第二十三話 絶望
所詮、相手は十代後半の優男。多少不思議な力を有しているとはいえ、戦いの経験など自分に比べれば遥かに劣るだろうし、身に着けているのは粗末なものばかりだ。総じて、然したる実力者であるようには思えない。
キャスに対するそんな分析が大きく的を外していたことを、フィリアは悟った。
最初に自身の誤算が見え始めたのは戦いが始まる少し前。腹を決めて決別を告げたこちらに対し、嫌に余裕のある態度で接してきた彼が唐突にその姿を変えた瞬間だ。黒い血管のようなものがその身に浮き上がって、黒い霧に包まれたかと思った次の瞬間、そこには黒い怪物。
この時点で、相手の力量が一気に未知数になった。化物に変身する力の使い手など、見聞きした経験はなかったからだ。
実際に戦闘が始まってからは、本格的に己の見当違いを思い知らされる。これで十分だろうと高をくくって最初に出した五体だけで歯が立たないことは、直ぐに分かった。ステラの包囲に回していた分まで総動員する決断を下したのは、決して焦ってのことではない。また、自身も魔法によって遠距離から攻撃に加わったのだ。
だが、十三体から成る爪牙も、魔法も、全く以ってまともに命中する気配がなかった。どの攻撃も余裕を持って対処されている。
たった今、あれだけいた魔物のうち最後の一体が破壊された。この場から修復できるような損傷具合ではない。つまり、あの化物と一対一で向き合わなければならなくなったのである。
この時点で既に、フィリアは身体が恐怖に震えだしそうなのを感じていた。
しかしながら、正面からはっきりと決別を告げて挑んだ勝負である。勝利以外には生き延びる術がない。彼らも明確に殺すと告げられた以上、こちらを放置しておく気はないだろうし、順当にいけば返り討ちとして殺されるはずだ。
魔物を全滅させた相手は、こちらを睨み咆える。それから何故かその変身を解いた。狼を思わせる怪物が元の若い男の姿へ。そして、腰の剣を引き抜きながら悠々と自分に向けて歩き出す。
フィリアの恐怖は、彼の姿が怪物出会った頃よりもいや増していた。普通ならば明らかに恐ろしげで獰猛さを感じさせるあの姿の方が恐怖の対象であるはず。だが、彼女にとっては男の暴力というものの方が、より印象強く、自身を傷つけ害するものとして心の底で結びついていたのだ。それは、かつての父や夫のせいである。
只々身を守りたくて、男に向けて魔法を放った。一発、二発、三発と続け様に。それでも迫りくる脅威は撃退できない。全てが、剣一本で叩き伏せられていく。
やはり、無力だ。過去の記憶と共にそんな気持ちが浮かんだ。
相手は悠然と、間合いを縮め続けている。
恐ろしさから、堪らずフィリアは二歩、三歩と後退した。瞬間、その行動が要らぬ刺激を与えてしまったかのように、キャスの動きが迅速なものに変わる。
反応する間もなく両者の間の距離が詰められ、咄嗟に魔法を放とうとした頃には既に彼の剣が振るわれた後。主たる攻撃手段として用いていた杖が半ばから切断されてしまっていた。現状、最も威力と射程に優れた攻撃方法が消失する。
右手に握っていた杖の残骸を手放し、目の前の相手に反撃を試みた。左手に装備してあった魔道具を用い、手を伸ばして前方に炎を生み出す。彼女が冒険者として旅立った頃から利用している、母から受け取った魔道具だった。魔法の性質上、相手に接近しなければならないことから普段は使用を避けている代物だったが、威力自体はそれなりにあるので、生身の人間が喰らえばひとたまりもないことは確かだ。
しかし、熾した炎が消えた後、視界に入ってきたのは先と変わらぬ敵の姿。後ろに飛び退いて回避されたらしく、少しばかり先ほどより間合いが開いていた。もっとも、稼ぎ出したその余裕も一瞬で再度潰されて、フィリアは先程同様に魔道具を擁した左手を構え直す。
その手を、剣で払いのけられる。何故か斬られるのではなく側面で叩かれるのみだったが、それで相手の接近を阻む術は失われた。
キャスの姿が自分の目の前に来て、斬られると思って息をのむ。
だが、現実に振るわれた攻撃は別種なもの。
腹部に衝撃を感じ、一瞬、身体が宙に浮いたような気がした。それから強烈な痛みが襲ってきて殴られたことを自覚する。
強烈な一撃だった。
立っていられず、敵の前で蹲ることの危険を自覚しながらも、地面に崩れ落ちて痛みに支配されてしまう。
意識の殆どが痛みに染まり碌な抵抗が出来ない中、左腕がねじ上げられ、そこから母の指輪が抜き取られるのを感じた。
頭上から男の声が降りかかる。
「さて、まだ何か隠してるのかな」
何のつもりか、彼はこちらの装備を尽く奪い取るつもりらしい。
このままでは残りの武具も取り上げられると、フィリアは僅かに回復した力を振り絞って、自身を見下ろす男を蹴飛ばした。しかしながら、それも躱されて虚しく空を切る。
最早攻撃が当たらないことを気にする余裕もなく、彼女はただ必死になって立ち上がり、次の攻め手を用意。懐に忍ばせていた短剣を取り出し、構えた。剣の魔法が霧を生んで視界を塞ぎ、外套の魔法を持って姿を眩ませる。そして、靴に込められた魔法を用いて移動の際の物音を消した。相手の知覚を封じての不意打ちを狙う。霧の大外を回り込むようにして相手の背後を取り、仕留めるつもりだ。
その試みも、何故か的確にこちら目がけて霧の中から相手が飛び出してきたことによって失敗する。
「えっ」
ここまで正面からの戦いでは全く歯が立たなかったが、奇襲まで通じないというのか。驚きと失意に、短い声が上がった。
咄嗟に構えた短剣も取り上げられ、再び腹部に衝撃。今回は気のせいどころではなく、本当に体が宙に浮いて飛ばされる一撃だ。地面を転がって、吐瀉物を撒き散らしそうになりながら苦痛に悶える。殺意こそなくとも、非常に容赦のない攻撃だった。
圧し掛かられたが、抵抗の余裕などない。
朦朧としている意識の中、相手の手が伸びてきたかと思うと、掴まれ、強い力が込められたのが分かった。外套ごと衣服を一気に破られたのだと正確に認識できたのは、その残骸が両腕から引き抜かれていく最中のこと。
苦痛と恐怖に支配された自分から衣服を引き剥がしていくその姿が、フィリアにはかつての旦那と重なって見えた。
途端、僅かに残っていた余裕も完全に消え失せる。男に取り押さえられ、裸に剥かれて、まるであの時に戻ったかのようだ。
男と、目が合う。
彼は何かを口にしていたが、フィリアには理解できなかった。ただ、とにかくここから脱出しなければ、あの行為が待っている。昔の記憶と今の状況を強く結びつけてしまった彼女の中では、そんな想いだけが意識を支配した。
何かないか。何か、この状況を救ってくれるものは。
必死で目に映るものを物色していくと、手が届く範囲に、剣の柄があるのを見つける。
彼女は大急ぎでそれに手を伸ばした。
それも、失敗に終わる。何故に逐一それほど素早く反応できるというのか。男の手が、伸ばした腕を掴みとる。
またなのか。
それでも尚、絶対に嫌だと、フィリアは相手の男を睨んだ。反面、混乱する意識の中、最早誰を睨んでいるのかも定かでない。
すると男の手が振り上げられ、これまで腹部に見舞われていた衝撃が顔面を襲った。
思考が真っ白になり、頭の中ではたった今見た光景と昔の夫との記憶が完全に重なって、呆然となる。
無力。
痛みと絶望と混乱の中、ついにフィリアは限界を迎え、その心は折れた。




