第1話
それは今よりもうんと昔のこと、まだテレビのチャンネルをダイヤルで変えていたような時代、山のふもとの小さな村に寂れた外見の和菓子屋さんがありました。
そのお店は車が通る道に面していましたので、どうにかお客さんの目を引こうと店主は様々な策を弄しています。お店の壁に綺羅びやかな装飾を施したり、和菓子で可愛らしい動物を作っては店先に置いてみたり、またある時にはお店の娘が描いた絵を飾ってみたりと。
そんな店主の努力を良くは思わない人物がおりました。それは飾られた絵を描いた張本人である、お店の娘の恭子でした。恭子は幼い頃からそれはそれは絵が好きな事で知られていましたが、大人になってからはすっかりその逆になってしまったようです。飾られた絵を恨めしそうに見ては、母親である店主に細やかな抗議を繰り返していました。
「……ちょっとお母さん、あたしの絵飾らないでっていつもお願いしてるでしょう」
バタバタと慌ただしく支度に追われていた店主は、娘の小言を浴びせられながらも手を休めることなく、また顔色一つさえ変えることなく言いました。
「まあ。その絵は私が拾ったものよ、ゴミ捨て場に落ちていたものよ。どうしようと、私の勝手だわ」
店主の言う通り、絵は恭子が十八歳を迎える際に捨てたものでした。それからしばらくの時が過ぎ去り、絵を捨てたことさえも忘れかけていた頃、こうして突然お店に飾られるようになったのです。一体いつ店主が絵を拾ったのか、それを今尚どこにしまっているのか、恭子は知る由もありませんでした。
「さあさあ、アンタも早く手伝いなさい、もうすぐ日が昇ってしまうわ。それともなあに、あの絵に未練でもあるのかしら?」
少し挑発的に出された店主の言葉に、恭子はいくつになっても乗せられてしまいます。
「未練なんてないから!」
「そお? じゃあ、この箱を並べて頂戴ね」
そう言って箱の山を渡す店主の顔には、勝ち誇ったような笑みで溢れています。沸々と湧き上がる怒りをぶつけるように、恭子は箱を並べるしかありませんでした。そうこうしている内にも空が白み始め、二人が働く小さなお店、小岩井屋にも朝がやって参りました。
恭子はおよそ客前に立つ人として相応しくない顔で、出入口の隣にある一つの窓を睨みつけていました。このお店は少し変わった構造をしていて、中から見て左手の角が斜めに削られており、その斜めの壁に大きな窓が設けられています。恭子の立つカウンターからはその窓を通して外の様子が見えるのですが、それは逆に言えば外からもお店の中が見えるという事になるのです。
では一体何が恭子を不機嫌にしているのか。それはお店に飾られた恭子の絵が、先ほどの窓から良く見える場所にある事でした。恭子はたまに足を止めて中を覗く人々が、自分の絵を馬鹿にして笑っている気がしてならなかったのです。実際その人達が絵を見て馬鹿にしているのか、本人に聞いた事が無いので真相は定かではないのですが、少なくとも恭子には身に覚えがあるようです。
そういった気持ちの延長でしょうか、ついついお店で買い物をしてくれたお客さんにも無愛想な態度をとってしまいます。本人もそれはいけないことだとは分かっていても、何度言っても絵を外さない店主が悪いと言って治そうとしません。
今も引き戸を開けて常連のお客さんが入ってきましたが、恭子は小さく挨拶をしただけで頭さえ下げません。常連さんはそんな恭子の態度に何か言う訳でもなく、薄くなった頭を撫でながらカウンターに近寄り商品を指差しました。
「このお饅頭、10個箱に入れてくれる?」
「……はい」
態度に問題はあるものの、恭子も一応は仕事をこなします。
「恭子ちゃん、今いくつになったっけ」
「……19です」
箱に饅頭を入れながら恭子が答えます。
「19かぁ、いいなぁ若いなぁ。若くて綺麗なんだからさぁ、もっとこう、笑顔で居なくっちゃ、いい人できないよぉ?」
饅頭がぎっしり詰まった箱をカウンターに叩きつけて、一度ため息をついてから恭子が言いました。
「箱代込みで、830円です」
「……たはは、怒らせちゃったかなぁ、ごめんよぉお釣りはいらないからさぁ、本当ごめんよぉ」
そう言ってそそくさと店を出て行く常連を見届け、恭子はまたため息をつきます。いい人ができない、なんて事は自分が一番良く分かっている事でした。それはこんな態度だからとか、こんな小さなお店で働いているからとか、そもそもこんな田舎に住んでいるからとか、様々な原因が浮かんではくるものの、そのどれもが恭子にとってはどうにもならないものばかりでした。だからきっと自分は一生このままなんだと、どこかで諦めてさえいました。
「ちょっと恭子、アンタまた工藤さんに何か言ったの?」
店主がお店の奥から顔を出すなり、恭子に注意します。工藤さんとは、先ほどの頭の薄い常連さんの事です。
「別に、いつも通りだけど」
「そのいつも通りがダメだって言ってるの、アンタもういい年なんだからしっかりして頂戴」
「はいはい」
店主はそれから二三言だけ告げると、忙しそうに店の奥へ戻って行きます。こんな事の繰り返しが、恭子にとって日常となっていました。睨みつける窓の先に、あの人が現れるまでは。