2 焙煎と再びのハンドピッキング
月曜日、丘咲珈琲焙煎所にやってきた羽重は、「さあ、行きましょう」と丘咲を外に誘った。
「えっ、出かけるんですか!?」
飲ませたいコーヒーがある、としか聞いていなかった丘咲はあわてて、
「ちょ、あの、十分待って下さい!」
と奥の部屋に消えた。すぐに階段を駆け上がる音。
やがて彼女は、白のカットソーに紺のスカート、黒のパンプスという格好で現れた。軽くだが化粧もしていて、シャツにズボンにエプロンだった先ほどと比べるとずっと女らしく見える。
会社の女性陣に比べたらずっと地味な格好なのに、焙煎士という職人として働く格好とのギャップが羽重を落ち着かなくさせた。
「言っておけば良かったですね、すみません。日本橋なのでほんの二駅です」
「日本橋……」
ベージュのショートトレンチに袖を通した丘咲とともに、羽重は地下鉄に乗った。落ち着かない様子で吊革を握る丘咲に、羽重は話を途切れさせないように話しかける。
日本橋に到着すると、彼は丘咲を案内して大きな商業施設のそびえる通りから裏手に入り、ある場所で足を止めた。
「ここです」
そこは一軒の店だったが、内装工事の最中で、一面がガラスになっている正面は内側からビニールが貼られていて中が見えない。
「どうぞ」
ガラス扉を開けた羽重に促され、丘咲はおそるおそる中に入ると店内を見回した。
珪藻土のようなものが塗られた白い壁は、目の高さにモザイクタイルが入っている。落ち着いた唐草模様のソファに鉢植えの緑、カウンターにはガラスのサーバーに陶器のドリッパーが載せられたものがいくつも並んでいた。マシンを使わず一杯ずつハンドドリップで淹れる、サードウェーブと呼ばれる流行だ。
「おかけになって下さい」
羽重に勧められて、丘咲はためらいがちにソファに腰掛ける。店の全体が見渡せる位置の席だ。
「あの、ここはもしかして」
「例のカフェの、一号店です。開店準備中なんですが、今のところどう思いますか?」
「ど、えっ、私が意見するんですか?」
「うちのチームが意図したところが伝わってるかなーと、確かめたいだけです。こそっと聞かせて下さい」
羽重は丘咲の正面ではなく、斜め向かいに腰掛けて、自分も視線を店内に巡らせた。つられて丘咲も改めて店内を見る。
「トルコとか……ええと、中央アジアのイメージ、なのかな……。西洋と東洋が混じっていて」
「そう、文化の交差点、という感じで」
「あ、そうか。ここのコーヒー豆、世界中から取り寄せるから……」
つぶやく丘咲は、すでに企画書を読み込んでいるようだ。
そこへ、白いシャツに黒いエプロンの男性がコーヒーを運んできた。丘咲が片手を軽くそちらに向ける。
「あなたに飲ませたいと言ったのは、このコーヒーです」
軽く頭を下げ、丘咲はカップを手に取った。羽重も自分のコーヒーカップを手に取る。
一口飲んだ丘咲は、目を見張った。
「あの、これ、私のコーヒー……?」
「はい。こないだ買わせてもらった豆を、ちょっと」
羽重はいたずらが成功した時のような顔で笑う。丘咲は戸惑った。
「飲ませたいって、これですか?」
「そうです」
うなずく羽重。
「海の向こうから来た豆を、焙煎士のあなたが焙煎して、うちのマスターが抽出して、文化の交差点という舞台に出たコーヒーです。どうかな、お客さん、喜びそうですか」
丘咲は、一度じっと羽重を見つめてから、もう一口飲んだ。
そして、店内を見回してからーーカップを置いた。
羽重は笑みを消して、返事を待つ。
片手を胸に当てて、丘咲はしばらく黙っていたが、やがて微笑んだ。
「……やっぱり、プロの方が淹れると全然違いますね。それに、このカフェの雰囲気も、異国の街角にいるみたい。飲み慣れている自分のコーヒーなのに、美味しくてドキドキして……何て言えばいいか。……きっと、お客さんにも喜んでもらえると思います」
羽重は軽く身を乗り出した。
「店で、お出ししてもいいですか」
「はい」
丘咲は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
夏の間、羽重は何度も丘咲珈琲焙煎所を訪れた。丘咲の焙煎の行程を一通り見学したり、彼の会社で用意した別の豆を持ってきて試したりといった風だ。
高温で一気に煎り上げると、酸味や苦みなど豆の持つ要素が強く出る。一方、低温でゆっくり煎り上げるとマイルドな味になる。その程度は羽重も知っていたが、焙煎機によっても季節によってもやり方が違うなど、様々な条件があるようだ。
「最初から煎るんじゃないんですね」
「はい、温めたり水分を抜いたりして、煎るのはその後です。時間を見て、豆の音を聞いたり色を見たりしながら、温度を変えて行きます」
羽重に教えるうちに、丘咲も徐々に大きな仕事を引き受けている自覚ができてきた。自分から色々と提案しながら、作業に没頭する。
ある日、羽重が焙煎所を訪れると、丘咲はハンドピッキングの最中だった。彼は、木箱の横にコロンと置かれていたものに目を留めた。
「それは、石ですか? 豆に異物が混じってることがあるそうですね」
「はい。結構大変なんです、石もそうですし木の枝とかコンクリート片とか。でもこれは……」
丘咲はそのくすんだ色の欠片を手に取り、側にあった布巾でキュッキュッと欠片を拭くと、手のひらに載せて羽重に差し出した。
「えっ、宝石?」
驚いて声を上げる。石ころに見えたそれは、赤く透き通っていた。
「いえ、ガラスだと思います」
赤い欠片の角度を指先で変える丘咲。羽重は見つめながら言う。
「梱包の時に入ったのかな、それとも選別の時か……何のガラスだろう」
「形が割と綺麗なので、ガラスではありますけどアクセサリーの一部だったのかも。指輪そのものが入ってた、なんて話も聞いたことがありますから。現地で手作業している人のものかな。……はるばる日本まで運ばれてきた欠片が、何の欠片なのか、想像するのも楽しいです」
「へぇ……」
コーヒー豆とともに海を渡った、色ガラス。思わず、羽重はつぶやく。
「ロマンだな」
それを聞いて、ふわり、と丘咲は微笑んだ。
「私もそう思います」
この微笑みが「やばい」のだ、今は仕事中だ、と羽重は急いで次の言葉を探すのだった。
豆や様々な条件を変えて焙煎し、一号店で出す『丘咲さんの珈琲』の候補を二人で三種類まで絞り込んだ。後は羽重がそれを会社に持ち帰り、社内で最終決定することになった。
「どれが決まってもいいけど、どれだと思います?」
ABCの三つの銀の袋を前に、羽重が丘咲に尋ねる。丘咲は軽く首を傾げ、考えた。羽重が声をかける。
「せーの」
二人の指が同時に、真ん中を指さした。
「やっぱり。店に出すならBですね」
「ふふ。でも……」
「好きなのは、これ?」
羽重がAの袋を指さしたので、丘咲はびっくりして彼の顔を見た。
「そう、わかりました?」
「Bよりも苦みがガツンと来る系が好きそうだなって。俺も個人的にはこれなんだよな」
羽重は笑うと、三つの袋を紙袋にしまった。
「お疲れさまでした。決まったらすぐ連絡します」
「はい。よろしくお願いします」
丘咲が頭を下げた拍子に、服の中に入っていたペンダントヘッドがこぼれ落ちた。羽重が目を止める。
「あ、それ、この間の石かな」
丘咲は胸元に手をやった。赤い石に銀のワイヤーがくるくると巻き付いたものが、細い鎖で首から下がっている。
「はい。コーヒーチェリーみたいで可愛いし、何だかもったいなかったから」
「ああ、コーヒーの実。赤い、あれ」
「そう」
羽重と共に仕事をするうちに、少しずつ気楽な世間話ができるようになっている。そのことに、うなずきながら丘咲は気づいていた。
「もしかして自分で?」
「ワイヤーアート、趣味で……」
「器用だなぁ。俺なんてボタンつけすら苦手だ」
「あ、裁縫は私も苦手です」
笑い合う。羽重は、
「似合いますよ、それ」
と言ってから、「じゃあ」とガラス戸を開けて出て行った。
丘咲はそれを見送ってから、ふう、と吐息をついた。その吐息が妙に熱く、彼女は落ち着かない気分で頬を押さえてから、作業場の片づけを始めた。
翌日の夜、丘咲の携帯に羽重から電話があった。
『投票したら結構割れたけど、最終的にBに決まりました』
「あ、割れたんです?」
『どれも美味いから』
「嬉しいです」
『AやCの記録も残しておいて下さいね、もしかしたら必要になるかも。あ、それと』
「はい」
『もうすぐ、内部関係者向けの一号店お披露目会があります。丘咲さんもどうぞ、来て下さい』
「え、いえ、私はいいです!」
丘咲はぎょっとして断る。大企業の社員たちが大勢いる中に、話下手の自分が一人で紛れ込んでいるところを想像するだけで冷や汗が出た。
『そう言うと思った』
羽重の笑い声。
「すみません……」
『気にしないで下さい、丘咲さんがそういうの苦手なのわかってるから。焙煎は、時間をみたり色を見たり、集中力がいるでしょう。丘咲さんが余計なことに煩わされて集中できなかったら、うちとしても意味がなくなってしまうので』
すぱすぱとそういった羽重は、さらりと付け加えた。
『無事に終わったら、打ち上げってことで食事でも行きましょう』
「あ、はい。……はい?」
『それじゃあまた!』
通話が切れる。丘咲は、携帯の画面の『羽重さん』の文字が消えるのを見つめながら、瞬きをした。
「食事? ……二人で?」
九月の終わり頃、カフェ一号店の、内部関係者向けお披露目会の日がやってきた。
その日を焙煎所で過ごしていた丘咲は、少々そわそわしていた。羽重は無理には誘って来なかったものの、彼女が来ない理由を作って対応してくれたはずで、迷惑をかけていることになる。
罪悪感のあった丘咲は、お披露目時間終了間際に、こっそりと店を見に出かけた。
小雨の降る中、店に近づくと、スーツ姿の男女が談笑しながら何人も店を出てくる。今日は客としてここに来た社員たちだろう、皆優秀な社員に見える。丘咲は傘に隠れて隣の花屋をのぞくふりをしながら、
(やっぱり、あの中に混じらないで済んで良かった……)
と密かに胸をなで下ろした。
店からは、客はいなくなったようだ。丘咲は改めて店に近づくと、『準備中 今秋オープン予定』の看板越しに中をのぞき込んだ。店員も見あたらないのは、奥で片づけでもしているのか。
カウンターの上に、不揃いな色ガラスの欠片をいくつかつるしたモビールがあるのに気づき、丘咲はふと微笑む。
(あれ、羽重さんが考えたのかな)
丘咲が見せた、豆に混ざっていたガラスをヒントにしたのかもしれない。店の雰囲気にも合っていた。
すっぱりと物事を考える羽重が、最初は苦手なタイプに思えた丘咲だったが、彼は意外と細やかな性格だ。丘咲の性格を読みとり、彼女に合った形で仕事も世間話もしてくれる。
一緒にいると、安心できた。
「あの」
いきなり、後ろから声がかかる。
ぎょっとして振り向くと、明るいグレーのパンツスーツ姿の美しい女性が立っていた。カラーリングした髪をきっちりとアップにした色白のその女性は、上着の襟に羽重と同じ社章をつけている。
彼女は傘の陰から、伺うように丘咲を見た。
「何かご用ですか?」
「あっ」
しまった、と丘咲はうろたえる。上司を送って戻ってきたのだろうか、この女性も社員だろう。怪しまれてはいけないと、あわてて頭を下げる。
「すみません、丘咲と申します。今日、失礼ながら欠席してしまったんですけど、あの、少し様子をと思って見に来てしまいました」
「丘咲さん……『丘咲さんの珈琲』の? ええと、丘咲、スミヨシさんの……」
「あ、純ににんべんの佳でトウカ、と読みます。丘咲純佳です」
「え、ご本人!? し、失礼しました、てっきり男性だと!」
女性は急いで名刺入れを取り出した。
「広報の林道です、お世話になっております! や、もう、女性だなんて羽重がちっとも言わないので」
そして、丘咲を見ながら店の扉に手をかける。
「どうぞ、お入りになって下さい。今日は一号店のスタッフが揃っているので、ご紹介します」
「あっ、いえ、もう行かないと。また寄らせていただきます! 急に失礼しました!」
丘咲は頭を下げ、さらにもう一度頭を下げながらその場を離れた。林道も頭を下げて見送っているので、何となく申し訳なく思い、一番近い曲がり角を折れる。
店が見えなくなり丘咲はほっと息をついたが、胸にまだ何か詰まっているような、もやもやとした気分だった。
現在、女性の焙煎士は少ない。丘咲が焙煎を担当することに決まった時にでも、羽重が真っ先に社内で話題に上らせそうなものだ。
(羽重さん、どうして私が女だって、言ってないんだろう?)