第十話 母の指輪
ふと目を開き、ぼんやりとそこに映った光景を見つめ続ける。ここは宿の一室で、自分が眺めているのは昨日から暫くの間滞在することになった部屋の天井だ。そんなどうでもよいことを認識して、フィリアは朝が訪れたことを把握する。
少し遅れて体調の悪さもやって来た。どうやら一晩寝ても回復しなかったらしい。むしろ、昨日よりも好ましくない状態になっている気さえした。
顔だけを横に向けステラがもう目を覚ましているか確認すると、彼女は既にベッドから起き上がっていて、その姿は椅子の方。
「おはよう」
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
身を起こして彼女に挨拶すると、返事と共に体調を確認する台詞。
「……良くなったとは言えないわね」
こうして起き上がってみると、昨日より調子が悪いと如実に感じられてしまう。
「そうですか……。朝食は、食べられそうですか?」
「あまり食欲もないわ。ちょっと、起き上がってご飯を食べに出かける気にはなれないかも。だらしないわよね」
本来であれば昨日の夜も何も口にしていないのだし、翌朝になって更に調子が悪くなっているならばきちんと栄養を取った方が良いのだろうと思いつつ、どうしてもそのための気力が湧かない。
「具合が悪いのでしたら、無理はなさらない方が良いと思いますけれど……」
「そうね。私はもう少し横になっているから、朝ご飯は皆で済ませてきてもらえるかしら?」
「……分かりました。一先ず、キャスさんとミセリアにはそう伝えてみますね」
そう言ってステラは立ち上がり、静かに戸を開け閉めして出ていった。口振りからして、そのまま朝食には向かわず戻ってきそうな予感もする。
そうなると、キャスもここに来たりするのだろうか。だとしたら気が重い。寝起きする空間に入ってきて欲しくなかった。
小さく溜息を漏らす。具合は悪いが、横になって休む気にもなれない。
することがないせいか、何故か自然と手を動かして拉げた指輪を取り出してしまう。
少し前までは常に自分の指に存在してたそれを手の平に乗せて眺めていると更に暗い気持ちが押し寄せてきて、我ながら何をやっているのかと呆れ返った。
「お母さん……か」
何となく口にしてみた自分の言葉に軽く笑う。今となっては言われてばかりのそれだが、かつては自分が口にしていた時期もあったのだ。もう、何十年前になるだろうか。
とても久しぶりに、きちんと母のことを思い返した気分になった。
「まだ、生きてるかな?」
思わずそんなことを考える。だが、その可能性は高くないだろう。母は人間だ。その正確な年齢は最早思い出せないが、生きていれば七十歳は超えていることになる。人間ではそれなりに高齢な方。
あの環境で、果たしてそこまで生きていられるものなのだろうか。
悲しいような、何もしてあげられなかったことに後ろめたいような気持ちを抱きつつ、一方で父や夫のことも思い出してしまった。恐らく、彼らは今でも生きている。そのことが恐ろしく、また恨めしい。
いつか再び顔を合わせるような日が来たりはしないだろうか。そんな心配をどこかで抱えていた。
一旦きつく目を瞑って、その思考を振り払おうとする。だが、そう上手く意識が切り替わってくれることもない。
再び目を開けて指輪を見れば、今度はその歪な形に意識が向いた。
嫌なことばかり頭に浮かぶ。そんな台詞を心の中で吐き捨てる。
最早生きているのかさえ定かではない母から貰った唯一の品。それが拉げ、用をなさなくなった状態で手の上に乗っている。物自体は残っているはずなのに、何かを失った気分だ。
それも、その原因は自らの選択と力不足にあるときている。
娘の正体や事情を知っても穏やかに接してくれていた相手に殺意を向け、その挙げ句に圧倒的な実力差を見せつけられ、力尽くで指輪を取り上げられて破壊された。その瞬間を自分は、痛みで何も出来ずに見届けていただけ。
「どうしようもないわね……」
小さく自分に毒突く。しかも自分の中で、あの時のキャスの姿と父や夫の姿が結びついていることも自覚していて、そのことが自己嫌悪に拍車をかけた。
理不尽な暴力と命を狙われたが故の反撃。それらを結びつけて傷付いているなど、随分と愚かな話ではないか。
それを自覚していても尚、彼に対する不合理な苦手意識は消えてくれなかった。
男性そのものへの忌避感も前より増している。
自身の内面を憂いながら、手の平の指輪をそっと指で摘んで持ち上げた。
「修理、どうしようかしら」
形だけなら直すことは出来るはず。だが、魔道具として再び機能してくれるかは分からない。こういった物は一度壊れてしまうと、形状を整え直しても機能してくれなかったりすると聞く。
それでも母から受け取った大切な品だ。形だけでも元の指輪に戻した方が良いとは思っているのだが、既に一度、それも男の手によって駄目にされてしまったという無力感や喪失感が行動を起こすための気力を奪っていた。
体調が優れないせいなのか、本当に嫌なことばかり考えてしまう。再びそんなことを思って、今度こそと思考を振り切ろうと試みた。
丁度その時、部屋の扉が静かに開く。ステラとミセリアが入ってきて、その後ろからキャスも姿を見せた。
無遠慮に寝床に踏み入ってくる彼に対して拒否感を覚えるが、同室のステラが連れてきたのだし、何よりも体調を崩した仲間の見舞いに来てくれたというのが今の状況だ。あまり嫌な顔をする訳にもいかない。
彼の視線がこちらの手元に向けられたのを感じた瞬間、反射的に指輪を隠すように手を握りしめた。
弱々しくも拉げた指輪に縋っている姿など、他人に見せたくはない。ましてやこともなげに自分を圧倒して指輪を破壊した張本人になど。そんなのは惨め過ぎる。
「あら、どうかしたのかしら?」
先程までの鬱々とした思考など感じさせないよう、努めて普段通りの対応を意識して、彼らを出迎える声を発した。




