第2話
その人はいつも、窓からお店の中を覗いていました。あれで隠れているつもりなのか、顔を半分だけ覗かせてはサッと戻し、何度かそれを繰り返した挙句に中へと入ってきます。
そして薄くなった頭を撫でながらカウンターへと近づき、だらしない声を漏らしつつ恭子に語りかけるのです。
「でへへ、今日も恭子ちゃんは綺麗だねぇ、恭子ちゃんだけに今日もってね!」
常連の工藤さんに冷ややかな視線を向けた後、恭子はため息をついてからまるで工藤さんの姿を見なかったかのようにして作業に戻ります。
「たはー、また恭子ちゃんを怒らせちゃったかなぁ」
この人はいつも「怒らせた」とか「ごめんよ」と口にはするものの、からかうような物言いを改める事はありません。恭子が物心がつく頃からこの人はこうで、きっと本人にとっては「気のいいおじさん」のつもりなのかもしれません。恭子にとっては「鬱陶しいじいさん」なのですが……。
「恭子ちゃんさぁ」
恭子がいくら無視をしても、工藤さんはめげずに語りかけてきます。
「お見合いとか、してみる気は無いかな?」
お見合いと聞いて、恭子は血の気が引いていくのを感じました。まさかこの60歳はゆうに越す年老いた薄毛の男性が、仮にもまだ10代の恭子とお見合いをする気で居るのでしょうか。正気の沙汰とは思えません。
「24歳のさぁ、会社勤めの人なんだけどさぁ」
そう言って工藤さんは一枚の写真をポケットから取り出します。その写真を見るよりもまず先に、相手が工藤さんではない事にホッとしました。だからと言って、恭子はカウンターに置かれた写真を見る事はしません。24歳の会社勤めであろうと、60歳越えのおじさんであろうと、どちらにせよまだ19という歳でお見合いなんて考えたくもありませんでした。更に言えば、そういう話を平気で持ち掛けてくる田舎臭い考えが心底嫌いでした。
「だめかなぁ?」
「……ねえ、おじさん」
この面倒くさい話題を終わらせるためにも、めずらしく恭子から話題を振ります。
「いつもお店に入る前、何を見てるんですか?」
工藤さんは思わぬ話題に慌てふためき、何度か「んんっ、んん~」と考えてからようやく口を開きます。
「そう、絵だ、あの絵を見ていたんだよ」
あの絵と言って指差された先には、母が拾って勝手に飾っているあの絵がありました。恭子はふと気になって、こんな事を聞いてみます。
「どうですか、あの絵」
工藤さんは一度絵の方を向いてから、あまり時間を置く事もなく言いました。
「普通の絵だよねぇ。たはは、本当は恭子ちゃんが居るかどうか見てたんだよぉ、見え透いた嘘だったかなぁ」
普通の絵。決して悪く言われた訳でもないその一言が、恭子にとっては一番辛いものでした。恭子は何も言わずに店の奥へと入っていき、一人取り残された工藤さんがぽつりと「難しい年頃だなぁ」とつぶやいたのを聞いていました。
そんな事があってからしばらくが経った後、またもや窓からお店の中を覗く人影に気が付きます。その人はわざわざ足を止めて窓に向き合い、ひげも生えていない顎を親指でさすっていました。
でも彼は決してお店に入ろうとはせず、少し迷った素振りを見せつつもお店の前から立ち去っていました。そんな客は他にも大勢居たため、恭子もあまり気に留めないで居ましたが、数分後にまた彼は姿を現します。
恭子はその人物を観察する事にしました。彼の視線の先はカウンターの丁度隣に向いており、そこには人の高さ程の棚が在ります。棚にはいくつもの商品が置かれていますが、彼の視線はその棚よりも少し高い位置に向いている気がします。そこにはもう商品が無く、ただ壁と1枚の絵が在るだけでした。
恭子は「ああ、またか」と思います。また、絵を見て馬鹿にする奴が来たのだと。これが猫や野良犬なら大きな音でも立てて追い払ってやる所ですが、人間相手にはせいぜい睨みつけるくらいしかできません。ですから恭子は、精一杯それをしました。
そんな刺々しい視線に気づく事もなく、彼はじいっと絵を見つめています。しばらくしてなんだかバカバカしくなった恭子は、一旦彼の事を忘る事にして、やらずに居ては後から店主がうるさいあれやこれやに手をつけ始めました。
こうして一度は存在を忘れかけたその人物を、恭子は嫌でもまた認識する事になります。なぜなら彼は、来ないと思っていた店の中に入ってきたのです。店の中で露わにしたその姿は、折り目のはっきりとしたスーツを身にまとい、少しだけ人よりも背が高いように思えました。薄い板が貼られただけの床には革靴の音が良く響き、一歩一歩彼が近づいてくるのが分かります。
仕方がないと言った様子で恭子は手を休め、相変わらずの小さな声で挨拶をしました。その声を聞いたためか、あるいは目的の場所に辿り着いたのか、彼は足を止めて恭子の方をまっすぐ見つめます。そしてゆっくりと腕を上げ、人差し指をピンと伸ばしました。何か欲しい商品があるのかと、恭子も指の先に顔を向けます。するとその先には、1枚の絵がありました。
恭子は身構えます。この人は商品を買う“ついで”ですらなく、わざわざ絵について何かを言いに来たのだと。それは良い風に期待する事もできたかもしれません。しかし、そんな期待をしても無駄だという事を、恭子は嫌というほど知っています。
あの絵は、そういった期待と一緒に捨てたものなのですから。
――普通の絵だね、面白みがない。
――いかにも世間知らずの田舎者が描いたって感じ。
――綺麗なんだけど、なんて言うのかな、なんにも心に残らないんだよね。
思い出したくもない言葉が恭子の頭に蘇ります。願わくば耳を塞いで逃げ出してしまいたい、そんな思いにかられながらも動けずに居る恭子に対し、彼は遠慮なく口を開き始めました。
「あの絵って」
恭子は彼の言葉を遮って、とっさにこんな事を言います。
「ああ、この店の娘さんが描いた絵ですね!」
店の娘とは自分の事ですが、恭子はこのように付け足します。
「娘さんは、桔梗さんっていうんですよ。あ、私は近所のただのバイトでして、へへ」
聞かれてもいない自己紹介に愛想笑いまでしてしまい、きっと今の自分の顔はトマトのように真っ赤だと思いました。そもそも恭子に姉妹は居ません、桔梗というのは昔絵を描く時に使っていた偽名です。恭子は自分が酷いことを言われるくらいなら、架空の人物が言われる方が良いと判断したのでしょう。
さあ、これで恭子の準備は整いました。あとは彼がどんな言葉を吐いても、見事に受け流してみせるつもりです。
彼は恭子がそれ以上何も言わない事を確認してから、再び口を開きました。
「へえ、そうなんですね」
そしてゆっくりと絵に視線を向けて、じっくりと時間を置いてから言いました。
「とても綺麗な青色で、思わず見入ってしまいました」
またゆっくりと視線を戻し、恭子に向かって恥ずかしそうに笑いかけます。
「この絵を描いた人には、とても綺麗な空が見えているのですね」
恭子がその言葉の意味を理解できずに居ると、彼は更に意味の分からない事を言うのです。
「僕は桔梗さんに、一目惚れをしてしまいました」
それが恭子と桔梗、そして彼、金森達也との出会いでした。