第三十一話 庭での一時
カナンに家の中を案内し終えた後、彼には木剣を渡して外で身体を動かしていてもらうことになった。その間にアレナは家事を済ませてしまう。
昼を挟み、一通りのことが終わった彼女は現在、数々の書籍が仕舞われている部屋に向かっているところ。いい加減にカナンも疲れてきた頃合いのはずなので、一緒に本でも広げてみようかと考えたのだ。
天気も良いし、今日は庭で読むのも良いだろう。
そんなことを考えながら書庫とも呼べる部屋の扉を開いて中に入る。何も考えず一番先に目についた棚の前まで歩いていき、そこにあった本が魔法に関する代物ばかりだったことを確認してから立ち止まって考え始めた。彼はどのような内容を好むのだろうか。流石に魔法に関する難解な知識の記された本でないことは分かる。まだ十二歳の少年なのだから。
周囲にずらりと並んだ本棚を見渡し思案。書物の量は多く、それだけに選ぶのが難しい。
少し考えて離れた位置にある棚まで歩いていき、その中から一冊引き抜いた。
「こういうのが丁度良いのかしら……」
彼女の手にあるのは周辺の地域に存在するちょっとした話を集め、纏めたという本。類似の本や、或いはずっと遠く離れた地域で似たような試みの下作られた本も幾つかあって、その中でも比較的新しい物だ。
開いてその内容を再確認していくが、少年に読ませる本としては無難に思える。少なくともアレナにはそのように感じられた。
ただ、どうせならばもっと古い時代の逸話の方が面白いだろうかと考える。この本にあるような人狼や吸血鬼絡みの話も悪くないが、彼らがどこからか姿を現すよりもっと前の時代の書籍もあった。惨事と共に強烈な印象を与えていった者達の存在に埋もれ、本に載らなくなって久しい話が眠っている。
手元の本を棚に戻し、より古びた物を取り出した。
「これにしましょう」
一人で呟きながら踵を返して部屋を出る。確か、こちらの本にはドラゴンの話が載っていたはず。
玄関を通って外に出ると、腕を下ろして肩で息をするカナンの姿。
「お疲れ様」
「あ、はい」
声をかけ、相手が振り向く。
「調子はどう?」
「……本当に、これだけで良いんでしょうか?」
「私が聞いた限りはね。最初は兎に角基本が大事だそうよ」
只管一人で木剣を振るだけでは迷いも生じるのだろうが、かつての夫が鍛錬の末に出した答えはそういうものだった。
「それより、流石にそろそろ休んだ方が良いんじゃない? 本を一冊選んできてみたから、一緒に読みましょ?」
「どんな内容ですか?」
「ずっと昔、この辺りに伝わっていたお話を纏めた古い本よ。何百年以上も前の物だから、多分殆ど知らない話ばかりなんじゃないかしら」
「読んでみます」
軽い説明を受けてカナンが頷く。期待通り興味を持ってもらえたらしい。
「それじゃあ、向こうで読もっか」
少年を連れて家の脇にある長椅子の方へ歩いていく。
「家の中の方が良い?」
「天気も良いですから、外で大丈夫です」
椅子に並んで腰掛け、目の前のテーブルに持っていた本を置いた。それから二人一緒に一冊の本を読むため、距離を詰めてぴったりと寄り添う。
カナンの身体が硬直した。
「嫌?」
触れ合ったまま時間を過ごせば距離も縮まるだろうか。そう思っての試み。
「嫌じゃないですけど、……緊張します」
「離れよっか」
「いえ、このままで」
まだ早かったかと思って身を離そうとすると、意外なことに引き止められた。未だに身体を硬くしたままであり、そのように告げられた理由は分からなかったが、アレナは素直にカナンへ身体を寄せたままにする。
「文字は読めるのよね」
「はい」
「でも、多分分からない部分もあると思うから、そういう時はいくらでも訊いて?」
「……はい」
表紙を開きながらの会話。どうせ完全には読めないだろうと決めてかかられて、少々釈然としない様子の返事だった。
「五百年以上も経ってると言葉だって多少の変化はするのよ。人間の時間は早いから……。普通の読み書きを習っただけだと難しい場面は出てくると思うわ。そういうところも面白かったりするんだけど」
「……ほんとだ」
実際に書かれている文面に目を通したカナンの口から呟きが漏れる。
「この単語って何ですか?」
「ああ、それは――――」
実際に本を読み始めれば、それは静かな時間の始まりだった。時折カナンから質問がなされ、アレナが丁寧に答えていく。それ以外に言葉を発するのはページを捲る際の確認くらい。
最初の話を読み終える。金の鱗をしたドラゴンと、老齢に至るまでの間に人生で三度、それに対して挑みかかった戦士の物語。三回とも逃げ帰っているのだから、いずれもこの戦士の負けだろう。アレナにはそう思えて仕方なかったが、著者は両者とも生き永らえていることを理由に決着は着かなかったとしている。
「本当にこういうことがあったんでしょうか?」
「少なくとも、前はそういう話がどこかで伝わっていたのね。本当かどうかは確かめようがないわ」
「……大昔ですもんね」
少なくとも人間の感覚からすれば大昔。
そこまで話したところでカナンが欠伸をした。よく考えれば先程まで身体を動かして疲れていたまま読書。それは眠くもなる。
気付けば初めは硬直していたその全身からも、すっかり力が抜けていた。
「丁度一区切り付いたところだし、お昼寝でもする?」
「い、いえ」
慌てたように少し崩れ気味だった姿勢が正される。
「無理して読んでも頭に入らないわ。私もよく、お昼寝するの」
「……分かりました」
「それじゃ、ほら」
「え……?」
まさかこの場所で寝るつもりだと思っていなかったのか、不思議そうな声を上げるカナンの肩を抱いて長椅子に座ったまま横になるよう誘導。しきりに困惑の視線を向けてくるのにも構わず少しだけ自分が座っている位置をずらし、彼の頭を膝の上に迎えた。
緩んでいた少年の身体が再び緊張で固まってしまう。
「どうかな?」
「えっと…………」
「落ち着かない? それとも、恥ずかしい?」
「…………恥ずかしいですけど、少し、落ち着く感じがします」
「嬉しい」
喜びと共にその頭を軽く撫でた。
「ほら、目を閉じて、体の力を抜いて。きっと直ぐに眠れるから」
頭を撫で続けられながら、彼は言われた通りに目を閉じる。それから程なくして全身の緊張も緩んでいき、直ぐに息遣いが深くなっていった。
純粋に可愛い寝顔だ。
その顔を眺めながらアレナも次第にぼんやりしていき、頭を撫でる手の動きも止まる。
目を閉じ、瞼の裏に陽の光を感じながら時間を過ごしていった。
どれくらいの間そうしていたのか、次第に遠くから物音が聞こえてくる。ゆっくりとこちらに近付いてきているようで、聞こえてきているのは話し声。アレナは仕方なく目を開いて深呼吸した。
声は家で視界を遮られている方向から聞こえてきており、恐らくその正体はキャスとミセリア。
暫しそちらへ視線を向けていると建物の影からひょっこり少女が姿を表し、再び消えてしまう。また話し声がして、今度はキャスも伴って姿を見せた。その両腕には大きく透明な石が抱えられており、無事に目的を果たして帰って来たことが分かる。
彼らが戻ってきたということは、自分は思っていた以上に長いこと微睡んでしまっていたのだろうか。そう思って確認するが、日の角度は然程変わっていなかった。
ということは、単に二人が想像以上の早さで要件を済ませてきたという意味。例え子供連れでなかったとしても早いと評せる時間であり、驚きを禁じ得ない。
「お帰りなさい」
そんな中でも膝の上の彼を起こしてしまわないようにと、静かに近付いてきた二人に対してそっと出迎えの言葉をかける。
「はい。無事に終わりました」
「そうみたいね。まさかこんなに早く戻ってこられるとは思ってなかったわ」
キャスの視線がカナンに向けられた。
「運動して、本を読んでたら眠くなっちゃったみたい」
「ん……?」
そう言って頭を撫でてみせると、膝の上から声。
「あら、起きた?」
「はい……」
「もう少しくらい寝ててもいいのよ?」
「いえ、大丈夫です」
カナンが起き上がる。少し名残惜しい気分になりつつ、あまり寝てしまうと夜中に眠れなくなってしまうことも有り得るため、丁度良い時間でもあった。
「丁度、キャスさん達が帰って来たところなの」
「あ、お帰りなさい」
「ただいま」
「大きいですね。それ、採ってきたんですか?」
まだ幾らか眠そうにしながら、カナンがキャスに話しかける。実際、彼は大分大きな水晶を運んできていた。アレナの場合はもう少し小さな物で済ませているし、それで不満を言われたこともない。
「うん。意外とあっさり採ってこられたよ」
「……重そうです」
「このくらいは平気かな。それより、君の方も意外と早く仲良くなれたみたいだけど、どう?」
「えっと、アレナさんが凄く良い人だったので」
「そっか。ちょっと安心したよ」
「私は早く、呼び捨てにしてもらえると嬉しいかな」
「それは……まだちょっと」
嬉しいことを言われて機嫌を良くしつつ、もう少し改まった態度を崩してもらえないか試みる。しかしながら、そちらは少々時間が必要らしい。相手は恥ずかしそうに俯いてしまう。
キャスの視線が長椅子に立てかけてある木剣に移った。
「ところで、そっちの剣は?」
「あっ、家の中にあったので、試しに使わせてもらったんです。素振りだけですけど」
「どうだった?」
「素振りだけなので、何とも……」
先程アレナも似たような問いかけをしたがやはりカナンは感想に困った様子。今日初めて素振りをしてみたという程度なので大した返答のしようもないのだろう。
「まあ、基本は大事だよ」
キャスからは微笑みながらの励ましの言葉。
「良かったら、キャスさんに少し稽古でもしてもらう?」
「……お願い出来ますか?」
ちょっとした思い付きでアレナが声を上げ、カナンもそれに同調する。ただ素振りして終わるより、良い経験になるのではないかという直感だ。
強くなってもらうためというよりは、先程カナンが夢中になって何の変哲もない剣を眺めていた姿と、彼がキャスの強さに影響されていると伝わってきた際の様子、そういったものが脳裏にあっての思い付きだった。
明日にはいなくなってしまうのだし、カナンが相手をしてもらえるのは今しかない。
しかしながら、キャスの方は困ったように目を逸らしてしまう。
「稽古って言っても、何をしたらいいのか分かんないな……」
「打ち合いに付き合うだけでもいいと思うよ? 兎に角身体を動かして慣れていくしかないってあたしは聞いたけど」
渋っているような彼に対して、意外なことにこれまで大人しかったミセリアが声を上げた。外の世界を旅していると、あのくらいの歳でもそういった情報を聞き及ぶものなのだろうか。
「じゃあ、そうしてみよっか」
「は、はいっ」
まさか本当に鍛え方を思い付いていなかったというわけではないだろうが、小さな少女の助言を素直に受け取って、キャスがあっさりと意見を翻す。
「木剣って、もう一本あったりしますか?」
「ええ。今持ってくるわね」
「あ、僕が取ってきます」
話が纏まって腰を浮かせかけたところで、カナンの方が元気良く木剣を取りに走り出す。場所も分かっているはずなので任せることに。
「それじゃ、私とミセリアちゃんはここで見学させてもらおうかしら」
代わりに少年が先程まで座っていた場所を示し、少女に声を掛ける。
「そうするね」
「私はもう少ししたらお夕飯の準備をしなきゃならないから、席を外さなきゃならないけど」
「あたしもお手伝いしてみていい? ずっと旅ばっかりで、台所に立ってみたかったの」
「いいわよ。宜しくね?」
「うん、宜しく」
小さな女の子に料理を教える機会など想定したこともなかったが、面白そうだ。キャスにはカナンの相手をしてもらっていることだし断る理由もない。




