小さな電球が残っており、その下で店主が難しそうな顔をしながら机に向かっています。
恭子の仕事はもう終わっていましたので、いつもならここで二階の自室に向かう所ですが、その日はなかなかお店を離れようとはしません。そんな恭子に店主も気が付き、かけていたメガネを外して振り返りました。
「あら珍し、どうしたの」
すると恭子は言いづらそうにしながらも、少し興奮を抑え切れない様子で店主に伝え始めます。
「なんかさ、今日さ、その……お店に変な人が来てた」
その言葉を聞くなり店主の顔が険しくなり、腕を組みながら深いため息をつきます。
「アンタねえ、工藤さんの事そんな風に言うのやめなさい」
「えっ」
どうやら店主は「変な人」と聞いただけで特定の人物を浮かべたようです。恭子はすぐさまその人じゃない、今日はじめてお店に来た人の事だと伝えようとしますが、店主の説教はもう止める事ができません。
「だいたい工藤さんはアンタが子供の頃からずうっとねえ……」
なかなか店主の誤解を解けずに居ると、徐々に恭子の中で面倒くさいという気持ちが勝り始め、ついに店主が言い終える前にその場を離れてしましました。
背中から浴びせられる小言から逃げるようにして階段を駆け上り、自分の部屋へと飛び込みます。その後も二三言店主の声がしましたが、それを最後にしてようやく静かになりました。
店主が部屋まで追いかけて来ない事を確認すると、恭子は木製のベッドに腰を下ろして一息つきます。そこでようやく、手に持っていたある物の事を思い出しました。それは店主にあの男の話をしようと、店から持ちだしたものでした。
丸めていたそれをゆっくり広げると、紙と絵の具がパリパリと音を立てました。するとどこか懐かしい香りがし始めて、あまり思い出したくない記憶が鮮明に蘇ってきます。この絵を描いたのは、確か恭子が中学生だった頃の事、当時は何か賞を貰ったとかで学校に飾られたりもしました。その頃からでしょうか、疑うこともなく将来は画家になると思うようになったのは。もし、過去に戻って自分に声をかけられるのなら、恭子はこう言おうと決めている言葉がありました。
「やめなよ、恥ずかしい。分不相応だよ」
あたしは所詮、何者にもなれないんだと。
この小さな村から出る事も、この古臭い店から出る事も、できると信じていた全ての事は、当たり前のようにできないんだと。
あたしは所詮、何者にもなれない、ただの村の娘に過ぎない、何か人より優れたものなんて最初から何も――。
「へえ、そうなんですね」
「とても綺麗な青色で、思わず見入ってしまいました」
「この絵を描いた人には、とても綺麗な空が見えているのですね」
「恭子! いつまで寝てるの!」
いつの間にか眠ってしまった様で、恭子は店主の怒鳴り声に跳ね起きます。慌てて服を着替え、髪を整えていると、またもや店主の声が響いてきました。
「恭子! いい加減に起きなさい!」
「起ーきーた! 起きたから、少し待ってよ」
「まったく……、いつまでも子供の気分で居られちゃ困るわ」
なかなか直らない寝ぐせに業を煮やしながら、恭子は店主の言葉に引っ掛かりを覚えました。いつも何かある度に子供扱いする癖に、こういう時だけ大人扱いをする。本当に大人というものは、汚い生き物だと。
「恭子!」
「待ーってよ、寝ぐせが直らないの!」
「放っておきなさいそんなもの! もうお店、開ける時間過ぎてるのよ!」
寝ぐせを放っておけとは、店主は本当に自分と同じ女なのかと疑ってしまいます。しかし寝ぐせは直りそうになく、これ以上時間をかけても店主が怒るだけで、どうせお店に来るのは近所の老人ばかりだしと、恭子は諦めて階段を降りる事にしました。
店に入ってまず気がついたことは、これみよがしに飾られた絵のことでした。昨日まで飾ってあった絵を持ちだしたせいか、また別の絵が飾られています。それを今更どうこうするつもりもありませんでしたが、また昨日の「変な人」が何か言わないかと気がかりでした。でもそんな心配をよそに、「変な人」が現れる気配は一向にありません。出勤するサラリーマンの姿は徐々に見かけなくなり、制服姿の学生たちも店の前を素通りし、右に伸びていた影も気が付けば左に伸びています。いつまでも気にするものでもないと、恭子も気持ちを入れ替えて仕事に励むことにしました。
「あれっ」
その声がしたのは、外の景色が赤く染まった頃でした。まばらに入る他の客に混ざって、その声の主は絵の前に立ち尽くしていました。その人はしばらく絵を眺めたあと、恭子に気がついて顔を向けてきます。その表情は仕事の疲れが隠し切れない大人のようであり、宝物を見つけた少年のようでもありました。
「絵が、昨日のと違う!」
出ました、「変な人」です。恭子は接客の最中だったため一度は無視を決め込みましたが、その人は恭子の手が空くのを今か今かと待ちわびています。最後の客が出て行った後、彼は早足で恭子に近寄ってきました。
「あの、すみません」
彼がどんな話題を持ちかけてくるのか、なんとなく予想がついていたため、恭子は少し意地悪をすることにします。
「お客さま、商品はお決まりですか?」
「あ……っと、そうですよね。お薦めは何ですか?」
「うーん、こちらなんていかがでしょう?」
そう言って恭子が紹介したのは、お店で一番高い商品でした。大きな箱の詰め合わせで、よほどの贈り物でない限り買う人はめったに居ません。ばつが悪くなった彼が、あわよくば帰ってしまうことに期待してしまいます。いえ、恭子の中でははっきりと「帰れ、帰れ」を繰り返していました。
「なるほど、いいですね。ではそれを、五箱ください」
彼は値段に驚く素振りさえ見せず、むしろ注文した数に驚かされたのは恭子の方でした。慌てて電卓を叩いて、お会計を済ませます。
「ここのお店はどれも美味しいって、会社でも評判なんですよ」
「はぁ……そうですか」
「僕、最近この辺に引っ越してきまして。毎朝ここの前を通るんですけど、このお店が気になってて」
「へぇ……そうなんですね」
帰ることを期待した作戦は空振りに終わってしまい、恭子はすっかり戦意喪失してしまったようです。最後の小さな抵抗にと空返事を繰り返しますが、彼が話を止める気配はありません。
「ああ、もちろん、美味しそうだなって意味もありますけど、それ以上に気になっていたのは」
そして彼が視線を向けたのは、やはりあの絵の方でした。
「あそこに飾られている絵を見るのが、毎朝の楽しみだったんです」
「……そうなんだ」
「桔梗さんの、新作ですか?」
「へっ?」
「絵が、昨日のと違うから」
「あっ、ああーえーっと」
そういえば……と、昨日ついた嘘を思い出します。あの絵は恭子ではなく、桔梗という人が描いたものだと。
「……送ってくれるんです」
「送る?」
「ええ」
今にして思えば、嘘を取り消すのはこの時しかなかったように思えます。しかし恭子は、嘘に嘘を重ねて言いました。
「桔梗さんは、都会に出て、プロの画家になったんです。それからもこうして、たまに新作を送ってくれるんです」
新作もなにも、随分古いあの絵でプロの画家になんてなれるはずありません。それは恭子が、一番良く分かっていることでした。
「へえ、すごいなぁ」
彼の言う「すごい」とは、絵に対してのものなのか、画家になったという桔梗に対してのものなのか、恭子には分かりませんでした。でも少なくとも、寝癖の残る頭で店先に立つ恭子に向けられたものではないことだけは、はっきりと分かっていました。
画家の描いた絵、という色眼鏡で見れば、多少出来の悪い絵でも良く見えるのでしょうか。彼は目の前にある絵を褒め始めます。そして最後に、こんなことを言い始めました。
「……で、特にここ、この葉っぱの色がすごく良い」
「あ、それあたしも思います」
それは恭子が特にこだわっていた所でした。ある気持ちに溢れていて、その気持ちと公園の木が似ていると感じて筆を走らせたものです。
「良いよね、好きだなあ本当に。光の当たり具合というか、うーん」
「何か変ですか?」
「いや、なんだろう、この色には喜びを感じる」
「喜びって……」
「変かな、でもなんだろう、嬉しそうなんだ」
「……へへ」
「あ、なんか店員さんも嬉しそう」
恭子は寝癖を手で押さえながら、絵を描いた時と同じ気持をこらえきれずに言いました。
「姉のように思っていた人なので、自分のことのように嬉しいんです」