第十七話 再戦
「あれだよね?」
夜が明けきった頃には、もうキャスとミセリアの目には件の町の影が見え始めていた。反面、まだあの黄金色はどこにも見当たらない。
「そうだね。それで、ほんとに手伝うつもり?」
キャスもミセリアの魔法を説明され、それがこの戦いで役に立ち得るものとは思っていたが、如何せん相手が強大過ぎる。彼女の用いる「呪い」とでも呼ぶべき魔法は防御に於いては全く役に立たないものであることも分かっているし、この小柄な体躯で敵の攻撃を躱しきれるのか心配だ。
「離れて見てろって言うのならそうするけど、少しでも勝率上げたくない? 戦いが長引いたりしたときとか、特に便利だよ」
確かに、相手を弱らせるのを得手とする魔法ではある。
「そうだけど、相手の攻撃って、速い上に範囲の広い魔法が連発されるから。その外套で隠れるにも限度があるだろうし」
「だから、さっき『背中にでも乗っけてくれたら』って言ったでしょ?」
「うん?」
首を捻りながら、そういえばそんな台詞を聞いた気もするなと思って返事した。そこから、彼女の言わんとすることを察する。人狼化したその背にでも引っ付いて、回避も防御も全て任せるということなのだ。
「まあ、それなら守りは問題ないか」
キャスにしても、小さな女の子一人を背負って戦う程度、人狼状態であれば問題にもならない。そこから彼女がドラゴンを弱体化させるための魔法を放っていき、戦いを有利に持っていく。前回は友人の魔法によって自分たちの側を強化して戦っていたので、丁度真逆といっても良いやり口。
そう考えると、やっても良いかなと思えてくる。
「それにしても」
ミセリアの参戦が悪くないものだと感じだすが、一方で彼には相手の態度に気になるものがあった。
「ステラがドラゴン退治の依頼の話を持ち出した時にはあんなに反対してたのに、随分反応が違くない?」
あの時には無謀な挑戦であると強く押し留めていたのだが、今回はそのような素振りは全く見せていないのだ。その上、ミセリア自身も戦いに加わると言う。そのことが多少ばかり気になっていた。
「だって、キャスは一回勝ってるんでしょ?」
「僕はね。ステラには止めてた割に、自分はドラゴンとの戦いに参加するっていうのが気になって」
「だって、友達のことを心配して止めるのと、自分の身を心配して止めておくのって、ちょっと違うもん。それにあの時は二人の実力も知らなかったし、色々状況が違うの」
「……それもそうか」
納得して、呟く。
「あたしの安全はお任せするから、頑張ってね」
そんな言葉と共に、背中を軽く叩かれるのだった。
町までの距離は、先程よりも一層と縮まっている。
「それにしても見当たらないね。縄張りに入ったら、向こうから襲ってくるものだって聞いてるけど」
左右や上空へと視線を巡らせながら、ミセリアがドラゴンの姿を探していた。どこまでが向こうの縄張りなのか知らないが、確かにそろそろ姿を現しても良さそうなものである。
そういえば、前回の時にはドラゴンの居場所に近づくにつれて人狼の友人が何かを察しているらしきことを口走っていたが、いざ己が人狼となったところで、キャスには何も感じられていなかった。
「人の造った町に獲物もいないだろうし、どこかに狩にでも行ってるのかもね」
答えながら、キャスも何か見当たるものがないかと周囲を見回してみる。金色の鱗の塊なのだから、視界に入れば直ぐに分かりそうだ。
二人してきょろきょろしながら歩いて行くうちに、ついにそれらしき姿を発見する。
「あれかな」
「どこ?」
後方の上空に、朝日を反射した黄金の光が見えていた。
「うわ、ヤバそう……」
隣のミセリアは彼の姿を見てそう評していたが、キャスは内心、相変わらずの見事な威容に感動している。異能を利用しているおかげで距離にかかわらずはっきりと観察できているのだが、彼が与えた顔面の負傷も治っているらしい。以前に出会ったのは薄暗い空間であったのだが、今回は朝日を遮るものが何もなく、鱗が光を反射して神々しいばかりだ。それが翼を広げて悠々と空を飛んでいるのだから、大変に美しく、荘厳で、格好良い。
口には獲物を咥えていて、朝食を調達してきたのだと分かる。
「こっち見てるね」
「この距離で見えるんだ……」
「異能を使ってるから」
赤い瞳は既にこちらを向いているが、近寄って顔を見れば、自分のことを思い出したりするのだろうか。キャスはこの状況で、意味もなくそんなことを考えた。
「やっぱり逃げない?」
声音で半笑いになっているのが、何となく感じられる。自分は二度目の邂逅であるが、初めてドラゴンというものを目にするミセリアからすれば、それは気圧されもするはずだ。
「僕は一人でも平気だから、無理はしなくて大丈夫だよ」
「冗談」
話している間にもドラゴンはどんどん接近してきており、飛行する高度も徐々に下がっていた。
そのまま戦闘になるのかと思ったが、口に咥えた獲物のためなのか、頭上を通過して行く。真下から見上げてみると、相手の体躯の大きさがはっきりと把握できた。
ドラゴンが町中へと降り立って、視界から消える。
「本当に大丈夫?」
彼の敵が姿を現してからというもの、すっかりと目を奪われたままとなって放置していたが、隣を見下ろしてミセリアの様子を窺ってみた。
「大丈夫」
すると、酷く緊張しているのが分かる表情で、頷きながら短く答えが返される。本物の迫力を目にして一気に強張ってしまったらしい。
「なら、行こうか」
一方のキャスは以前にも一度戦っているからなのか、当時の自分や今のミセリアほどに気圧されておらず、再戦と決着に向けた昂ぶりの方が強かった。
己の中にある人狼の力を引き出して、変身。黒い怪物姿へと変化を遂げる。
人狼化を間近で見ていたミセリアは彼が視線を向けると引き攣った表情でたじろぎ、一歩下がってしまった。こちらはこちらでドラゴンとはまた違う、美しさなどない恐ろしげな獣姿であるので、無理からぬ反応か。
人狼状態で人語は発せられないが、異能によって意思を伝えることはできる。数えきれないほど存在する力の利用方法の中では比較的簡単な使い方だ。
『怖いかな?』
人間としての顔があれば、自分は苦笑していたことだろう。
問われたミセリアはまじまじとこちらの瞳を見つめ返した後、唇を引き結んで前へと踏み出してみせた。見下ろすキャスの横を通り過ぎた直後、背中に重さがかかって、跳び乗られたことを把握する。
まだ異能による身体の強化は施してないが、それでも膂力は大きく強化されていて、子供一人の重さなど無いに等しかった。
『振り落とされないように、きっちり掴まっておいて』
「うん」
ドラゴンと人狼。普通の感性であれば異常な恐ろしさを覚える状況であろうに、それでも自分に付き合ってくれようとしているミセリアの心中とは、どのようなものなのか。彼女自身は、既に仲間として命懸けで共に戦ってくれるつもりなのかもしれない。
断りも入れたので、異能で身体能力を上昇させて町へと走り出す。元となる肉体自体が強力になっている分だけ効果は強く表れているが、酷く残念な事に魔法と違って、人狼化による能力の向上は異能の力には影響してくれないらしい事も悟った。
それでも、あの硬い鱗を突破するくらいは可能なのではないだろうか。尤も、鱗を突破せずに攻められることも、前回に実証済み。
「ちゃんと守ってね」
背中の呟き。これだけの速度で移動している最中では普通、聞き取れない程度のものだったが、きちんと聞き取ることが出来ていた。
人狼化自体は何度か経験済みであるキャスだが、その状態でステラに閉じ込められることもなく満足に動き回ってみるのは今回が初めてと称してよい程。新たな肉体に秘められた性能を、彼は見る間に迫ってくる町の姿を眺めながら実感していく。
『跳ぶよ』
町の建物が目の前に迫って、その屋根の上へと跳び乗った。町に入ってから姿を見せていないドラゴンを探すべく、屋根伝いに降り立った場所目指して勢い良く駆け抜ける。
両肩に回されている少女の手が、黒い体毛を必要以上の力で掴んでいるようだった。
町の中央が視界に入って、高所から敵を発見する。広場のど真ん中で待ち受けていたようで、四肢を地に着け、静かにこちらを注視していた。町中でも一際大きな一軒を壁の一部と内部を破壊して寝床にしていたらしく、その背後にある建物の中に、先程咥えていた朝食が転がっている。
こちらが己の下に来ることを確信していたかのような対応ではないか。前の対峙の時にも思ったことであるが、何か知性でもあるのだろうか。或いは、人がそのように感じてしまうような、独特な習性でも持っているのかもしれない。
負けたら縄張りを明け渡すような文化が、ドラゴンの間にでもあるのではないだろうな。そんな冗談のような考えが脳裏に浮かぶが、誰も関わろうとしない彼らの生態など、当然全く分かっていないのであるから、本当の所は分からないのだ。
「こっち見てる……」
戦闘が始まった時の荒々しさを知っているキャスから見れば、相手の様子は全く静かで落ち着いたもの。だが、ミセリアには十分威圧的に映っているようだった。まるで魔物に出くわした一般人である。
『戦いが始まったらこんなものじゃないから、覚悟しておいて』
「……うん」
残りの建物の上も一息に駆け抜け、キャス自身も広場に降り立つ。そして、ドラゴンと正面から向かい合った。
それでも相手に動きはなく、依然としてこちらを見つめるばかり。
「…………何か、大人しくない?」
ミセリアが、キャスの狼状になった耳に向けて囁いてくる。
『前の時も、僕らの準備が整うまで、ああやって静かに睨んでくるだけだったんだよね……』
まるで、試合か決闘のようにも思えてきそうだ。
『それじゃ、準備は良い?』
戦いの火蓋を切るべく、背中に問い掛けた。
「うん、いいよ」
彼女が返事と共に得物を取り出すのが、音と動きで分かる。
今回はこちらから合図を示してやろうと、彼は狼の怪物らしく、牙を剥き出して咆哮した。
すると、呼応するようにドラゴンも咆える。
再戦が始まった。
炎で攻められるより先にと、キャスは真直ぐに敵との距離を詰めにかかる。相手の口元に気を払っていれば、火炎を避けるのは難しくない。
仰々しい咢が開かれることなく、キャスとドラゴンの距離は縮まっていく。
ところが、接近すれば爪や牙の攻撃が来るものと予想していたのだが、敵は以前に無い攻め方を選んだようだった。
その翼をはためかせ、上空へと飛び上る。そして、上空から火球が放たれた。
相手の真下を通り抜ける形でキャスはその炎と、それが地面にぶつかって巻き起こる爆炎から逃れる。
続いて敵は上空を旋回し、低い位置を飛びながら、真上から火炎の息を撒き散らしてきた。
その攻撃を、飛行の軌道から遠のいて躱してみせる。
炎熱と爆炎は前にも見た攻撃だが、それを飛びながら放たれてしまうと、反撃が難しかった。
「ちょっと、どうすんの?」
背後から声がかかる。
前回は周りを尋常でない大きさの木々に囲まれている分、飛ばずに戦っていたのかもしれないが、今回は悠々と両翼を活かして戦っているようだ。
自分も空を飛んで戦おうかと一瞬ばかり考えるが、恐らくそれは不利である。飛行の能力まで行使しながらドラゴンと渡り合えるだけの異能を発揮できるかと問われれば、流石に無理。人魚とは訳が違うのだ。
『落とす』
少女に答えながら、キャスは町の住人達に心中でこれから用いる手段を詫びた。多分、戦いが終わった頃には、景色も相当に荒れ果てたものになっているかもしれない。
「ちょっ……」
手ごろな一軒家目がけて異能を行使する。要される力の量に比べイメージ自体は容易で、咆哮を上げながら家を全力の念力で引っこ抜いた。
ミセリアから戸惑ったような声が聞こえるが、無視だ。
地面から引き剥がしてしまうと石造りの家であっても案外容易に操れるらしく、キャスは再び放たれていたドラゴンの火球を躱してから、もう一軒ばかり家屋を調達する。
合わせて二つの建物が、彼の武器として空中に浮遊していた。
それらを上空のドラゴン目がけてぶつけにかかる。相手が地上にいる状態であればこの程度で手傷を負わせるに足るのか疑問だが、空という不安定な場所から叩き落とすだけであれば難しくないはずだ。
一方、相手はこちらの狙いに気付いたというのか、それとも単に不審な動きを見せた物体を排除しようというだけなのか、地上のキャス達から浮かび上がった建物に向けて、攻撃の対象を変えてくる。
建物の片方に向け、火球が放たれた。
命中すれば家の一軒程度、訳なく破壊する攻撃だが、念力による操作は翼による飛行以上に動きに融通が利く。攻撃の軌道を回避しながらドラゴン目がけて移動させるのも難しくないのだ。
キャスは先ず、建物の片方を空を飛ぶ敵の側面から叩き付けた。ただ、その程度の単純な動きであれば、ドラゴンの側も躱してみせるのは簡単に想像できる。事実、その通りになった。
側面からの攻撃を、敵は翼をより強くはためかせ、飛行の高度を一気にあげることによって回避。だが、彼が念力によって引っこ抜いた家屋は一軒だけではない。
ドラゴンが最初の攻撃を避けきった瞬間、キャスはその頭上から残るもう一軒を叩き付けた。
そのまま家を地面に向けて勢い良く移動させることで、下方のドラゴンごと地上に叩き付ける。家屋が砕けて、土煙が舞った。
その煙の中に向け、先程躱されてしまった方の建物も突っ込ませる。
二軒目の建物も、大きな音を立てて砕け散った。
『ほら、今のうちに』
あの強敵がこれで倒れる訳もなく、キャスはこの隙を逃さないようにとミセリアに呼びかける。
「……っ!」
一呼吸分の溜めがあった後、彼の背中から勢い良く投擲用のナイフが放たれ、ドラゴンがいるはずの空間へ飛んでいった。当たっても鱗に弾かれて終わりだろうが、それでも呪いの力自体は発揮されるのだとか。
粉塵の中にミセリアの攻撃が消えていった後、風が強く吹いて煙が霧散する。露わになった敵の足元に転がるナイフから、きちんと命中したらしいことが窺えた。
敵は家屋の衝突も呪いの影響も窺わせない雄々しさで、こちらを睨んでいる。ミセリア本人からも言われていたが、やはり一撃程度では、彼女の魔法も効果を発揮してくれないようだ。
宙から引きずり落としたことにより、いよいよ、地に足をつけての接近戦である。
『風の魔法が来ても、振り落とされないように』
背後に声をかけ、ドラゴンへと駆け出した。前回の経験上、接近すれば炎のみならず風の力まで襲ってくることになるので、一層の注意が必要だ。
先ほど上空へ逃げられた時と同じく、正面から一直線の接近。今回も、炎による迎撃はやって来ない。代わりに、鋭く大きな爪が襲い来る。ドラゴンが右の前足を振りかぶり、前回の経験から、多少回避した程度では風圧に吹き飛ばされることが察知できた。
手前を薙ぎ払うように振るわれた右爪を、キャスは向かって右方向へと回り込むように疾走の軌道を変えることによって躱す。動き自体はこちらの方が速いため、物理的な攻撃を避けるのは難しくない。攻撃が巻き起こした風圧も、流石に敵の側面に退避してしまえば届くことはなかった。
ドラゴンの一撃を躱しきったと同時に、背中のミセリアが追加の一刀を放つ。硬い鱗を貫き得る威力ではなく、呆気なく弾かれていったが、それでも魔法の効果は乗っているはずだ。
キャス自身も攻撃を回避した直後、ミセリアのナイフが標的に当たるか当たらないかといった頃合いには既に、自身も一撃を加えるべく相手の脇腹目がけて跳躍していた。
しかしながら、無防備な腹部の下に到達した瞬間、僅かに早く敵の動きが間に合ってしまう。
ドラゴンが上体を起こし、後ろ足二本で立ち上がる格好になってしまったため、キャスの眼前から敵の身体が消えてしまった。代わりに通常よりも高い位置に来たドラゴンの頭が見下ろしてくる。
黄金の巨体が屹立し、こちらを見下ろしてくる様は圧巻だ。気圧されたのか、見惚れたのか、本来ならば間を置かず足元に攻め込んでいたはずの所を、ほんの少しばかり動き出すのが遅れる。
おかげで、予知していた攻撃を躱すのにまで遅れてしまった。
ドラゴンの翼が風圧を放ち、キャスは斜め上から烈風を叩きつけられる。地面を強く踏みしめて耐えながら、背負ったミセリアが吹き飛ばされてしまわないことを切に祈った。
だが、二人して引き剥がされることなくその場で風を耐え抜こうとするも、それで攻撃が終わるわけではなく、風圧を受けて硬直しているこちらを目がけて敵が追撃の炎を発しようとしていた。
強風が過ぎ去った刹那、頭上から灼熱の吐息が降り注ぐ。
キャスはこれを左右や後ろではなく、前に進むことによって回避した。直立したドラゴンに対し、その足元を通り過ぎてしまえば、流石に火炎が及ぶことはないだろう。
尻尾に焼けるような熱を感じながらも、何とか攻撃を潜り抜けることに成功。そして同時に、自身の爪が届く範囲に敵の身体の一部を捉える。地につけられ、その巨体を支えている、ドラゴンの左足だ。
キャスの右腕がそれを深く抉る。ここまで戦ってきて漸く、直接的な攻撃が相手に入った瞬間だ。
血の赤色と鱗の黄金が宙に飛び散る。硬い、硬い手応えだった。
しかし、この攻撃で多少は相手が怯むかと期待するも、そこまでの痛苦を与える攻撃ではなかったのか、抉られた肉から血があふれるのも構わずに今し方一撃を加えた足が持ち上がる。
普段四つ足で移動するはずの相手が片足一本で立ち上がるという無茶な体勢から、足元のこちらに向けてその足を振り下ろしてきた。後ろに跳び下がって躱すが、予想に違わず烈風による追い打ちにあう。自身が望んだ以上に、吹き飛ばされて後方へ。
他方、負傷した足で地面を思いきり踏みつけたドラゴンであるが、どうやら流石に堪えるものがあったのか、後ろ左足から崩れるようにして転んでいた。
飛ばされたキャスが体勢を立て直し、この機を逃さないようドラゴン目がけて駆け出す。
ただ、相手も痛みにのた打ち回るといった悠長な真似はせず、前足のみで素早く身を起こし、こちらを迎え撃つための最低限の準備を整えていた。
正面から接近するキャスと、迎え撃つドラゴン。再び振り出しに戻ったかのような構図であるが、相手が負傷し、尚且つミセリアの魔法の影響も蓄積している一方で、キャスとミセリアは全くの無傷であり、これといって激しく消耗している部分もない。状況は、確実に有利になっている。
「もう一回、あの足に近づけない?」
駆けるキャスに向け、背中から声がかかった。何か考えでもあるのかと、その要望に応えるべく疾走の軌道を変え、側面に回り込もうと試みる。敵も完全に起き上がっているわけでなく、負傷した足は地面に投げ出されるかのような格好になっていることから、どうやら中々に攻撃が効いていたらしいことが見てとれた。機動力の落ちた相手に対し、側面に回り込む程度であれば、然して困難なことではないはずだ。
途中、ドラゴンから火球が一発跳んでくるが、今更喰らうような攻撃でもなく、あっさりと左足に向けて接近していく。
すっかり相手の炎が届かないような位置にまで回り込んでしまってからも、ドラゴンがその身を起こそうとする気配はなかった。
些かその様子に不審を抱きながらも、キャスはミセリアのナイフが間違いなく当たる位置にまで近づいていく。
黒い体毛に覆われた肌で、通り過ぎていく風を感じながら走った。
そのまま、背後からナイフが放たれて、ドラゴンの傷口に刺さる。
『直接刺さると、効果も違うの?』
多少の余裕を感じ、ミセリアへと異能で問い掛けた。
「うん。っ――!」
ところがそれも油断に過ぎなかったようで、背中から返答が聞こえだしたところでドラゴンからの一手が訪れる。
かつての戦いでも一度だけ目にした攻撃。敵の尾が地面を叩く。キャス自身を直接に狙ったものではなく、そこからはまるで離れた位置を的にしたものだった。そして、ドラゴンが地を打ち据えると同時に、そこから大きな裂け目が現れる。
前回の時はキャスへの足止めとなったその攻撃であるが、今回の亀裂が生じたのは彼の足元。右足と左足の間を縫うように一直線の谷が生じたのだ。
「ちょっ――――――!」
地面がほんの一瞬で左右に分かれていく中、キャスはどちらの地面にも上手くしがみ付けず、その場に取り残されてしまう。つまり、亀裂の間に落ちていった。背中のミセリアから悲鳴を上がる。
キャスは裂け目の中で異能を発揮し、宙に浮いて落下を止めた。飛行は未だに得意ではないが、それでも以前に比べれば遥かに良くはなっているため、ここから地上に戻るくらいは問題ないはずだ。
そうして上に向かおうとした彼だったが、上空からさらに追い打ち。烈風が打ち付けられたのだ。崖の淵からこちらを除いたドラゴンが羽ばたき際、ついでのように放った風だった。上昇しかけていたはずの身体が一気に谷の底にまで叩き落とされ、亀裂の根元に四肢をついて相手を見上げる。
裂け目の上を飛ぶドラゴンの姿が、そこにあった。飛行の軌道を見るに、谷の上を添うように飛んでくるようで、そのまま火炎でも吐かれてしまえば、それは亀裂の中をすべて焼き払う攻撃となるだろう。左右を地に挟まれたこの状況では躱す術もない。
「……やばくない?」
同じく状況を察したミセリアが、背後で呟いていた。
『分かってる』
キャスは谷からの脱出よりも、来る攻撃への対処を優先させる。自身を挟み込む大地の一部を念力で引き剥がし、自身の頭上部分の谷を塞いでみせた。炎に対する土の盾だ。
「熱っ……」
彼が用意した盾を熱しながら、ドラゴンの空襲が通り過ぎていく。土が塞いでいなかった部分から谷へと流れ込んできた炎が、谷底の空気を熱していた。
『大丈夫?』
「平気」
攻撃が止むと同時、すかさず盾を地上にどかして、自身も異能で浮遊し、裂け目から脱出。地上に戻ると、ドラゴンは追撃の様子も見せずに、同じく翼をたたんで地に足をつけてこちらを睨んでいる。
相手の呼吸が幾分か浅くなっている気がした。
「おっ、効いてきたみたいだね」
僅かに、ドラゴンから衰弱の気配が見てとれる。谷にいる間に追撃が来なかったのは、それを為すだけの余力がなくなってきているからか。
今が好機と見て、キャスはドラゴンに向け、何度目かの正面からの接近に踏み切った。
それに合わせ、相手側の右爪も振り上げられる。先程も全く同じ光景があったが、その時に比べ、かなり力のない様子だ。
キャスはその敵の弱体化ぶりを目にし、ここで勝負を決定付ける賭けに出た。敢えて振り払われる前足を躱すことはせず、相手の攻撃に合わせて自身の左腕を振りかぶる。
迫りくる一撃に対し、左手の甲を思いきりぶつけ、迎え撃った。衝突の瞬間、強く地面を踏みしめる。
ミセリアの魔法による弱体化によって、ついにドラゴンの膂力に対し、キャスの人狼と異能の力が辛うじてだが、正面から上回った。相手の右前脚が撥ね退けられる。
反面、キャス自身も相手の肉体による攻撃から僅かな遅れでやってきた風の魔法に飛ばされてしまった。それも前足を払いのけた際の強烈な反動を受けていた最中のことだったため、満足に対応できなかったのである。攻撃に対する見通しが甘かったようだ。
地面に倒れ込む際、背負った少女を潰さないことに全神経を注ぐ。
何とか、背中から倒れることだけは回避した。
地面に両手足をついた体勢から、ドラゴンの姿を確認する。相手もまた、既に体勢を整え直していた。
ただ、向こうが次の動作に移ろうとする気配がない。深く呼吸をしながら、こちらを見下ろしているだけだ。
気のせいか、その赤い瞳は既に、静謐なものとなって見えた。
その感覚を信じ、キャスは大きく後ろに一度、二度と飛び下がって行って、ドラゴンと距離を取る。
正面から彼と向かい合う位置取りになるのは、これで何度目だろうか。
根拠は勘でしかないが、キャスにはここから相手のとる行動が確信できていた。
「……どうしたの?」
不審に思ったのであろうミセリアの問い掛けには答えず、一心にドラゴンの赤い瞳を、金色の瞳で見つめ返す。
「ちょ、ちょっと!」
するとドラゴンが再び翼で、空へと飛び上った。その風圧を受けながら背中の少女が慌てる。
そうして、相手は高度を上げて何処かへと飛び去って行く。黄金色の鱗が現れた時と同様に日の光を反射しながら飛ぶ姿は、戦いの消耗や負傷があって尚、まるで色あせることなく美しかった。
一連の様子を見上げてる最中、前回の戦いの終わり際のことが記憶の中から思い返される。
キャスは、敢えてドラゴンに追撃をかけることはしなかった。
「………………良いの?」
背中から問い掛けられ、キャスは変身を解いて元の姿へと戻る。
人の格好になると、ミセリアはこちらの首に手をまわして、背中にぶら下がる形になっていた。
彼女の手が離され、背後で地面への着地音が鳴る。
「うん。向こうが戦いを収めるつもりなんだって思ったら、これで良いかなって」
「でも、折角あそこまで追い詰めたのに。それにもしかしたら、またどこかの町が襲われるかもよ?」
キャス自身、正しくミセリアの言うことに道理があることは分かっていた。
「そうなんだけどね…………。個人的にはこの町を奪還できたことと、何より勝ったっていうだけで十分だし、あそこで追撃をしてまでその不安に対処しようとは思えなくて」
正直、この町を取り戻してやろうというのも、責任感というよりは同情心、憐みから来ている向きが強い。再び今回のような事態が生じる可能性は否めないが、関心がなかった。人として問題のある態度とは思うが、それが本心である。
「それに、負けを認めて立ち去るつもりの相手に攻撃したら、この戦いの価値まで落ちる気がしてさ。………………分かるかな?」
この感覚を理解してもらえるだろうかと、少女を見やった。表情からして、納得はされていなさそうである。
ミセリアは腕組みをして、考え込むように俯いていた。
暫くの間があって、盛大なため息がつかれる。
「ごめん、あんま良く分かんないや」
「……怒ってる?」
一緒に戦っておきながら、独断で敵を見逃したのは事実だ。
「ん? あたしは殆ど背中にくっ付いてただけだし、別に怒ってないよ?」
申し訳ない気持ちで尋ねてみると、どうやら気分を害してはいなかったようで、平素の愛らしい表情で見上げられた。
「ただ、キャスが言ってる感覚は分かんないや。ここでドラゴンを倒しておけば、お金や名声だって得られただろうし」
どうやら、それらをみすみす逃したこちらの心境についてのみ、単純に理解しかねていたらしい。
「いや、人狼が目立つのもどうかな……。自分たちがしたことのツケを払っただけだし」
「ふうん」
それから、ドラゴンと戦っている間に些か損壊具合が増してしまった町の広場を見渡す。
「思ったよりは、周りに被害を出さずに済んだ……かな」
「ドラゴンと戦った割には、ね」
地面が避けた影響で、一緒に引き裂かれている建物。火球の影響か、壁の崩れている建物。ちらほらと目につくが、何となく、ドラゴンと戦った上での事と思えば、被害は抑えられた方であるような気がした。
「さて」
それらを見回して、キャスは一つ声を上げる。
「ギルドに出されてた依頼だと、報酬はここに残されてる財産から支払われる予定だったらしいけど……」
「そうなの?」
「うん。支部長と偶然話してね。その時に聞いた」
「へえ……」
彼女もまた、頷きながら周囲を見渡し始めた。どうやら、こちらの言いたいことを察したようだ。
「報酬が目の前にあるね」
少女の声で、呟かれた。
「ギルドは通してないけどね」
「そっちがその台詞言うの? ずるくない?」
ミセリアと揃って笑う。
「ごめん、ごめん。それじゃあ、悪いけど、ちょっとだけ拝借しちゃおうか」
「あ、泥棒だー」
「働いた分だって。貰うのは壊れてない、大きな家からにしようか」
「しょうがないなー」
「さっきから白々しくない?」
「そんなことないよー」
そんなことを言いつつ、二人して歩き出した。大元を辿ればドラゴンがここに来た原因に自分が絡んでいることは否定できないが、それはそれ。ただ働きで終える程の責任までは感じていなかったらしい。ミセリアも、ギルドを通して正式に依頼を受けた訳でないものの、ドラゴンを追い払った相手に支払われるはずであった物の一部を拝借することにまで口は挟まないようだ。というより、完全に乗り気。
「帰り道は、また背中に乗っけてね」
「え?」
「手伝ってあげたんだし、良いでしょ? 後、泥棒さんの口止め料。まさか、こんなところで誰かに見られることもそうないだろうし」
「まあ、仕方ないか。それじゃ、そっちの報酬はそれだけでいいんだね。口止め料を取るくらいだし」
「いや、それは……」
「冗談だって」
逸らされる目を可笑しく思いながら、そう告げる。
「それじゃあ、背中に乗せてあげるよ」
「やった。あの毛並、結構触り心地良いんだよね」
「そうなの? 自分じゃ、よく分からないけど」
「割といい感じだよ? ほら、早く」
促されるまま、キャスは再び人狼へと姿を変え、小さな女の子を背中に乗せるという怪物としては極めて締まりのない姿へと戻り、のっしのっしと町中にある家の物色へと出かけていった。




