第二十六話 涙の後で
振り返ると、あの男に殴られてからの自身の錯乱ぶりは大変にみっともないものだった。目の前の恐怖や痛みのみでなく、過去に父や夫から味わったそれらまでもがつい一瞬前のことのように浮かんできて、自分でもまるで意味が分からなくなっていたのである。
泣いている間はステラがずっと抱きしめ、声をかけて面倒を見てくれていて、遥かに年下の、その上一度は命を狙ったはずの彼女からそのように助けられることで一層惨めに感じられたが、反面、途中からはその体温にどこか安心するものを感じてもいた。また、彼女がミセリアやキャスを遠ざける判断をしてくれた際には、内心で安堵したのを覚えている。キャスのことは素直に怖かったし、ミセリアにも、こんな自分を見られたくなかったのだ。
その二人が一足先に町へ戻ってからも、暫くは涙が止まらなかった。
涙が自然に止まってからは、それまでとは逆に頭が空っぽになったかのような感覚となって、めっきり思考力が落ちた気分を覚える。泣いたのは、いつ以来だったか。前に泣いたのはかなり昔だったはずだ。記憶を辿って、ミセリアが死んだ時がそれであると気付く。涙と共に、旅立ってから築いてきた覚悟とか決意とかも流れていったのか、気持ちはかなり軽かった。
別に、抱えている問題は何も変わっていないはずなのに、気分は楽になっている。
その後は有難くもステラが戦う前と同じ誘いをかけてくれて、フィリアはそれに感謝して応じた。
二人でゆっくりと元の町に向かい、今は依頼を受けたあの港町の中。ミセリアたちとは未だに合流していない。
現在、キャスに破り捨てられた衣服の代わりを、二人で物色しているところだ。失った服の代わりは、ステラから貸してもらっている。正直、彼女には面倒を見られっぱなしだった。
「派手でなければ、何でもいいのだけれど」
店に並んだそれらを眺め、フィリアは内心で困惑している。これまではそこにどのような魔法が込められているのかばかり気にかけ、見た目で服を選んだことなどなかったし、自分の身形に対するこだわりも薄かったのだ。
「そんなこと言わずに、折角なんですし、きちんと選びましょう?」
「そうね」
ステラの言葉に答えるが、四十半ばを過ぎてから己の身形に気を配るというのも抵抗がある。
「でも、どういうのが良いのかしら? 正直、服の見た目を気にしたことなんてほとんどなくて」
仕方ないので、隣にいる彼女に素直に相談してみた。
「それは……」
すると、ステラは自身が来ている服を見下ろす。確か、それは彼女が暮らしていた里のものだったはずだ。
「すみません、わたしもよく分からないです」
苦笑いになってから、彼女はとりあえずといった様子で手近な一品を取り上げる。
「ミセリアとも前に話したんですけど、わたしも折角だから、普通の服を着てみようかな……」
言葉の後半は、独り言のようだった。もしかしたら彼女も自分と同じく、この手の事柄に疎いのかもしれない。
彼女は手に持った一着を見て、それから店の外側、町行く人々の方に目をやり、再び手元に視線を戻す。
「お店の人に、相談してみましょうか」
フィリアも、その提案に賛成した。
それからお洒落などというものに疎い二人は、第三者の手を借りながら新たな衣装を探し出す。
店の人間の手を借りつつも、結局二人の購入分を決め終わるまでに結構な時間がかかってしまった。お互いに興味やこだわりがないと言っていても、いざとなると何かしらの好みというのは出てくるようで、最初はどの品物も然して目に留まっていなかったのが、次第にああでもない、こうでもないと物色するようになっていったのだ。
店主やステラは何故かやたらとこちらに上等そうなものを薦めてくるのだが、フィリア自身はもっと控えめなものが良かったし、逆にこちらがステラに対し、似合いそうだと思って薦めた物が、彼女らからは評判が悪かった。
そうやって難航しつつも商品を漁っていくうちに、フィリアはその時間が思ったよりも心地良いものであることに気付く。同時に、それがまるで普通の女性のようだということにも自覚が及んだ。己に対して「普通の女性」などと感じるのは、彼女にとっては酷く珍しいことである。
何か、初めて自分が良い方向に変わっているような気がして、嬉しかった。
「本当に、似合ってるでしょうか」
衣服を新調し、奥の空間を借りてその場で着替えさせてもらってから店を出る。それから間を置かずして、ステラが不安げにしていた。
「大丈夫よ」
「だと良いのですけど………………。普通の服を着るのなんて初めてなので、どうしても自分に違和感が」
そう告げる彼女の服装はこれまでの白を基調とし、ゆったりとした外見の衣装から、黒を基調とした物に変わっている。前のそれに比べれば、引き締まって大人びた格好。それに着替えたステラの姿は如何にも素敵な女性といった印象で、フィリアの目から見ても非常に似合っているように思われた。
破れた衣服の新調という目的に思いのほか時間が取られてしまったが、漸く二人で店の前の通りへ歩き出す。
「それで、この後はどうします?」
当然、話は次に取るべき行動へ。
その答えを考えると、フィリアの心に圧し掛かってくるものがあった。町に辿り着き、身なりも整え終えたのだから、必然的に残っているのはあの二人との合流である。
ミセリアに対しては、ステラたちに対する非常な対処を言い聞かせた挙句の涙を流して錯乱しながらの大敗北という、これ以上なく無様な醜態をさらしてしまった手前、母親として顔を合わせるのが気まずい。今までは娘の前で一切情けない姿は見せないようにと気を張ってきたのだが、果たして、彼女の目にはあの時の自分の姿がどのように映っていたのだろうか。
正直、再会した際の娘の反応が不安で仕方なかった。
それから、キャスのことだ。
あの場で追い詰められ、殴られたことなど自業自得だとは理解しているし、こちらの命を奪おうとする素振りがなかったことにも戦いを振り返って気が付いているのだが、今でも彼のことが恐ろしい。理屈では、ステラやミセリアが親しくしているのだから人物としても恐ろしい相手ではないと考えられる。だが、それでも心の部分で、彼の存在が恐怖という感情に強く結びついてしまっていた。
あの二人を探して合流しましょう。その台詞を言葉にするために、少々の覚悟が必要だ。
目の前のステラは答えもせずに黙り込んでしまった自分に対し、急かすことも不思議そうにすることもなく、ただ待ってくれていた。全部、分かっているのだろう。
優しさがとても暖かい。
フィリアは意を決し、答える前に一呼吸。
「あの二人を、探しましょう」
「はい」
二人並んで、歩き出した。




